大急ぎで駆けつけたイーヴィの寝室は、ファーガスの記憶にあるよりもずっと暗くて、がらんとしていた。何もない勉強机、中身のない引き出し、倒された写真立て……。クローゼットは王が買い与えた高価な服だけを残し、ほとんど全て持ち出されていた。結局一度も手を付けられることがなかった子供向けの絵本が、空っぽの本棚に倒れている。開け放たれたままの窓は、少女がそこから去ったことを語っているのだろうか。
「昔から“片づけ魔”のようなところはあったが……これはやりすぎじゃろう…」
 ファーガスは手つかずの宝石箱を悲しげに撫でた。
「国王、いらっしゃってたのですか」
 部屋の隅で人影が立ち上がった。二人が来るよりも前から現場検証まがいのことをやっていたようだ。ファーガスは彼が昨晩この付近の警備を担当していた衛兵だと気付くと、急に腹立たしくなってきた。この男がしっかりと見張っていたら、こんなことにはならなかったのに——。
「昨晩は不審者の目撃情報も特にありませんでした」
 衛兵は国王の胸の内などつゆ知らず、この上なく暢気な顔つきで寄って来た。
「部屋に争った形跡もありません。つまり、事件性は非常に薄いですね」
「ほう、それは驚いた。これで彼女の居場所が分かったな」
 痛烈な皮肉を受け、衛兵は気落ちした様子で引き下がった。
「昨日、ジムが家に帰って、あの子が寝室へ上がっていったのは何時じゃ?何か変わったことは?」
 ファーガスの問いに、スタンリーはクローゼットを覗き込みながら「10時頃です。変わったことは特に何も」と答えた。目を閉じて記憶をたぐりよせてみても、昨日のイーヴィはいつも通りだった。不審な点は思いつかない。……いや、そのように演じていただけかもしれない。あの子は10歳という年齢に見合わず、そこらの大人よりも器用であった。
「……わしらの話を…聞かれていたと思うか?」
「………」
 勉強机の下に頭を突っ込んでいたスタンリーは、ハッとした顔でファーガスを見上げた。
「まさか…。あの距離で聞こえるなんてありえないでしょう」
「分からん。女傑人は耳がいいのか?」
 ファーガスは答えを求めてみんなを見回した。誰も正解を知る者はいなかった。ファーガスは溜め息と共にゆるゆると首を振り、勉強机の陰に力なくしゃがみ込んだ。
 と、その時、ベッドを調べていたスタンリーが枕の上に置かれた小さなメモ用紙に気付いた。
「国王、ベッドに置き手紙が……」
 スタンリーの元へ寄るのに、思わず早足になった。震える手で受け取った手紙は、期待にそぐわずとても小さかった。

王さまへ

突然いなくなってごめんなさい。
だけど、もうお城でお世話になることはできません。
これまで私を育ててくれてありがとう。
イーヴィより

追伸 すてきな王さまになってください。

「………イーヴィ……」
 ファーガスは愕然とした。膝から力が抜けて、崩れ落ちるようにベッドにへたり込んだ。『すてきな王さまになってください』——拙い文字で綴られたその一文で、全てを察した。あの子は、どういうわけか、分かっていたのだ。ファーガスにはイーヴィを捨てることなどできない。しかし、それは国王としてふさわしい選択ではない、と。自らの意志で城を離れる——それが最善の策なのだと。
「ごめんな…ごめん……ごめんなァ…」
 何度謝罪の言葉を口にしようが、肝心のイーヴィはもうここにいない。
 ——わしに任せてはくれぬか。
 ——この子は、わしが責任を持って育てよう。
 胸に掲げた決心一つ守れずに……何が国王なものか。八十年余り生きてきて、ファーガスはこれほどまでに自分を情けなく思ったことはなかった。結局、あの子に与えられたのは空回りのやさしさだけ。守られたのは、自分の方だった。
***
 半ば強制的に連れ回したジムの紹介で、イーヴィは町中の店という店に押し掛けたが、どこもかしこも雇ってくれるどころではなかった。パン屋に八百屋、雑貨店、宿屋、それなりに自信のあった掃除屋も、それは見事に玉砕した。イーヴィの顔を一目見たかと思うと、「雇って下さい」の「や」の字も聞かないうちに、鼻先でピシャリと戸を閉めてしまう。どうもこの国の人々は、思っていたより遥かに警戒心が強いらしい。
「清掃屋もダメかァ…自信あったんだけどなァ〜」
 イーヴィはその場にがっくりと崩れ落ち、膝に顔を埋めた。
「すげェな、お前。『門前払い』の例文みたいだったぜ」と、ジムの軽口。
「これ以上傷口広げたらあんた潰す」
「おまえヘコんでるときまで物騒だな…」
 反論の余地もない。そんな自分がまた嫌になる。頭を抱えて髪の毛を掻きむしっていると、ふと、すぐ隣に影が落ちた。見れば、ジムがイーヴィに並んでしゃがんでいた。
「……何よ」イーヴィは思わず身構えた。
「いや、」ジムは小っ恥ずかしそうに口ごもる。「うまくいかねェもんだなと思って」
「どうせ私は嫌われてますよ」
 イーヴィがふてくされると、ジムは少し困り顔になった。
「そういう事じゃねェって…」
「じゃあ何よ」
「んー…」
 ジムは首を傾げたまま黙り込んでしまった。自分から切り出しておいて、胸中に溜まったモヤモヤを上手く言葉に出せないでいるようだ。妙な沈黙に気まずくなり、イーヴィは逃れるように空を見上げた。ちょうど海鳥が真上を通り過ぎていくところだった。爽やかに響く波の音からするに、このへんは海が近いらしい。
「なァ」
 ぽつりとジムが呼びかけた。
「ん?」
「お前、なんで家出なんかしたんだ?」
「家出って言わないでよ。子供みたいじゃない」
 イーヴィが批難がましい目つきを向けると、ジムは「子供だろ」と呆れ眼を返してきた。
「あのね、私は何も誰かとケンカして飛び出してきたわけじゃないのよ。私のは、自立。独り立ち。分かる?」
「わーお。オットナー」
 棒読みの感想は無視した。
「あんた昨日言ってたけどさ、私が嫌われてるのは“外人だから”ってだけじゃないでしょ。“外人が王宮に居座ってるから”、違う?なら、話は早いわ。出りゃいいのよ。みんなから白い目で見られてまで、家族ごっこ続ける必要ないじゃない。私は人間の子供と違って、自分の身は自分で守れるわけだし」
「ふ〜ん?そっかァ」
 ジムがイーヴィの顔を横目で一瞥した。なんだか小馬鹿にしているような、何かしらの含みを持った響きが気に食わず、イーヴィはスッと片目を細めた。
「さっきから何なのよ。言葉でモノ言えないわけ?」
「や、なんかさ」
 ジムはわざわざイーヴィに向かって座り直した。頬がニマニマと緩み切っている。「ウソだろ、それ」
「なっ……」
「どーせ、『私のせいで王さまが嫌われちゃうー』とか考えてたんだろ?見え見えだっつーの」
 なんと。こんなバカにバレるだなんて。イーヴィは自分の頬にほんのり熱が差すのを感じ、慌てて反対側を向いた。ジムは身を乗り出し、楽しそうな顔で執拗に追いかけてくる。
「気持ち悪ィくらい一途だねェ、イーヴィちゃんは」
「あ、あんまりからかうと、ホントに潰すわよ!」
「はいはい」
 この数時間で、ジムはイーヴィの扱いに慣れてきたらしい。いや、ただ単純に、真っ赤な顔での脅迫に、説得力がまるでなかったせいかもしれない。
「だけどマジメな話——」
 ジムの顔つきが突然変わった。そっぽを向いていたイーヴィは、空気の変化を感じ取って、肩越しに彼を振り向いた。
「——国王の支持率ってのは気にしといて正解だったかもな」
「……え…」
「お前、昨日、おれがどうして国王を憎んでるかって聞いてきたよな」
 そういえば……と、昨日うまい具合に質問をはぐらかされていたことを思い出す。
「おれが孤児院でいじめられてんのは……国王と………おれの両親のせいなんだ」
 イーヴィは返す言葉を見失った。昨日は『ヤミうちだ!』などと馬鹿げたことばかり抜かしていたのに、今のジムの横顔は珍しく繊細で、どんな言葉を選んでも傷つけてしまうような気がした。
「父ちゃんと母ちゃんは、おれがまだ3歳の時に、おれを捨てて海に出ちまった……うちは貧乏だったから税金が払えなくて、ある日、取り立てに来た徴税人と争ったんだ。徴税人は死んで、父ちゃんと母ちゃんは殺人犯。今じゃ海賊だっつって指名手配されてる。初めて手配書を見たとき、おれ、すげェ辛かったよ。もう顔も声もすっかり忘れちゃったけど、確かに二人の名前が書かれてて……『あァ、おれは悪党の子供なんだな』って…そりゃいじめられんのは当然さ」
「………」
「お前がここに来るずいぶん前から、この国はこうなのさ。おれだけじゃない。みんな一生懸命働いてるのに、貧乏は治らない。大人はみんな言ってるよ。この国が貧乏なのは今の国王のせいだって。お前にゃ悪ィけど、おれもそう思ってる」
 イーヴィは胃袋の中にズシンと重たいものが落ちたのを感じた。ファーガス王への不信感は思っていたよりもずっと分厚く、イーヴィの家出などというちっぽけな方策では完全に拭い去ることができないというのか。
(それじゃ困るのよ。王さまには、幸せになって欲しいんだから…)
***
 その日、イーヴィはジムの勧めで、山奥にある粗末な廃小屋で一夜を明かすことにした。中も外もイーヴィに言わせると犯罪級に汚かった。外壁を覆うトタン板はほとんどが変色したり、ズレてぶら下がっていたりした。扉は肝心な部分が錆びついていて、開けるにはちょっとしたコツが必要だった。中はもっとひどかった。入った途端にカビ臭い空気が鼻をついた。どこも蜘蛛の巣と埃だらけだ。
「泥の上で野宿するよりはマシだろ」
 床に積もった埃を足で掃きながら、ジムが言った。
「言っとくけど、孤児院の便所の倍は綺麗だぞ」
「それはアンタが掃除をサボるからよ。ていうかどこと比べてんの」
 イーヴィが全体重を使ってドアを閉めると、耳を塞ぎたくなるような重い金属音が上がった。
 二人は、念のため、中の様子をチェックして回った。家具はテーブル以外使い物にならない。カーテンは虫食いだらけだし、椅子は脚がどうしようもなく腐っていて、捨てるしかなかった。窓ガラスは長年の汚れで白濁していたものの、奇跡的に一枚も割れていなかった。電気も水道も通っていないが、雨風をしのぐことくらいはできそうだ。
「キッチンがないのはまァいいとして、トイレがついてねェな」
「あっても流れないわよ」
 それらしいドアがあったが、開けてみると掃除用具入れだった。イーヴィはブラシと雑巾を引っぱり出し、バケツの取っ手に足を引っかけて、ジムに向かって放り投げた。
「近くに川があったわね。水を汲んで来てちょうだい」
「パシリかよ……で、トイレどうするの?」
「昼間はどうせ町に出てるし、夜の間くらい我慢するわよ。ほら、早く水」
 逆らうとどうなるかはしっかりと思い知っているので、ジムはイーヴィの催促に素直に応じた。
 五分後、イーヴィは重いバケツを引きずって来たジムを家に追い返し、日が暮れるまでに終わらせようと一心不乱に床を磨いた。 十数年間降り積もり続けた埃の層は、流石にしつこく、一度デッキブラシを走らせたくらいでは洗い流せなかった。一度磨いては、川へ走って水を換え、また磨いては水を換え……それだけで何時間もかかった。床を掃き終わったら、今度は壁と窓だ。天井近くに張った蜘蛛の巣を払い落とし、濡らした雑巾で一面を拭く。窓ガラスは何百回拭いても透明感を取り戻すことは敵わなかった。
 いつの間にか空は赤く染まっていた。リュックのポケットにしまってあった懐中時計で時間を確認すると、もう17時を回っていた。日が長くて助かった——イーヴィは額に滲んだ汗を手の甲でぐいと拭い、「ふー…」と息をつきながら、だいぶ様変わりした小屋の中を見渡した。
「元が元だから……まァこんなとこかしら」
 床、壁、テーブルは勿論、棚の裏やカーテンのレール、窓のサッシュなど細部に至るまで、しっかり磨き込んだ。塵一つ残されていない。イーヴィは手をパンパンと叩きながら満足げに頷いた。
「……や、まだ汚いか…」
 心做しか全体的に埃臭い。イーヴィは肩に手を置いて首を鳴らし、再びモップに手をかけた。
***
 環境は大きく変わり始めていた。それでも、夜は等しく訪れる。

 メイベラ島・北の港に、一隻の帆船が碇を下ろした。夜陰に負けじと明かりを灯す豪勢な船体には、オールドフェイスのセリフ体で『セントフィリンス号』と刻まれている。
 フィリンス号は、しかし、その派手な外観に見合わず妙な沈黙を乗せていた。久々に港に着いたというのに、喜びに沸く様子もない。煌煌とした明かりを見せつけながら、小さく海面に揺れているだけだ。その姿は、まるで、海から島の様子を窺っているかのようであった。
 船が碇泊してから10分後、ようやく静寂は途絶えた。船室の扉が高い音を上げて開き、弱々しい足音が現れた。足音は船を離れ、港のアスファルトへと移る。艶のある、上等な靴だった。靴はゆっくりと歩き出した。初めは戸惑いの足取りだったが、次第に確信を持ち始めた。確かな歩みが止まったのは、港から伸びる一本道に差し掛かったときだった。街へ続く、唯一の道。
「久しい風景よ」
 ぽつりと呟き声。靴の持ち主は、今、街灯の明かりに照らし出されていた。
「のう——兄上……」
 ファーガスとそっくりの顔立ちで、レイダーが言った。

 環境は変わり始めていた。水面下で、ひっそりと、しかし確実に……。