ウィローは一度寮に引き返し、十分後、大きな模造紙を一巻き手にして戻ってきた。テーブルの上でさも得意げに広げるので、いったい何だろうと覗き込んでみると、驚いたことに、ホグワーツ城を除いたサニーデール全域の地図だった。マグルの制作したものだ。複雑に入り組んだ地下水道の順路が細部までしっかり書き込まれている。
 バフィーはハリーやザンダーを押しのけ、必死の思いで模造紙の上に覆い被さった。毛細血管のような地下道を中央から指で辿って行くと、ひとつめぼしい順路を見つけた。
「これだわ」
 ウィローはバフィーの指した点をしげしげと眺めながら頷いた。
「…ちょうど墓地の下を通ってる」
「でも、出入り口は?」
 痛いところを突いたザンダーの質問に、みんな黙り込むしかなかった。
「すると——都市計画は全て公開されてるのか」
 背後からみんなの手元を覗き込みながら、ジャイルズが感心して聞いた。ウィローは一度「ええ」と返事をしたが、少しきまり悪そうに「ある意味では」と言い足した。
「……前に、マグルの警備会社に見学に行ったことがあって、その時これを拝借したの。色々興味深くて…」
「なんていけない子だ」
 ザンダーは呆れと尊敬の入り交じった顔をした。
「こんなこと時間の無駄だわ!」
 いてもたってもいられなくなり、バフィーはテーブルを離れた。ジャイルズが目を上げ、小さく息をついた。
「そう思い詰めるもんじゃない」
 バフィーは信じられないとジャイルズを見つめ返した。
「あたしに『準備不足』と言ったのはあなたよ!でも、もっとひどかった。楽勝だって思ってたのに、あいつがどこからともなく現れて——」
 ルークが現れたときのことを思い返し、バフィーはハッとして口をつぐんだ——どこからともなく?そういえば奇妙だ。あの霊廟に入り口はたったひとつしかなかった。それなのに、あの男、いったいどこから……?
「どうした?」
 急に黙り込んだバフィーを訝しみ、ザンダーが声をかけた。
「……あのルークってやつ…後ろから来たわ。入り口を見てたのに、その私を後ろから襲ってきた!地下への入り口はあの御霊屋だわ!あの女、ジェシーをつれてあそこへ戻ったのよ!」バフィーは自責に駆られて頭を抱えた。「もう、あたしってなんってバカなんだろ!」
「そうと分かったら、いざ出撃だ」
 この期に及んでザンダーが言った。バフィーは一瞬何と言おうか迷ってしまった。
「あ……あなたはダメ。来ないで。ここからはスレイヤーに任せて」
「そう言われると思ったよ」
 ザンダーは目に見えてしょげ込んでいた。
「これはすごく危険なことなのよ」
「どうせ俺は、役立たずの、ヘナチョコ野郎さ」
 ザンダーは力なく笑いながら戻って行った。それと入れ替わりに、今度はハリーが立ち上がった。
「ねえ、バフィー。どうしてもダメ?」
ハリー!——」
「君の使命だってことは分かってるよ。けど僕たちだって、ジェシーを放っとけない。友達なんだ」
 驚くほど深いグリーンの瞳が、すがりつくように見つめてくる。バフィーが困り果てていると、今度はウィローが追い討ちをかけるように呼びかけてきた。
「バフィー。私、暗くて怪物がウヨウヨしてるところに行きたくはないけど…でも、協力したいの。どうしても」
「じゃあ、こっちを頼む」ジャイルズが名乗り出た。「『収穫の日』を調べてるんだが、これはどうやらあらかじめ予定されている大虐殺を意味する——言葉らしい。だが、まだ分かってない点も多いから、ここのモンスターを使って、情報を集めて欲しいんだ……」
 みんながキョトンとしたのは、ジャイルズの口から「大虐殺」という恐ろしい言葉が出てきたからというだけではない。ジャイルズは図書室中の目という目が自分に注がれていることに気づくと、ちょっぴり恥ずかしそうに目を泳がせた。
「今のコメントは……田舎的すぎたかな」
 バフィーは思わずふき出した。「新世界へようこそ」

 時計の針が九時十分前を指した。そろそろ本当に行かなくては。バフィーは近くにいたロンにタオルを押しつけて、「じゃあ」と図書室の出口に向かった。
「行ってくる。生きてたらつれて帰るわ」
「くれぐれも気をつけて」
 ジャイルズが言った。バフィーは足を止め、答える代わりにほほ笑みを残して、図書室を立ち去った。
†††
 もうすぐ一時間目の授業が始まる時間帯だ。朝食の席から引き上げた生徒達は、山のような教科書を抱えてそれぞれの教室に向かっている。バフィーはなんだか後ろめたくて、大きめのサングラスで顔を隠し、急ぎ足で校門を目指した。ところが、あと一歩というところで行く手を阻まれてしまった。ネットリした陰湿な声に呼び止められたのだ。
「どこへ行くつもりかね?」
「えっ?」バフィーはギョッとして振り返った。「あのー、私?」
 一目見て、厄介なのにつかまってしまったと悟った。ギトギトした脂っこい黒髪、鉤鼻、土気色の顔をした男の先生が、意地悪そうな表情を浮かべて校門の傍に寄りかかっている。
「これは、これは。ミス・サマーズ」
 先生はバフィーの顔を見たとたん、全て見抜いたぞとばかりに目をギラつかせた。
「まさかとは思うが……城を抜け出すつもりなのかね?」
「そんな!まさか!」バフィーは慌てて校門に手をついた。「あたし——ただ柵を見に来たんです。だってこれ、すごく立派なんですもの」
 我ながら下手な嘘だと思った。案の定、先生は騙されなかった。
「前の学校を非行で退学処分になった上に、もしまた転校二日目にして早くも授業をサボったとなればどうなるのか、君のその空っぽの頭では想像することもできんのかね?それともそうなっても構わんと?」
 バフィーはポカンと間抜けな顔で先生の嫌味を聞いていた。あまりにポカンとしていたので、先生の話が終わってもまだ呆けていた。先生はその顔を都合良く解釈して悦に入っていたが、実はバフィーにはこれっぽっちも通用していなかった。たっぷり五秒間ぼうっとした後、突然先生に向かって呼びかけた。「ジャイルズさん!」
「……何?」
 先生はすっかり肩すかしを食らった様子だった。バフィーはサングラスを外して先生に詰め寄った。
「ジャイルズさんに頼まれて——あの、本を買いに行くんです。ちょうど授業がないし、あたし本が好きだから。成績表にあったでしょう?」
「ルパートがねぇ……」
「そうです!」
「左様。田舎ではそういうこともあるかもしれんな」
 先生はローブから杖を引っぱり出し、校門に向かって一振りした。すると、豪勢なロートアイアンの城門は厳粛な音を立てて閉ざされてしまった。
「だが、ここはホグワーツだ。学期が終わるまで、城を離れることは許さん。分かったかね?」
 バフィーは弱り果てて、「ええ、はい…」と頷くしかなかった。
「さすが、ダンブルドアが入学を許可した生徒だ。分別がある上に、しっかりと地に足がついている」
 最後の褒め言葉はどう聞いても皮肉だとしか思えなかった。先生は長いローブを翻し、バフィーを一人残して城の中へ引き返していく。バフィーは額にサングラスを乗せて先生の背中を見送ると、無言で足元を見下ろした。
 足は軽々と地を離れ、一瞬の後、バフィーは見事城門の外側に着地していた——脱出成功。
†††
 バフィーが地下水道を調査しに行っている間、リサーチ組の四人は『魔法薬学』の授業に向かう道すがら、『収穫の日』の兆候にふさわしい要素を簡単にリストアップしてみた。ジャイルズによれば、生物に害をもたらす現象を片っ端から挙げていけばほとんど間違いはないのだという。
「殺人、死、災害……他には?」
 ウィローが羽根ペンを止めて聞いた。
「超常現象はどう?それと、自然災害は書いた?」とロン。
「地震、洪水……」
 するとすかさずザンダーが叫んだ。「カエルの雨!」
「ああ…」ウィローは忘れてたとばかりにノートに書きとめた。
「カエルの雨なんて、あんなの新聞に載ってるのかなあ?」
 ハリーが不安そうに眉をひそめた。しかしウィローは自信があるようだ。
「もし何かあったら、『日刊予言者新聞』で調べれば必ず出てくるわ。とにかく、できるだけ情報を集めなきゃ」
「その間、俺はただアホ面して見学か」
 ザンダーが自嘲した。
「アホ面じゃなくて、ただの見学よ」ウィローが正した。「バフィーはあなたを心配してる。私だって同じよ」
 ザンダーは肩をすくめて賑やかな廊下を見渡した。
「ほんと、嘘みたいだよ。昨日まではテストにビクついてりゃ済んだのに、今日は『カエルの雨』だぜ?」
「ほんとね。みんなにとっては昨日も今日も同じなのに」
 ウィローが物憂げに頷いた。同じグリフィンドールのレノーラ・ハーグリーヴスが、スリザリン生の冷やかしから逃げるように地下の教室に向かって行くところだった。つい昨日までは、自分達も彼らと同じだったのに——ザンダーは戸惑ったように首を振った。
「俺たちは、誰も知らない秘密を知ってるんだ」
「そうよ。誰も知らないのに自分だけが知ってる。それが『秘密』だわ」
 ウィローが言った時、城中に予鈴が鳴り渡った。四人は音源を探すように顔を上げ、互いに顔を見合わせた。
「あー……授業出た方がいいぞ」
 ザンダーがウィローに向かっておずおずと言った。
「あなたたちもよ。授業に出た方がいいわ」
 男の子たちは「ああ」と笑ったが、ウィローの目にはとてもそう思っているようには映らなかった。
「バフィーなら大丈夫。何があろうと、彼女ならやってのけるわ」
 ウィローは強く言い聞かせたが、ザンダーの「ああ、そうだな…」はまるで生気が込められていなかった。
†††
 『禁じられた森』を南西に浅く抜け、昨晩の墓地に着くと、バフィーはまっすぐ目的の霊廟に向かった。墓地は朝になっても相変わらず不気味さを拭いきれていなかったが、昨晩に比べればかなり居心地のいい方だった。
 錆びついた扉を開けると、埃っぽい部屋の中に白い光が射した。昨日の乱闘を思い出し、体が自然と強張った。警戒して中を見渡してみたが、とりあえずバフィーの他には誰もいないようだ。正方形の霊廟の中は、ほんのりと朝日が射し込んでいるだけで、今はあるべき静寂を取り戻している。バフィーはそっと階段を下りた。踵が音を立てて石畳を打つ。ちょっとだけネズミの鳴き声に飛び上がってしまったが、それ以外は何の気配もしない。
 部屋の一番奥に、予想通り、頑丈に閉ざされた扉があった。黒い質素な扉だった。鎖を巻きつけ、南京錠で固定されている。バフィーは成すすべもなく立ち往生を食らい、うんざりしたように言った。
「——ここのキーは持ってないわよね?」
「俺は彼らに歓迎されてないからな」
 バフィーは振り返った。青年はジャケットからはみ出したシャツの袖をいじりながらバフィーを見つめていた。
「どうして?」
「嫌われてるんだ」
 青年がけろりと答えた。
「そんなことありえないわ!」
 バフィーはわざと白々しく突っ返したが、青年は無視して話を進めた。
「いずれ君がこの場所を突き止めるのは分かってた。本当は——もう少し早いんじゃないかと思ってたぐらいだ」
「待たせて悪かったわね。あぁ、オッケー」バフィーは天井を仰いだ。「もし、このクリーピー・ショーに今後レギュラーで出演するつもりなら、名前、教えてくれない?」
「——エンジェルだ」
 青年が答えた。予想を裏切る、清楚可憐な名前だとバフィーは思った。
「『天使エンジェル』!いい名前ね」
 バフィーはそっけなく言い捨て、さっさと先へ進もうと踵を返した。
「そっ……そこは、やめといた方がいい」
 エンジェルが柄にもなく慌てた声を上げた。バフィーはイラついてエンジェルを睨みつけた。
「あたしの勝手でしょ?」
「今は危険を冒すべきじゃない。今夜が『収穫の日』だ。君が阻止しないと、マスターが復活する」
 また『収穫の日』だ。この男、いったいどこまで人任せにする気だろう——バフィーのイライラはいよいよ沸点に近い地点まで到達しようとしていた。
「そんなに『収穫の日』が気に入らないんなら、自分で止めたら?」
「怖くてダメだ」エンジェルはせせら笑った。
 これ以上は時間の無駄だ。バフィーは立ちはだかる鉄扉を力任せに蹴破った。鎖がちぎれ、扉が弾け飛ぶ音にまじって、エンジェルの嘲笑が聞こえた。
「行けば思うつぼだ」
「中に友達がいるの。そりゃあ、まだ知り合ったばかりだけど、『友達』がどんなものか分かるでしょう?」
 エンジェルは答えなかった。急に逸らされた暗い目を見て、バフィーはアッと息を呑んだ。
「……そんなに難しい質問?」
 ほんの冗談のつもりだったのに。バフィーは急に自分の軽はずみな言動が恨めしくなった。沈黙が突き刺すように痛い。ややあって、エンジェルは再び口を切った。それはバフィーを蔑む類の言葉ではなかった。
「地下道に出たら、東へ向かって進め。そうすれば奴らに会える」
 小さな、消え入りそうな声だった。バフィーは礼も言わず、ただまっすぐにエンジェルの薄幸な顔を見つめた。
「幸運を祈って」
 しかし、エンジェルは相変わらずの読めない顔つきのまま微動だにしなかった。バフィーはエンジェルに背を向け、ゆっくりと暗闇の中に足を踏み入れた。

 バフィーの背中が見えなくなってから、エンジェルは微かにささやいた。
「——幸運を」