「どういうことだ、スタンリー!! 出てきて説明しろォ!!!」
「謝罪しろ!!」
「こんなことが許されていいのか!?」
「あんなメチャクチャな奴らにこの国を…我々の未来を任せておけるか!!」
「ファーガスを引きずり下ろせ!!!」

レイダー様に王権を明け渡せェ!!!!
***
 甘い、極上のショートケーキ、一切れ。洒落たデザインのケーキボックスのど真ん中で、上品な輝きを放っている。てっぺんには純白のクリームをクッションにしてきらめく贅沢ないちご。やさしい色のふわふわしたスポンジの間から、ルビーみたいな刻みイチゴが顔をのぞかせている。
(ん〜♡いいにおい…)
 とろけるような魅惑的な香りに、思わずうっとり。相変わらず金回りは厳しいが、こればっかりは譲れない。イーヴィは壊れ物を扱うように慎重な手つきでケーキボックスを閉めた。
(ハッピーバースデー、イーヴィ♪)
 心の中で流れるめでたい歌にリズムを合わせて、頭を揺らす。気分は最高だ。
(やっぱり“誕生日”にはケーキがなくちゃね)
 ケーキに火のついたろうそくを刺して唄を歌うなんて、もともと女傑人にはない習慣だった。だが、人間の生活に慣れた今、ケーキなしの誕生日なんて考えられない。ファーガスやスタンリー達がいないのは寂しいけれど、11歳ともなれば、我慢を知る年頃だ。そうわがままばかり唱えていられない。
 イーヴィはケーキボックスを大事に抱え、ドアベルを鳴らしながら店の外へ出た。予定のものは手に入れた。あとは家に帰って、心ゆくままこの甘みを味わうだけだ。
(そーだスタンリーにもらった絵本飾って、眺めながら食べよーかな♡)
 大好きな濃紺の星空を思い浮かべて、にんまりしながら角を曲がろうとした、まさにその時——。
ダメだ!! そっちへ行くなァァアア!!!
 その曲がり角から、とんでもない勢いで何かが飛び出してきた。
「ぶほァっ!!?」
 ものの見事に弾き飛ばされたイーヴィは、一瞬、大砲の弾でも食らったのだと思った。
 地面に叩きつけられるのはごめんだ。大切なケーキが滅茶苦茶になってしまう。イーヴィは空中で体をひねり、体の前後を反転させた後、なんとか足で急ブレーキをかけた。箱の中身が少し揺れたような気がしたが、ペチャンコは免れたはずだ。イーヴィは安堵をホッと吐き出した。
「……ったく…」
 こんなムチャなことをするのは一人しかいない。ジムだ。イーヴィは怒りでぶるぶる震える拳を、我慢させずに思いっきり暴れさせた。
いったいこれはどこの国の挨拶よ!!!
 すさまじい鉄拳と、火山の噴火と聞き違えそうな激しい怒号を同時に浴びて、“大砲の弾”はすっかり縮み上がった。
「ヒッ…!!!」
何考えてんのバカじゃないの!? 人に用があるときはせめて手を振って声をかけてから激突しなさい!! 相手が私だったから無事で済んだものの……ケーキ台無しになったらどうしてくれるのよ!!!
「いや、それは悪かったよけどマジでそれどころじゃないんだ、今
 暴力コントの切り上げを持ちかけたのは、珍しくジムの方だった。
「城下町の方でデモが始まって……今お前があそこに顔出したら、袋叩きにされんぜ」
「はァ?」
 イーヴィは思い切り顔をしかめた。「“デモ”ぉ?」
「ファーガスに王をやめろって……」そこで、ジムはハッと手に握り締めていた存在を思い出した。「これ見て
 胸元に押しつけられたのは、今朝の日付で発行された号外新聞だった。巨大な書体で強烈に主張された見出し、そしてその下には、愛想もへったくれもない悪人のような面構えのスタンリーの写真……。
「『国王側近』——こりゃあの怖ェおっさんのことだろ?国の金を横取りしたって、町じゃその話でもちきりだぜ」
 横取り?イーヴィは信じられないという思いをそのまま鋭い眼差しに表し、ジムにぶつけた。
「おれを睨むなよおれが書いたわけじゃねェんだから」
 ジムが顔を引きつらせた。
「横取りって?どういうこと?スタンリーがズルしたっていうの?」
「『ズル』ってお前、ガキの喧嘩じゃねェんだぞ」
 ジムは呆れたように突っ込んでから、首を振って仕切り直した。
「ともかく、これ、お前にとっちゃ結構やべェ状態だぞ」
「そうかしら。私はこうすればいい話だと思うけど」
 イーヴィは新聞記事を高く掲げると、いきなり真っ二つに切り裂いた。唖然とするジムに見せつけるようにして、何度も何度も重ねて破く。王室のスキャンダルという恰好のネタを綴った号外新聞は、細かい紙くずに成り果てた。
「お、おい……」
「こんな——どうでも——いい——ことで——わざわざ——体当たりすんじゃ———ないわよ
 イーヴィは引き気味のジムをよそに、粉々になった新聞の残骸を力任せに踏みにじった。
「こんなバカみたいな話、信じる方がどうかしてる。嘘よ、嘘。真っ赤な嘘スタンリーがそんなことするわけない。あんたも会ったことあるなら分かるでしょう?」
 スタンリーは吐き気がするほど折り目正しく、『横領』なんて言葉とは縁遠い男だ。国語の苦手なイーヴィには、記事に書かれていたことの半分も理解できなかったが、スタンリーが無実だということだけは確信していた。
「そりゃおれだって思うよ、『まさかあのおっさんに限って』って。けど、そう思うのはおれ達だけなんだよ。あのおっさんがどんな奴なのか知ってんのは、おれ達だけなんだ。これがガチだろうがガセだろうがそんなことはもう関係ねェ。新聞が一度こんなこと書いちまったら、『スタンリーってそういう奴なのか』って、みんなそう思っちまうんだよ
 イーヴィは言葉に詰まった。認めたくはないが、ジムの言う通りだ。イーヴィだって、もし当事者の身内でなかったら、新聞の中身を鵜呑みにして『国王側近』に腹を立てていただろう。頭が針を突き刺したようにキンと痛む。イーヴィは額を押さえ、ずるずるとその場に蹲った。
「そうね。ただでさえ、みんなは王さまを嫌っているんだものね…」
「それだけじゃねェ」ジムが苦々しく言った。「今はあの人が……レイダーが帰ってきてるんだ…」
「誰?」
「レイダー。国王の弟だよ」
「ああ、王さまの弟ね——弟ォ!?
 危うく納得しかけたが、自分の口から出た言葉の異様さにワンテンポ遅れて気がついた。
「王さまに、弟がいたの!!? 何それ!!!
「なんだ、お前知らなかったの?」
「想像だにすらさえのみしなかったわよ」
 イーヴィは、ファーガスそっくりな妙ちきりんの初老の男性が、自分に向かってデレデレと締まりのない顔をしているのを思い浮かべて、イラッとした。
「や、知らなくても無理はねェって」ジムが慌ててフォローを入れた。「考えてみりゃ、レイダーはお前がここに来るよりずっと前から行方不明になってたんだ。けど——」
「帰ってきた?」
「——そうだ。それが問題なんだよ。レイダーはファーガスのジジィと違って、昔から結構評判よかったらしいんだ。おれはガキだったから覚えてねェけど……町の奴らは、どいつもこいつも『レイダーを王にしろ』って言ってる」
 なるほど、国民からの信望が厚い。ぽっと出のくせに生意気な奴だ。世論とは裏腹に、イーヴィの中でレイダーとやらの好感度が一気に底辺まで堕ちた。
「とにかく、町には絶対行くなよ」
 ジムは仏頂面のイーヴィの鼻先にビシッと指を突き立て、口うるさく釘を刺した。
「おれは親切で言ってんだからな。ケーキが食いたきゃ、おとなしくあのおんぼろ山小屋にこもってろ。お前はファーガスのシンボルマークみたいなもんなんだから、今ノコノコ出てったら、顔にアザこさえる程度じゃ済まねェぞ」
 まぬけなジムの言うことを聞くのはどうも癪だった。だが、何となくそうした方が良いような気はするのは確かだ。
「……分かった…」イーヴィは溜め息と一緒に頷いた。「あんたにこんなこと言うなんて死ぬほどおぞましいけど、馬鹿が馬鹿なりに色々考えて忠告してくれたことには一応感謝しておくわ。あ……りが…と、う…」
スッと言えよ礼くらい
 振り返れば、遥か向こうにフィリンシア城が見えた。空に向かって切り立つ崖の上に、豪然と腰を据えている。ちょっと前まで、あの場所こそが唯一の安らぎだったのに……今では、あそこで何が起きているのかさっぱり分からない。その姿がとても遠い存在のようにしか見えなくて、イーヴィは急に心細くなった。 
***
「うっ…」

 帰宅したイーヴィを出迎えたのは、自宅の山小屋の変わり果てた姿だった。扉は剥がされ、壁は凹み、石を投げ込まれたのか、窓ガラスには穴があいていた。壊れたテーブル、引き裂かれたリュック、日記帳の焼け残り……無惨な姿の私物が、小屋の中から引きずり出され、泥の上で無造作に転がっている。
「……ウッソ…」
 いつの間に自分の居場所がバレたのだろうか。誰かが洩らしたのか?ここにイーヴィが住んでいるのを知っているのは、ジムとスタンリーの二人だけだ。まさか——ふと、イーヴィの頭の中に最悪の展開がチラついた。だが、すぐに首を振る。そんなこと考えちゃダメだ。特に今は——。
「——あ…」
 イーヴィはスーッと血の気が引いていくのを感じた。「本…!!」
 脚の折れたテーブルにケーキボックスを放り投げ、イーヴィは小屋の中に飛び込んだ。中は想像以上に荒れていた。皿は粉々に砕かれ、買い置きしていた食材は一つ残らず床の上で踏み潰されていた。そこら中に散らばっている焼けた布の切れはしは、きっと服の残骸だろう。寝袋とカーテンはほとんど燃え尽きている。
 幸運なことに、なぎ倒された本棚の裏に、目当ての本は隠れていた。表紙が少し煤けてしまったが、すり込まないように軽く指で払うと、元通りの鮮やかな色を見せてくれた。ひとまず安堵に胸を撫で下ろす。服や食べ物はごみになってしまったが、これさえあれば、何が起きても平気なような気さえした。

「おやおや……これはひどいですね…」
 イーヴィは本を抱えたまま、バッと入口を振り返った。聞き覚えのない第三者の声。だが、一目見て何者かすぐに分かった。上等な服に身を包んだ初老の男性。ファーガスそっくりの顔に、ワンコインショップで買えそうな安っぽい笑顔を張り付けている。胡散臭い…とイーヴィは顔をしかめた。そもそもこんな大惨事に居合わせてニコニコ笑ってるなんて、犯人か頭のおかしい奴かくらいのものだ。
「あなたのおうちかな?いやはや、これではまるで廃墟のようだ…」
「出てってもらえますか。セールスお断りですから」
 イーヴィはつっけんどんに言って、入口に背を向けた。
「君がイーヴィちゃんかな?わたしのことを知っているかい」
 出てけと確かに言ったのに、靴音はコツコツと近づいてくる。イーヴィはチッと舌打ちした。
「もう一度言うわ、出てって
「いずれ王となる者に、その口のきき方はいかんなァ…」
 ギラリ。イーヴィは肩越しに鋭い睨みを送った。レイダーとかいういけ好かない男は、困ったようにクスクス笑った。
「ほらほら、そんな怖い顔をしたら、せっかくかわいいのが台無しだよ」
早く——出てけ
「まァまァ、落ち着いて、イーヴィちゃん。せっかく来たんだから、話くらい聞いてくれてもいいんじゃないかね?」
 レイダーはハンカチで壁の煤を払い落とし、そこにゆったりと寄りかかった。イーヴィはササクレで上着の裾がほつれてしまいますようにと強く願った。
「イーヴィちゃん。どうだい、わたしと取引をしないかい?」
「取引?」イーヴィは刺々しく聞き返した。「何それ。しない」
「そう言わずに。君にとってもきっといい話だと思うよ」
 絶対思わないだろうとイーヴィは確信した。
「兄は——ファーガスは確かに素晴らしい権力者だ。だが、兄の時代はあまりにも長すぎた。兄はもはや私利私欲の塊だ。あのスタンリーという執事もしかり。彼らにはもうこの国を任せておくことはできん……」
「そんな話聞きたくない」
「……わたしも兄上のことは大好きだ。これは何もわたし個人の意見ではない。国民の総意なんだよ。君だって分かっているんだろう?景気、治安……お世辞にもいいとは言えない。この国には今、変わらなければならない。そしてそのためには、新しい指導者が必要なんだ」
 イーヴィには、丸カッコに入った「つまり、わたしだ」がはっきりと聞こえてくるようだった。
「あんたの選挙演説なんか聞きたくないんだけど」
 イライラして本題を急かすと、レイダーは「すまんすまん」と軽く笑った。
「我々の側についてほしいんだ。女傑人の力が必要でね」
「却下。無理。ない。はい帰って」
「手厳しいな。君にはおいしい話だと思うんだけどね。君だって、いつまでもこんな——あー、瓦礫の中で寝ているわけにいかないだろう?我々の側に付いてくれるならば、豪華な住まいも、十分なご飯も、お小遣いもたくさんあげるし、綺麗な絵本やかわいいネコちゃんだって何だって買ってあげるよ。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
「いっけなーいサギ師の腕折っちゃったーでも別にいっかー」
 イーヴィはわざとらしく大声を上げながら、指の関節をポキポキ鳴らした。レイダーの顔色が心なしか青白くなった。
「おじさん、やっぱり帰って。あなたの話って信用ならないのよ」
 イーヴィは腕組みをして難しい顔をしてみせた。
「ひとつ、」びしっと人差し指を立てて鼻先に突き出すと、レイダーは面白いくらいにびくりと震えた。「あんたの話って、難しくってさっぱり分かんない。ふたつ、特典多すぎ、怪しすぎ。みっつ、私の家壊したのあんたでしょ
 レイダーの目が泳いだ。「な、何の話かね?」
「だーって、帰ったら家が壊れてて、困ってたら変なおじさん登場。何言い出すかと思ったら『新しいおうちあげるよ』?どう考えてもおかしいでしょ。タイミングよすぎるわよ」しかめっ面で詰め寄っていくと、レイダーがおずおずと後退りし始めた。「女の子の着替え燃やすなんてどんな神経してるわけ?せっかく買った食べ物もこれじゃ台無しじゃない。いったいいくらしたと思ってんのよ。絶対弁償してもらうからねそれと……私をネコちゃんなんかで釣れると思ったら大間違いなんだからそのへんのガキと一緒にしないで。言いたいことは以上。じゃあね
 家の外までレイダーを追いやり、蝶番のイカれた扉を無理矢理動かして閉め出した。はァ、すっきり。一仕事終えたとばかりにパンパン手を叩き合わせていると、突然扉の外で低い笑い声が聞こえた。
「ぶわっはっはっはっはよかろうならば死ぬまでそこにいればいい。ファーガスは死ぬ。王となるのはこのわたしだ10歳かそこらの子どもだろうが、女傑人は女傑人。貴様はテロリストとして牢屋にブチ込んで——ふぁゴば!!
 レイダーがみなまで言い切る前に、イーヴィは扉を蹴り開けていた。扉が腹立たしい鼻っ面を強打したようで、妙なうめき声を上げたのは聞こえていたが、謝っている暇はなかった。直前に聞こえた不吉な言葉がイーヴィを焦らせていた。
「今、何つった!!?」
 鼻血を流しているレイダーの胸倉を掴んで揺さぶる。全身の毛穴から冷や汗が噴き出していた。
「ク…クク……」引きつったような笑い声だった。「……死ぬんだよ…ファーガスは今日…!! 今、わたしの雇った殺し屋があの老いぼれを捜しているところだ…!!! 今頃気づいたところでもう間に合わん残念だったな化け物娘!!!」
「!!!」
 怒りと憎しみが急激に膨れ上がり、手元の力加減が効かなくなった。イーヴィは今まで出したこともないような力でレイダーを突き飛ばし、彼が顔面から木の幹に激突したのをそのままに、全速力で駆け出した。
「おおおおい、イーヴィどこ行くんだよ
 通り過ぎた木陰から、ジムが慌てた様子で飛び出してきた。イーヴィが街に出ないように見張りでもしていたのだろう。
「緊急事態
 イーヴィは後ろ向きになってそれだけ言い残すと、さらに速度を上げて森を抜けていった。
***
 めでたいくらいの禿げ頭に狙いが定められた。節くれ立った無骨な指が、緊張気味に震えながら引き金にかけられた。喉仏がごくりと上下する。こんなにも張りつめた空気の中、ターゲットの老人は穏やかな川のほとりで暢気に曇り空を見上げている。自分の命が危険に曝されているだなんて夢にも思っていないのだろう。
「一国の王ともあろうお方が、用心棒もつけねェで不用心なこった…」
 カチャリと部品の揺れる音。
「この一発で、てめェの天下は終わりにしてやる——」
 ——そのはずが、その陰謀は叶わなかった。

 ガッ

 背後から伸びてきた手が男の前髪を鷲掴みにし、そのまま後ろへ引き倒した。口から悲鳴が漏れる前に、もう一つの手がそこを封じる。男は驚き、拘束を振りほどこうと身をよじったが、まるで壁に固定された鉄金具を引き抜こうとしているかのようにびくともしなかった。男は成す術もなくずるずると茂みの中に引きずり込まれていき、国王が物音に気づいて振り向いた頃には、そこにはもう誰もいなくなっていた。
「むぐううっ
 口を塞がれたまま、男は物凄いスピードで後ろ向きに引きずられていった。落ち葉を巻き上げ、小石を蹴り上げ、森の深く、奥へ、奥へ——。木々の開けた場所に出たところで、男の身柄は乱暴に投げ出された。男は唐突のことにうまく対応しきれず、湿った土の上で無様に天を仰いだが、機敏に足を振り上げて跳ね起きた。しかし次の瞬間、右手の狙撃銃がむしり取られ、長い銃身でしたたかに殴り上げられた。
 再び地面とキスするはめになった男を、イーヴィは仁王立ちになって冷ややかに見下ろした。
「こんな明るいうちから『ヤミうち』?見たところ、いい年した大人みたいだけど」
 暗殺犯はもぞもぞと起き上がり、鋭い眼光でイーヴィをとらえた。
「誰かと思えば、てめェ……女傑のガキか
「はい、これパス」
 イーヴィは銃を背後にヒョイと放り投げた。キャッチしたのはジムだ。初めて手にする本物の銃にあたふたして、いきのいい魚と格闘でもしているかのような滑稽な動きを見せた。
「ちょっと、大丈夫?気をつけてよ」イーヴィは眉を吊り上げた。
「わ、分かってるよ…」ジムの顎はカタカタ震えていた。「お前なんでそんな冷静なんだ…!!」
 実のところ、イーヴィも心臓が壊れそうなくらい内心ドキドキだった。ファーガスがまた仕事をさぼって山の近くをうろついていたおかげで、なんとか間一髪、ギリギリ間に合った。まさか王の放浪癖に感謝する日がくるなんて誰も予想しなかっただろう。それに、目の前で立ち上がったこの男——とんでもなくガタイがいい。
「何よ。やる気?」
 イーヴィは両手をきつく握り拳にして強気に構えた。
「国王のペット風情が、調子に乗ってんじゃねェぞこの税金泥棒
 男が唾を吐き捨てるように言った。イーヴィはムッと眉根をよせる。
「ちょっと、やめてよそれ。あとで訂正しといてよ」
 勇ましい雄叫びと共に男が殴り掛かってきた。イーヴィは大きく振るわれた腕をかいくぐって裏に回り込み、振り向く暇も惜しんで、敵の背中にまっすぐと後ろ蹴りを決めた。男はバランスを崩して盛大につんのめった。その両肩を後ろからむんずと掴み、ぐるんとぶん回して、手近な木の幹に投げ飛ばす。背中全体を幹に打ち付け、男は悲鳴を上げてのけぞった。その顔めがけて、右から一発、左から一発、下から一発……と容赦のない拳の雨を降らせていく。
「ぐっ……」男の目がかっと見開かれた。「このクソガキがァ!!」
 とどめに一発、と頭上で両手を組んで振り下ろそうとした時——男は急降下するイーヴィの手首を絡めとり、腹に靴の裏を叩き込んだ。小柄なイーヴィはいともたやすく蹴り飛ばされ、ジムを巻き込んで地面に崩れ落ちた。
「ったァ〜…」
 起き上がると、後頭部にひどい激痛が残っていた。まったく、ジムったらなんて石頭なのかしら……。
「ちょっと、ジム突っ立ってないでちゃんと避け——」
 小言が不自然に途切れた。イーヴィの下敷きになったまま、ジムが動かない。瞼が下りていて、口がだらしなく半開きになっている。イーヴィはとたんに真っ青になった。「ジ、ジム…?」
ぶっ殺してやる
 男がポケットからナイフを引っぱり出し、荒い足取りで近寄ってくる。イーヴィはそれどころではなくなっていた。
「ジム…ねェ、ちょっとやだ……ジム…?」
 呼びかけても、肩を揺さぶっても、ジムが目を開いてくれない。そんな…まさか、死ん——。

 ドォーン!!!

 一瞬、世界が割れたのだと思った。
 イーヴィも、殺し屋も、目を覚まさないままのジムも、凄まじい衝撃に突き飛ばされた。地面にすっ転んで、反射的に突き出した手の平を派手に擦りむいてしまった。だがもはやそんなことは気にしていられなかった。
 海の方角から、鳥たちがギャアギャア言いながら逃げてきた。微かに悲鳴や怒鳴り声が聞こえてくる。これは明らかにただごとではない。あちらで何かが起きている。愕然と音のした方を眺めていると、次第に灰色の曇り空がじわじわと赤く染まり始めた。
「何だ…?」
 男も何が起こったのか理解していない様子だった。遠方の不吉な赤い空を見上げて、ポカンとしている。
 ——ひ、ひとまず…。
 イーヴィはちょうど足元に転がっていた太い木の枝に素早く目を走らせた。ピリッと先走った殺気に、男もすぐに気がついた。イーヴィは男が身構えるよりも早く、木の枝を拾い上げた。そしてそれを野球バットのように大きく振るって、男の頭をあらん限りの力でぶん殴った。
ぐェ!!!
 ノックアウト。ゲーム終了だ。
(あァ…着替えたい…)
 見下ろすと、みじめなほど全身泥だらけだった。だが、今は着替えも時間もない。
 イーヴィは血のついた枝を投げ捨てると、急いでジムの元に駆けつけた。そっと口元に耳をよせる——よかった、生きている意識を失っていただけのようだ。ともかく、頭に何か異常があるかもしれないし、このまま何もない森の中に不審人物と一緒に残しておくわけにもいかない。イーヴィはジムの腕を引っぱり上げ、よっこいしょと背中に負ぶった。気を失ったままのジムは、ずっしりとして妙に重たかった。
***
 これがフィリンシアの街だなんて、にわかには信じがたかった。
 思わず顔を背けたくなる惨劇。山小屋の比ではない。まるで戦場のようだった。海面には大破した船の残骸がユラユラと浮遊している。砂浜が赤黒く染まっているのに恐怖を覚えた。防波林はなぎ倒され、漁師達の建家は根こそぎ持っていかれたらしい。仲間や家族を失った人々が、残された土台の側で泣き崩れていた。
 恐ろしい爪痕は、大きくのたうち回りながら、人里にまで及んでいた。破けた旗やひしゃげた看板がゴミのように転がっている。粉々に砕けた窓ガラスがそこらじゅうに散らばっていて、一歩進むたびにジャリジャリ音がした。血を流して倒れている人は一人や二人ではない。どう見ても助からないだろうという人もいた。かててくわえて、どこかから生まれた火の大蛇が家々を呑み込み、甚大な被害をもたらしていた。
「…そ…そんな……」
 イーヴィは全身から力が抜けていくのを感じた。ジムの体重がどんどん背中に沈み込んでくる。
「こ……これは…いったい……」
 ここが本当にフィリンシアなのか。慌てて森の中を奔走しているうちに、うっかり時空を越えて、どこか別の世界に迷い込んでしまったんではないだろうか。いや、そうだったらどんなによかったことだろう。目の前に広がる景色は残酷なほどに鮮烈で、現実逃避のしようがなかった。
 茫然としたまま、フラフラと頼りない足取りで歩いていると、イーヴィは公園の近くに出た。いつだったか、ジムに職場を紹介しろと頼み込んだ公園だった。
「ようやく死んだか…」
 沈んだ声に、イーヴィはハッとして立ち止まった。公園のど真ん中で、男達が何かを取り囲んでいる。
「クソ…!! この化け物めが
「軍は何をしていたんだ」
「下町はメチャクチャだ。多くの人が命を落としただろう…」
 見上げるほどの、あまりにも巨大なドラゴンのような生物が、腹から大量の血を流して死んでいた。イーヴィは思わず口を覆った。海王類だ…あいつが、どういうわけか島に上がって暴れ回ったんだろう。
「ひどい…街が、こんなに……」
 振り返れば、血、血、血……。
 『星の谷』の最後の挿絵——いや、それよりも何十倍も……。
 ジムが気を失っていたのはかえってよかったのかもしれない。自分は見慣れているけれど、こんな光景、人間の子どもが見たらトラウマじゃ済まない。目を覚ます前に、急いでジムを孤児院に連れて帰ろう。あっちの方角なら、さすがに海王類のしっぽは届いていないはずだ。イーヴィは自分の肩からだらしなく垂れ下がる細い腕をぎゅっと握り締め、踵を返——…

動くな!!

 ガチャッ…
 四方八方から牙を剥く銃口。イーヴィはぎょっとして凍りついた。銃を構えるは、国王軍……いや、違う。見たこともないベージュの軍服。
 ——誰、こいつら…?
 わけも分からず動揺するイーヴィの耳に、謎の軍隊はきびきびと続けた。
「ラビル・イーヴィだな。大人しく少年を解放しろ
「既にファーガスの身柄は拘束した。観念するんだな」

「貴様を逮捕する