さらに2年前

 それは、島を揺さぶるような激しい嵐のことだった。暴風が無差別に吹き荒れ、豪雨は町を殴打し、高波は岩を削る。分厚い雲が空を厳重に覆い隠すので、正午を過ぎても夕方のような薄暗さが続き、町は目覚めるタイミングを完全に失ってしまった。人々は閉め切った家の中から空の様子を窺い、太陽が再び顔を出すのを今か今かと待ち望んでいた。
 午後三時頃。嵐は一向に去る気配を見せない。それどころかいっそう激しさを増していく。そんな時、一隻の船がどこからともなく現れた。荒波にもまれながら、横殴りの雨風をかき分けてやって来る。灰色の海景色に浮かぶ純白の帆には、気高き「海軍」の文字。しかしその船体は一風吹くたびに大きく揺さぶられ、今にもなぎ倒されそうだ。海兵たちは己の名誉に胸を張る余裕もなく、必死の形相で甲板を駆けずり回っている。
「島に船をつけるぞ!!あと少しだ、踏ん張れ!」
「おぉーッ!!」
 海兵の猛々しい声が波の音の切れ間に響き渡った。
 海軍船が港にゆっくりと停泊する様子を、ファーガスは傘もささずに見守っていた。
「ようやく来おったか」
 国王はゆっくりと呟いた。碇をおろした船の中から、白髪の大男が降りてくる。
「ご無沙汰しております」
 正義の字を背負った大男が老人に声をかけた。成人男性の二倍ほどもある体躯は恐ろしく威圧的だったが、その声はどこまでも深く、落ち着きをもたらす何かを持っていた。
「わざわざ出迎えてくださるとは、光栄です」
「お前さんが来ると聞いたんで、正直驚いたよ。海軍本部中将殿」
 国王は穏やかに笑いかけた。中将はちょっぴり照れくさそうにはにかんだ。その時、ファーガスは中将が手ぶらではないことに気がついた。丸太のような強靭な腕に、タオルにくるんだ何かを大事そうに抱えている。「ああ」——中将はファーガスの視線に気づくと、白いタオルを少しだけめくって見せた。女の子だった。まだ幼い。見たところ7歳か8歳くらいであろう。あどけない顔ですやすやと眠っている。
「女傑人の子だ」
 ファーガスは目を見開いた。にわかには信じられなかった。中将の腕の中の少女は華奢な身体を丸く縮こまらせ、雨の冷たさに震えている。
「“女傑の島”フローラ王国から引き揚げたとき、海軍船に乗り込んでいたらしいのですが……島に戻ろうとしたら、泣きじゃくって暴れ回って。大人の男十人がかりでようやく宥められました。詳しくは分からんが、どうやら相当な仕打ちを受けてきたようです。だが…種族が種族だ、途中で船から降ろすわけにもいかんと、仕方なくここまでつれてきたんですが…」
 この嵐の中、聞き耳を立てている者なんていないのに、中将は必要以上に声を落とした。
「このまま海軍本部に連れて行けば、おそらくこの子は囚われの身。戦争の道具にさせられてしまう。本部中将のわたしがこんなことを言うのもおかしな話でしょうが——どうしてもかわいそうで…まだこんなに幼いのに……」
 中将はグスンと鼻をすすった。頑丈そうな指が少女の白い肌をそっとなで上げた。
「……武器を持っとったんですよ。大人の身の丈ほどもあるでっかい武器を。この子らは…生まれた時から兵隊のように訓練されとるんです。まだ遊び盛りなのに……こんな子供を、海軍につれて行くなんて、どうしてもできんかった…」
 腕の中の子が小さく身じろぎした。震える大男の腕から、老人はそっと白い包みを受け取った。
「…なんと……」
 その先にふさわしい形容詞は見つからなかった。真っ白い肌をした幼子の寝顔は、老人の心臓をきゅっと締め付けた。
 女傑人?軍人?何をバカなことを。この寝顔を見たら分かる。ただの子供じゃないか。純粋無垢な心を持った、幼いただの女の子だ。この子が今学ぶべきは、武器の扱い方でも、人の殺し方でも、正義の在り方なんて大袈裟なことでもない。今、この子に必要なものは……。
「……分かった。わしが預かろう」
「え…!?」
 中将が目を丸くした。ファーガスは、やさしい老人の目で、眠り続ける少女の寝顔をじっと見つめていた。叩き付ける雨の中、その瞳は、まるで我が子を見つめる父親のような、慈愛と強さの光を灯していた。
「わしに任せてはくれぬか」
 少し、雨が和らいだ気がした。
「この子は、わしが責任を持って育てよう」


 数十分後、見知らぬ外国人の子どもを抱えて戻ってきたずぶ濡れの国王を見て、城の使用人達はこぞってこわばった顔をした。スタンリーの形相は特に険しく、王の間に現れたファーガスを一目見た途端、「おかえりなさいませ」の代わりに「元いた場所に返してきなさい」が飛び出した。
「いいじゃないか、スタンリー。ほーら見ろ、こんなにかわいい寝顔、見たことないじゃろ」
 ファーガスはタオルをそっとめくり、女傑人の顔を見せびらかした。スタンリーは露骨に嫌そうな表情をした。
「一体どこで拾ってきたんですか?」
「中将殿から預かった。女傑人の子じゃ」
「じょっ…——」
 スタンリーが一歩後退りした。その目はファーガスの腕の中の子供を、まるでピンを抜かれた爆発寸前の手榴弾でも見るような目つきで凝視している。
「女傑人…!?『預かった』って——」
「客室に連れていく。空き部屋があったね?」
 ファーガスは無視して話を進めた。真紅の玉座にそっと下ろしてやると、女傑の子は居心地悪そうに身じろぎした。
「空いてるには空いていますが……国王、“女傑人”ですよ!子供とはいえ…そんな危険な輩を城に連れ込むおつもりですか?使用人達を怖がらせることにもなりますし……」
「大丈夫じゃろ。そのうち慣れる」
 ファーガスはあっけらかんと言い放った。
慣れる?」スタンリーは眉根をよせた。「いったいどれくらいの間置いておくおつもりで?」
「中将殿と話し合ってな。この子はわしが城で育てることにした」
 一瞬、スタンリーの空気が凍りついたかと思うと、今度は怒ったアヒルみたいにガーガー言い始めた。
何バカなことおっしゃってるんですか国王!!!
「あーもーうるさい」
『うるさい』はないでしょう!ったく、あなたって人は、ちょっと出かけたと思ったらすぐこれだ!ろくな拾い物しないんだから…!!
「ちょいちょいそりゃ失礼じゃないかこの子に」
 大人げない言い争いが勃発したそばで、小さく呻く声が上がった。「……ん…」
「あっ、目覚ましたぞ!」
「ちょっ…国王!」
 引き止めようとするスタンリーを振り切って、ファーガスは少女の顔を覗き込んだ。長いまつ毛に縁取られた瞼が、ゆっくりと開くところだった。
 ファーガスは息を呑んだ。黒い、どこまでも黒い瞳。これほどまでに澱みのない純粋な黒は今までに見たことがなかった。深い、底なしの黒——瞼がばちっと開ききった時、その黒い両眼が驚いたようにファーガスを見つめ返した。ファーガスは何と挨拶をしたらいいか、言葉を見失っていた。
「……誰」
 思ったより気の強そうな声だった。そうだ、自己紹介をせねば。ファーガスは暢気に思いついた。
「わしはファーガス。この国のお——」
 ビュンッと空気を切る音がして、次の瞬間、ファーガスの足元に剣が刺さっていた。
国王!!」スタンリーが叫んだ。
 ファーガスは自分の腰を見下ろして「ほう」と声を洩らした。いつもぶら下げていた宝剣がいつの間にか鞘から抜き取られていた。今まで一度も振るったことがなかったが、案外斬れるものなのだな、と悠長に感心してしまった。
「私の武器は!」女傑人が怒鳴った。
「あー、落ち着け。ちゃんとある。海辺に置きっぱなしだがな」ファーガスは両手を掲げてどうどうとなだめた。「重くて運べなかったんじゃもん。あとでちゃんと運——」
「——国王!」
 広間の扉が撥ね開けられた。騒ぎを聞いた衛兵が武器を伴って駆けつけてきたのだ。
「お前達、よいからさがれ。別に平気じゃ——」
 とはいえ、彼らは一衛兵として、主君が剣を向けられているという非常事態を無視するわけにはいかず、武器を握り締めじりじりと近づいてきた。女傑人は床から剣を引き抜き、玉座の上で後退りした。さっきよりも警戒している。
「国王、後は我々が引き継ぎます。ゆっくりとこちらへ——」
「いいからもー引っ掻き回すな!あといちいち途中で遮るな!」
 じれったくなって声を荒げた、まさにその時、女傑人が足元を蹴って飛び出した。玉座がガターンと凄まじい勢いで倒れ、居合わせた使用人達がいっせいに悲鳴を上げた。女傑人は弾丸のように空気を突っ切り、中央にいた衛兵を狙って宝剣を振りかぶった——。
ストーップ!!!
 直後に耳鳴りのするような、とんでもない大声が鳴り響いた。女傑人が反射的に手を止める。剣先は衛兵の腹からわずか3センチ手前のところでピタリと静止していた。
「ハァ…ハァ…」
 ファーガスは肩で息をしながら、鋭い目つきで衛兵を睨みつけた。
「お前達……今すぐ、城の外へ出ろ」
「は?」
 一同が間抜けな声をあげた。ファーガスは変わらず真剣な目つきで使用人達を見回した。
「お前達もだ。少しここで二人きりにさせてほしい」
「しかし…!」スタンリーが口答えした。
「いいから、出て行け」ファーガスはくり返した。
 誰もが迷っていた。しかし、ファーガスの強い視線に気圧されて、やがて、一人、また一人と、顔に戸惑いを張り付けたまま解散していった。スタンリーは最後の一人になるまで決断を渋っている様子だったが、ファーガスが柄にもなく鋭い睨みをよこすと、仕方なく踵を返した。
 がらんとした王の間に、ファーガスと、険悪な空気を放つ女傑人の子だけが残された。ファーガスは軽く咳払いして表情を切り替え、ニッコリと愛想のいいほほ笑みを女傑人に向けた。女傑人の子は警戒心をむき出しにして剣を構えている。
「改めて自己紹介をしよう」ファーガスはなるべく穏やかな声で言った。「わしはファーガス。この国の王じゃ。もしよろしかったら、その手に握り締めている物騒なものを下ろして、お嬢ちゃんの名前を聞かせてくれんかね?」
 銀の切っ先がすらりと鼻先に向けられた。全身の筋肉がぎょっと縮み上がる。ファーガスは今の発言のどこに彼女の神経を逆撫でする要素があったのかサッパリ分からなかった。
「あー…」喉の奥から奇妙な声が出た。「それ、下ろしてくれんかね?この国では挨拶に剣は使わんのじゃ」
「中将はどこ」
「物資の補給を終えて島を出発したところじゃ。もうこの国にはおらん」
「嘘」
 冷たい刃が筋張った喉元に押し付けられる。ファーガスは小さく両手を上げ、痛みから逃れるように首を反らせた。
「ホントじゃ。剣を下ろせ——君のことは、海軍中将殿と話し合ってわしが預かることになった。だからここへ連れ帰ったのじゃ。彼もその方がよいと頷いておった」
 女傑人は何も言わなかった。相変わらず険しい顔つきでファーガスを睥睨している。
「さあ、剣を、下ろすのじゃ」
 ファーガスは辛抱強くくり返した。年をとって節くれだった手を伸ばし、冷たい切っ先にそっと添える。剣先が怯えたように後退りしかけたが、ファーガスは逃がさなかった。
「ちょっ…!!」
 少女の口から素っ頓狂な声が飛び出した。無理もなかった。ファーガスが素手で刃を掴んだのだ。
「剣を下ろしなさい」
 老人の手の平から真っ赤な雫が溢れ出た。銀色の刃を伝って、なま温かい血が少女の白い手を濡らした。次の瞬間、少女の手から魔法が解けたように力が抜けた。だらりと垂れ下がった両腕を見て、ファーガスも刃から手を離す。空っぽの広間にガランと音が響いた。
「わしはファーガス。今日から君の“お父さん”だ」
 一秒前とは打って変わって優しい声に、少女は戸惑いの目を向けた。ファーガスの指先からは今だ鮮血が滴り続け、床に赤い水たまりを作っている。
「…いや、この歳じゃもうおじいさんかな……まァよい。わが娘よ、名前は?」
 少女の口がためらいがちに開かれた。血の気の引いた唇がまだ微かに震えていた。
「………イー…ヴィ…」
***
「ゴホン——国王!!!

 叩き付けるような怒号で我に返る。姿見越しにこちらを睨む、怒った顔のスタンリー。そうだ。今は本日の衣装合わせの途中だった。
「お、おお……すまぬ…ボーッとしておった」
 ファーガスは目をぱちくりさせた。開け放たれた窓から、春風を帯びた爽やかな陽光が差し込んでいる。皮肉なほど快晴な朝がここにあった。
 ——あのお方がここへ戻って来られる前に……決断していただかなくてはなりません…。
 ——イーヴィのことで……。
 あの話を聞いて、夕べは一晩中寝つけずにいた。怒りのせいか混乱のせいか、心臓は暴れ、頬はカッカして、とても眠れるような状態ではなかった。ずっとイーヴィのことを考えていたのだが、単調な秒針の音に気が散って、思考はまるで進まず、答えは出ずじまいだった。眠れない夜があれほど長いものだとは、70年以上も生きてきて初めて知った。
「スタンリー」
 呼びかけた声は思いのほか弱々しかった。何気なく鏡を見やると、くたびれた老人と目が合った。自分はいつの間にこんなに老けたのだと、心底驚いた。
「その色はなしじゃ。顔が暗く見える…」
「どうされたのです?お顔色も優れませんね。昨日はちゃんと休まれましたか?」
 スタンリーはファーガスが却下した地味な色のマントを畳みながら聞いた。
「ずーっと、考えておった」
「何を——」と言いかけて、スタンリーは思い当たった。「——ああ…」
 スタンリーの手が国王の肩に別の色のマントを宛てがった。今度はおかしいくらい派手なオレンジ色だった。
「答えは見えんかった。9時間もじっくり考え抜いて、結論は出ずじゃ——その色はやめてくれ、気が滅入る」ファーガスは紺色のマントを押しのけた。「——結局、わしは自分がかわいいだけなんじゃ。イーヴィとずっと一緒にいたい。しかしそれを実行すれば、国民を失望させてしまう。イーヴィか、国民か……わしは、どちらも選べん…どちらも失いたくない。情けない話じゃな……」
 スタンリーは頷きもせず、首を振りもせず、ただ黙って真紅のマントを着せていた。老いて骨ばった手が、ファーガスの首の前で美しいリボン結びを作り出す。
「イーヴィがここへ引き取られて来たのことを覚えておるかね?」
 やにわにファーガスが問いかけた。
「わしはよーく覚えとるよ……忘れもしない…。あの子が初めて瞼を開いたとき、その瞳を見て、なんて美しい黒じゃと思ったもんじゃ。だけど……そうそう、イーヴィときたら、こっちがビビってしまうくらい警戒しとったのう……」
「ええ、あの時は身も凍る思いでしたよ」
 スタンリーがわざと乱暴にリボンを引っぱった。
「いきなり女傑人なんて連れ込んできて、その上武器も持たずに二人きりにさせろとおっしゃったんですから…」
「ナッハッハ、そうじゃったな。結局衛兵と使用人を全員城から追い出して、二人きりになってようやく話をしてくれた。それが今ではあんなに懐いて……ポニーテールとか激カワ!目なんてクリックリしちゃって、まるで小犬のように愛くるしくって…
「そうは見えませんが」
 スタンリーは冷静だった。胸の前で腕をかき抱いていたファーガスは、ふっと我に返って顔の緩みを整えた。
「イーヴィはな、スタンリー、お前が思っているよりもずっと“子供”で、国民が思っているよりもずっと“弱い”。大人に叱られるのが怖いし、蔑まれたら落ち込むじゃろう——お前も一度、あの子と一対一で話をしてみたらどうかね?」
「いや、わたしは……」
 困ったように肩をすくめるスタンリーを見て、ファーガスは悲しそうに笑った。
「……国の民も、そしてお前も、きっとわしがあの子を島から追い出せば満足するのじゃろうな」
 これまでせわしなく動いていた手が、ぴたりと止まった。
「だが、あの子はきっと傷つく」
 一度完成しかけたリボンを無意味にほどき、また結び目を作るところからやり直す。指先が緊張に震えている。
「わしは一人の人間として、イーヴィの側にいてやりたい。そして同時に、一国の王として、民のために納得のいく行いを選びたい。そう思うわしは——わがままなんじゃろうな…」
 少しの間、沈黙が続いた。だが、妙な気まずさはなかった。昨晩、あれほど気になった時計の音が聞こえてこない。緑の香りがする穏やかな風が、そっと二人の髪を撫でていった。
「国王はお優しい方だ」不意に、スタンリーが笑った。「つまり、どちらも比べられないほど大切だということでしょう」
 スタンリーはそっと老人の首元から手を離した。出来上がったリボンは最初よりもだいぶ不格好だったが、なぜだか一番しっくりして見えた。

「王様!!
 突如、寝室の扉が撥ね開けられた。

 転がるように飛び込んできたのは、城で雇っているメイドの一人だった。名前は知らないが、顔は何度か見かけたことがある。手にはモップと空のバケツ。城のどこかの清掃担当か。相当慌てて駆けつけたのだろう、息は絶え絶えで、髪は乱れ、顔はすっかり上気している。
「無礼者!」スタンリーが気色ばんだ。「国王はお召替え中だぞ!」
「も、申し訳ございません…ですが、急いでお伝えしなければと思って……」
 メイドはズズッと鼻をすすった。ただ事ではない様子に、ファーガスは右手を上げてスタンリーを制した。
「どうしたのじゃ」
「イー、イーヴィちゃんが……」
 心臓がドクンと跳ねた。
イーヴィちゃんが、いなくなりました…!
***
 セントフィリンス公園は、都心の喧騒を逃れた郊外にあり、いつでも決まった落ち着きを見せていた。ガムの痕がない石畳、瑞々しい緑の芝生、途切れることのない噴水に、さわさわと揺れる木々……。昔から、この平静が好きだった。孤児院でどんなにこっぴどい仕打ちを受けたって、ここにくれば、怒りや悲しみ、あるいは憎しみで荒みきった心が洗われていくのだ。今日ここへ赴いたのも、同じ理由だった。
 ジムは洒落たベンチに腰掛けて、閑静な朝の空気に浸っていた。手には小さな野球ボール。出しなに道端で拾ったものだ。空に向かって投げては捕まえ、捕まえてはまた空に投げ——キャッチボールの相手なんていない。昔から、投げたボールが向かうのは空で、収まるのは自分の手だ。
 目の前を、同じくらいの年頃の少年が父親に手を引かれながら通り過ぎていった。つないだ手を揺らしながら、楽しげに談笑している。羨ましくて、思わず目で追ってしまう。
「父ちゃん、母ちゃん…かァ……」
 遠ざかっていく二つの背中に想像の自分を重ねようとしたけれど、どうしても両親の姿が思い出せない。そりゃそうだと自嘲する。だって、おれの父ちゃんと母ちゃんは——少し気を緩めた隙に、手の中でポンポンと踊っていた白い球が、指先で跳ね返ってどこかへ飛んでいってしまった。
「あっ…」
 ボールは石畳をころころと横切っていき、芝生の上で自然と止まった。追いかけようと腰を浮かせたジムは、そのとき、芝生の向こうに妙な人影を見つけた。
 クジラの噴水みたいなポニーテール。真っ黒のワンピース。公園を出てすぐの道端に、敷物を引いて座り込んでいる。
「女傑人みーっけ」
 ジムはニヤッと笑った。落としたボールをそっと拾い、高々と振りかぶって……。
 ——バシッ。
 ジムの悪巧みは、案の定、間一髪で阻止された。空気を切るボールの音でも聞き取ったのか、イーヴィは顔の横で見事にキャッチして見せた。振り返りすらせず、片手で易々と。
「おっそい球ね」イーヴィがせせら笑った。「今日は王さま暗殺しに行かなくていいの?」
 振り向いたイーヴィは、相変わらず無愛想で、きつい目をしていた。投げ返されたボールが弾丸のような速度だったのが気に食わなくて、ジムは思わず顔をしかめた。
「お前こそ、国王の用心棒してなくていいのかよ」
「用心棒なんかじゃないわよ!私は国王の——」
 「娘…」と、声が置いてけぼりになり、口だけが動いた。昨日とは打って変わって神妙な様子のイーヴィに、ジムはやや拍子抜けした。今なら国王の悪口を言ってもシメられないかもしれないという考えが頭をよぎったが、やめておいた。
「ところで、何やってたんだ?こんなとこで」
 イーヴィは答える代わりに、敷物の端に立っている看板を顎でしゃくって見せた。板の切れ端のようなみすぼらしい看板には、不格好な文字が躍っている。

“なんでも屋”
家事てつだい・さがしもの・護衛
1000ベリーからなんでもうけたわまります

 ジムはポカンとした。なんでも屋?1000ベリー?一体全体何の話だ?どこから突っ込んだらよいか分からず、ジムはとりあえず拙い誤字を指差した。
「…お前、意外と頭悪いんだな。『うけたわまる』じゃなくて『うけたまわる』……」
「う、うるさいわね!」
 イーヴィは真っ赤になって看板を叩き伏せた。
 ひょっとして、これは、金儲けのつもりだろうか?でも、なんで?——イーヴィは城にタダで住み込んでいる。衣食住と多少の贅沢は保障されているはずだ。それでもまだ金が欲しいというのだろうか。そんな疑念が表情に出てしまったのか、イーヴィはジムの顔を見て困ったような顔をした。
「何よ、その目。なんか文句でもあんの?」
「いや、だって金——」
「だってお金ないんだもん」ジムの言葉を遮って、イーヴィは言った。「私、城出たから」
 イーヴィが何と言ったのか、ジムはすぐには理解できなかった。きっかり10秒間、目も口も真ん丸く開け放ち、間抜け面を存分に曝したあと、
はァァアアアァァアッ!!?
 10歳の子供とは思えない、野太い声が晴天下に響き渡った。
「ななな、えっ、な…な、えっ?…えっ?……マジ…?」
「まあ、家出ってやつ?」
 パニックでなかなか言葉が出てこないジムとは裏腹に、あっけらかんとしているイーヴィ。ジムの手からポロリと野球ボールが零れ落ち、胡座をかくイーヴィの膝にぶつかって止まった。イーヴィはそれを拾いあげ、真上に高く放り投げた。
「で、生活費稼ごうと思ったんだけど……やっぱダメねー…」
 空中でまっさかさまに引き返してきたボールを、目もくれないで器用にキャッチし、再び高々と放り投げた。白い手首が上下するたびに、ポスッ、ポスッ、と軽快なリズムが刻まれる。
「客どころか、誰も寄ってこないっていうか。冷やかしすら来ないわ…」
 や、冷やかしが来たら来たで怒り狂うんだろーが、とは口が裂けても言えなかった。
「ねェ、あんた!」
 イーヴィはパシッと小気味よくボールを捕まえ、期待いっぱいの目つきで身を乗り出してきた。その時点で嫌な気配を感じ取ったジムはそそくさと回れ右をしようとしたが、イーヴィが許してくれるはずがなかった。強い力で肩をガッチリ掴まれ、無理やり敷物の上に座らされた。座骨をしたたかに打った。
「私でも雇ってくれそうなお店、紹介してよ!」
「知るかボケ」
 ほとんど反射的に口走った。ジムは意識を失う直前、イーヴィが怒りで鼻の穴を膨らませるのを見た。

 前言撤回。
 イーヴィはちっとも神妙じゃなかった。