めえ めえ 黒羊さん
羊毛いくらかございます?
はい はい ふくろにみっつぶん
ひとつは国王さまのため
ひとつは夫人にさしあげて
手元に残ったさいごのひとつは
小道のむこうの少年に
 ほんの少し目を離した隙に、食べかけのステーキ・アンド・キドニーパイが宙を舞っていた。付け合わせのフライドポテトやコーンの粒がバラバラと飛び散り、とろりとしたグレイビーソースがテーブルクロスやフローリングのあちこちに叩き付けられる。ナミが「あっ」と息を呑むより早く、銀のスープ鍋が空を切って振り下ろされた。

こんのクソゴム何ナミさんの分にまで手ェ出してやがんだ!!

 中身のたっぷり詰まったキドニーパイは、遠くから伸びてきた船長の手に攫われていたのだった。見れば、頬を鞠のように膨らませた麦わら帽子の少年が、コックに殴られた頭を抱えてモゴモゴ弁解している。モンキー・D・ルフィ——まがりなりにもこの一味の船長である。
「あっへラウィおハイおおうあえはほうらっはんはをん!!
分かるかァ食ってから喋れ!!
 スーツに身を包んだ優男風の青年が、船長に向かってガミガミがなり立てている。彼は最近仲間になったばかりだが、この光景には早くも慣れてきてしまった。我が一味の船長は、普段は実に落ち着きと大人げがなく、食欲は底なしなのだ。
 ——まったく、もー…。
 ナミがこめかみに手を添えて小さく溜め息をもらすと、コックの青年が突然くるりと振り返り、まるでスイッチで切り替えたかのような別物の笑顔で、彼女にとびっきりの愛想を振りまいた。
「すまねェ、ナミさん。今代わりのパイ持ってくるからね~♡」
「ありがとう、サンジくん」
 サンジの笑顔に応えるように、ナミはニッコリ微笑んで見せる。明るいオレンジ色のショートヘアが太陽の光でキラキラ輝き、ブラウンの真ん丸い瞳が優しく弧を描く。
「あァ~♡今日のナミさんも一段とステキだ~♡♡」
 サンジは嬉しそうに体をくねらせた。
「こんな麗しのレディと航海を共にできるなんて、おれはなんっっっって幸せなんだ
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
「ったく…相変わらず朝っぱらから騒々しいな……ガキかお前ら…」ずいぶん大きな一口を頬張りながら、ロロノア・ゾロが不機嫌そうにぼやく。「朝めしぐれェ静かに食えねェのか?…幼稚だな」
 サンジはナミの魅力的な笑顔にメロメロだったが、ゾロの陰口を鋭く聞き咎めて、再び険しい顔をした。
うるせェてめェ起きてきてやっと喋ったと思ったら一言目がそれか」――そしてほとんど聞き取れない小さな声で、「クソマリモ」と吐き捨てた。短い緑色の髪が、まさにそっくりだ。
「聞こえてるぞ。ぐるぐるコック」
 即座にゾロが言い返した。サンジはまた顔をしかめる。サンジの顔の左半分は長い金髪で覆い隠されていたが、右側にはぐるぐると渦巻く特徴的な眉毛が躍っている。
「…てめェ喧嘩売ってんのか?三枚にオロすぞクソ野郎」
「やれるもんならやってみろ、アホコック。すーぐ挑発に乗りやがって」
「んだとォ?」
 サンジは空いた椅子にダンと足を乗せ、ぐいっと顔を寄せてゾロにガンつけた。しかしゾロは自分の頬に野郎の鼻がくっつきそうだろうが何だろうが、全くお構いなしに食事を続ける。そんなゾロの態度がますます癇に障ったらしく、サンジの顔つきはどんどん険悪になってくる。

「――おいゾロー、そんな悠長にしてると、お前もやられるぜ」

 二人の顔色を窺いながら、ウソップが慎重に口を挟んだ。ピノキオのように長い鼻を持った少年だ。ウソップの大皿は、コーンの粒をいくつか残してほとんど空っぽになっていた。言うまでもなく、ルフィにかすめとられたのである。
「なんだウソップ、情けねェな。お前もとられたのか?」ゾロが呆れた。「気ィ抜いてぼさっとしてるからそうなるんだ。日頃からもっと――」
 その時、視界の端をゴムのようなものが横切り、「いただき」という不吉な言葉を残して、まだ半分もあるパイの塊をかっさらって行った。
あ゛っルフィ、てめェ!!
 ゾロが慌てて手を伸ばすが、惜しくもあと少しのところで掴み損ねた。サンジとウソップはそれ見たことかと大笑いだ。
「『気ィ抜いてぼさっとしてるからそうなるんだ』…!!
「情けねェのはどっちだよギャハハハハ!!
うるせェてめェらぶった斬るぞ!!!
 ゾロが吼えた。鍛え抜かれた拳が照れ隠しにテーブルを殴りつける。いっぱいまで満たされていたグラスが驚いたようにひっくり返り、赤いチェックのテーブルクロスに赤茶色の液体をぶちまけた。
 これにはずっといつものことだと割り切って口を出さなかったナミも、いよいよ黙っていられなくなったらしい。

こらァアンタたちいい加減にしなさい!!

 雷でも落ちたかのような衝撃が走り、みんなピタッと静まり返った。
 彼女の怒声には男性陣を凍りつかせる力がある。
人の船好き勝手汚してくれちゃっていったい誰がこれ掃除すると思ってんのよ!?
 その迫力ときたら、揃いも揃って「これはルフィの船だ」と訂正するのを忘れてしまったほどだった。ナミは、ぎょっと静まり返った一同をグルリと見回し、憤然として、
「――サンジくんよ」と続けた。
「「「サンジかよ!!」」」
 ルフィ、ゾロ、ウソップは目玉を引ん剥いてつっこんだ。が、当のサンジは嫌がる気配もなく、寧ろ彼女が自分を指名してくれたことが嬉しくてたまらないという様子で、「はァ~い、ナミさん♡」と小躍りした。
「…いいように使われてるな、ラブコック」ウソップが呟いた。

「まァ、冗談はさておき――」
 ナミはコホンと小さな咳払いで仕切り直した。
「賑やかなのはいいけど、大事な船なら片付けや掃除のこともちゃんと考えなさいよね。あんまりぞんざいに扱ってると、船腐っちゃうわよ」
えー船腐るのか!? それはダメだ!!
 やっとのことで口の中のパイを片付けたルフィが、カッと目を見開いて絶叫した。
「サンジ後で掃除しといてくれ!!
「別に構わねェが、そのぶんメシの支度が遅くなるぜ」
「えーッそれも嫌だ!!
「嫌なら自分で掃除しなさいよ!!
 ナミの指摘は尤もなことだったが、ルフィの中ではどういう風に整理しても、その結論には至らなかったらしい。
「じゃあこうしよう次の町に着いたら、掃除が得意なやつを仲間にする
 その提案があまりにも突飛な物だったので、ナミは思わずずっこけた。ところが、そのアイディアは思いのほか男性陣には大受けだった。
「おそりゃいいな」ゾロがにやっとした。「船にいる間、ずっと寝てたんじゃ腕が鈍るからな。修行の相手になりそうな強ェやつがいい。戦力が多けりゃそれだけこの先の航海も楽になるだろうしな」
「確かに、頼りになる方がいいが」ウソップが腕を組んでうんうん頷きながら言う。「けど、人相の怖いやつは嫌だな…」
「そうだな。これ以上むさくるしいのはごめんだ」とサンジ。「仲間にするなら断然レディだ。できれば、そうだな、うーん……若くてかわいくて、こう、スレンダーな…」
 一通り意見が出揃ってきたところで、ルフィがまとめた。
「わかった。すっげェ強ェ戦闘家の美少女清掃員だな
いるかァんなモン!!
 一向に反対意見が出てこない中、ナミは一人、全力でつっこんだ。
***
 ——同時刻。
 メイベラ島フィリンシア王国。

「おい。聞いたか?」
 開店時間に備えて品出しをしていた八百屋の店主が、急に手を止めて話しかけてきた。ジムは入荷商品の梱包を解く手元に注目したまま、顔だけを彼の方へ向けた。
「何を?」
「第二傭兵隊。帰ってくるんだってさ」
 ぴた、と手が止まる。目を向けると、店主はおどけた様子で肩をすくめてみせた。
「おれもクリーニング屋の奥さんに聞いただけだから詳しいことは知らねェが、確かな話らしいぜ。遠征任務が終わったんだそうだ。しっかし、今回は随分と長かったよなあ。一体どれだけの人間を殺してきたんだか…」
 やれやれと首を振りつつ、店主は自分の品出し作業に戻っていった。ジムは開けかけの木箱に視線を落とし、物憂げに溜め息をもらす。
 ——そうか。帰ってくるのか、彼女…。
 凝った肩に手を置いて上を見上げる。頭上には、皮肉なまでに晴れ渡った真っ青な空が延々と続いている。

「ってことは……もうすぐ、か…」
***
 ——いい天気だ。今日もまた。
 空を見上げて思った。「あの日」と全く同じ色だと。
 船は威風堂々と帆を張り、波を掻き分けて予定通りの航路をまっすぐと進んでいる。潮風が頬を撫で、長い髪を爽やかに攫っていく。なんて清々しい。そして、なんて嫌味ったらしい。
 黒曜石のような両眼で静かに海を見つめる。目的の島は、もうすぐそこに見えている。あと一、二時間もすれば到着するだろう。もう少しで久々に故郷へ帰れるというのに、気分は晴れない。退屈なはずの船旅が終わってしまうのを惜しく感じる。降りたくない。船を降りたくない。いや、違う。帰りたくない。そうだ、帰りたくないのだ。街に戻れば、また苦痛の日々が始まる。そして——今度こそ、あの約束を。
 あの日交わした約束を、果たさなければならない…。
……イーヴィ…長……イーヴィ隊長
「っ!?」
 一人感傷に浸っていた女隊長は、突然背後から聞こえた呼びかけに驚いて飛び上がった。振り返ると、彼女より明らかに年上の男が心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?隊長。おれ、さっきから何度も呼んでたのに」
「あぁ、ごめん…ちょっと考え事をね」
「………………」
 隊員は一瞬何か言いたそうに口を開いたが、思いとどまってゆるゆると首を振った。
「…もうすぐ島に着きますけど。支度、済ませといてくださいね」
「……うん…大丈夫よ…」
 気のない返事をすると、彼女は再び船の外に目を戻す。海鳥が数羽ほど、郷愁を感じさせる鳴き声を上げて船を横切っていったところだった。

「 とどこおりなく 」