重い音を響かせて閉じた鉄格子に、一秒遅れてイーヴィは飛びついた。目の前でガシャンと施錠された錠前を見て、子供らしからぬ反応を見せる。ませた子供の舌打ちに向かって、看守はフンと嘲笑した。
「笑ってんじゃないわよ!」イーヴィは歯を剥いた。「一体何のマネよ。フザけんな!こっから出して!」
 冷たい格子を両手で握り、力いっぱい前後に揺さぶった。ガシャガシャとけたたましい音が鳴るだけで、檻はびくともしなかった。
「いいザマだな、“女傑人”さんよ」
「ったくだ。今までどれだけこの時を夢見たか……」
「最初からこうしときゃよかったんだ」
 頭上から降り注ぐ大人達の冷たい声。イーヴィはぎゅっと下唇を噛んだ。
「こっから出たら、ただじゃおかないんだから」
「生意気な口叩いてんじゃねェ!!」
 看守の一人がガンと鉄格子を蹴りつけた。思わずびくりとしたイーヴィを見て、満悦の表情を浮かべている。悔しくて、奴らの顔を見ていたくなくて、イーヴィは情けなく目を伏せた。
「おとなしくしてろよ」
 俯いて狭くなった視界の中に、三人分の黒い足がだらだらと監房から離れていくのが映った。
「待ちなさいよ!コラァ!
 イーヴィは鉄格子をガシャガシャいわせながら、必死に叫んだ。喉が裂けて血が出そうになったが、構わなかった。
「出せっつってんのよ!無視してんじゃないわよ!! 私を誰だと思ってんのよ!!!
 遠くで分厚い鉄の扉が閉まる音がした。人の気配が断ち切られる。
 ——ああ…!
 行ってしまった。イーヴィを残して、奴らは行ってしまった。
「……なん…で…?」
 膝から力が抜けていき、その場にずるずると崩れ落ちた。急に心細くなった。今まで一人で森の中にいても何ともなかったのに——ここは、汚かった。天井の角には蜘蛛が巣を張り、湿った石壁は気味の悪い生臭さを放っている。何年も磨かれていない石畳に絨毯のように分厚い埃が積もっている。イーヴィは両腕をかき抱き、鉄格子に背中をぴったりくっつけた。
 ——こんなとこ、やだ…!
 どこかからネズミの声がした。イーヴィは息を呑んで振り返ったが、姿が見えない。出所が分からないまま、別の場所からまたネズミの鳴く声が聞こえた。巣から糸を垂らし、蜘蛛が下りてくる。大きなハエや見たこともない虫が煩わしい羽音を上げて近づいてきた。手で払っても、頭を振っても、不快感が執拗にまとわりついてくる。あちこちが痒くて、体がどんどん汚れていくような気がした。
「イヤだ…!汚い…汚い…汚い…!!!
 ——うわぁぁあぁああぁぁあぁぁああッ!!
 ——みんな逃げろーっ!!

 私が、何を…。
 ——見ろよアレ…例の“女傑人”だぜ。
 ——ヘタに怒らせたら何をされるかわかったもんじゃない。

 私が何を、
 ——今に恐ろしいことをしでかすぞ。
 したっていうの…!!!

 ——殺人鬼め。

 言葉にならない悲鳴が独房を埋め尽くした。暗闇に孤独が取り残される。
***
 目を覚ましたジムが最初にピントが合ったのは、ぬっと突き出た鉤鼻だった。よく見ると、それはビショビショに濡れていた。気味が悪くて遠ざけようと手で払ったが、ずぶ濡れの鉤鼻はますます近づいてくる。鼻先を伝ってジムの頬に生温い液体が垂れてきた。そればかりではない。がっしりとした丸太のような何かが、ジムの体を締めつけて放さない。あまりにも力強くて、せっかく取り戻した意識がまた遠のいていきそうだった。
「……やめてくれ…」
 ジムはうわ言のように呟いた。
「ジム…!あァ、ジム……」
 男か女か区別のつかない野太い声が言った。
わだじの愛しいジム…!生ぎででよがっだァ…!!!
 その時、さっきまで霞がかっていたジムの意識が嘘のように晴れた。ズキズキと痛む後頭部、まんべんなく疲労の溜まった全身、そしてその体をガッチリと抱きしめている、退役したプロレスラーのような筋肉質の老婆……。
ギャアアアァァァァアアアァァァアァァアァアアアアッ!!!!
 頬を濡らしているのがそいつの涙と鼻水だと気づき、ジムは絶叫した。
何しやがるババァ!!
 ベッドの上で可能な限り遠くまで後退りすると、老婆の全貌が視界に曝された。白いたまねぎ頭、真っ赤な唇はボテッとしていて、瞼は涙で黒いアイラインと紫色のアイシャドウが滲み、ひどいことになっている(あれを垂らされたと知って背筋に悪寒が走ったジムは、急いで顔をパジャマの袖でゴシゴシこすった)。でっぷりとした胸と腰のせいで、ワンピースに描かれたどぎつい花模様が大きく膨張している。

エルスロード孤児院・院長
ディージー

「イヤだわ『ババァ』だなんて…いったいどこで覚えたのかしら……」
ここだよ!!
 ジムは毛布をかき寄せひっしと抱きしめた。ディージーおばさんの愛情深さは、孤児院に収容されている子供達にとって恐怖でしかなかった。
「あんまり興奮するとたんこぶ痛むわよ」
「…っ!!?」
 言われた端から後頭部の痛みがぶり返し、思わず息を呑んだ。
 そうだ——遠ざかっていた記憶が蘇る——あの時、イーヴィと一緒にファーガス王暗殺の現場に駆けつけて、イーヴィが一丁前に戦い始めて、それからのことが何も分からない。今、無事にここにいるということは、きっと彼女が勝利したのだろう。何の役に立つこともないまま戦線離脱してしまった自分を恥ずかしく思う一方で、彼女の勝利が自分の栄誉のように誇らしかった。ところが、次の院長の言葉を聞いて、ジムの気分は急激にしぼんでいった。
「でも本当に無事でよかったわ。一時はどうなることかとキモを冷やしたのよ——まさかウチの子が女傑人の人質に取られるなんて……」
「——は…?」
 あたりが突然寒くなったように感じた。腕の中から毛布がするりと抜け落ちる。
「あいつが……イーヴィが、何?」
「かわいそうに、思い出せないのね」ディージーは紅を乗せすぎた頬に豚のような手を当てて溜め息をついた。「あなた、昨日の夜、あの忌々しい女傑人に捕まってたじゃない。あの後、レイダー様が手配なさった“新国王軍”に保護されて、ここへ運ばれたのよ。覚えてない?」
「おれ……違う!人質になんて…」
「いいのよ、もう隠さなくても大丈夫」
 丸々とした指がスルスルとジムの頬をなで上げた。
「あの子が怖くて本当のことを言えないのよね。でももう平気。悪夢は終わったの。女傑人はもう逮捕されたから——」
 ジムは全身から血の気が引いていくのを感じた。
「た、逮捕って……何だよそれ!どういうことだよ!!
「ジム、どうしたの突然——」
「逮捕って!どういうことだって聞いてんだよ!!!
***
「つまり、わしは嵌められたということか」

 フィリンシア監獄
 独房

 ファーガスはまるで追いはぎにでも遭ったかのように、みすぼらしい姿をしていた。威厳を表す真紅のマントも、大粒の宝石がついたいかつい宝剣も取り上げられ、シーツのきれはしのようなボロ布に袖を通しているだけだ。禿げ上がった頭に王冠がないと、ひどく寂しく見える。
「嵌められた?何を言う、兄上」
 クスクスと胸くその悪い笑い声が聞こえ、ファーガスはじろりと鉄格子の外を睨んだ。
「城に残された数々の証拠は、あなたを紛れもなく犯罪者だと証言している。そういうのは言い逃れとか、とぼけてるとか言うんですよ」
「とぼけてるのは貴様の方じゃろう、レイダー」
 ファーガスは即座に言い返した。
「わしが町を襲ったじゃと?バカも休み休み言え。その証拠とやらだって、貴様が仕込んだニセモノじゃろうが」
「人聞きの悪いことを…」
 そう言うレイダーの口ぶりは怪しげな笑みを含んでおり、潔白でないことが丸分かりだった。
「セントフィリンスは反ファーガス派の拠点だ。あなたにとって邪魔者以外の何ものでもない奴らの潜伏地——兄上、そこであなたは、あの町を排除することで王政を続けようと、そう企んだ。しかし、それは容易なことではない……だが一つだけ方法はある」
 レイダーが人差し指を立てて高らかに論じるのを、ファーガスは不愉快な思いで聞いていた。
「セントフィリンスの海岸に一隻、不審な船が放棄されているのが発見されましてね……これが碇泊許可を得ていない違反船だったんですよ。調べてみたら、船体の底に妙な装置がしかけられていることが分かった。特殊な音波を発生させる装置ですよ……恐らく犯人は、その船を使って海王類を刺激し、セントフィリンスまでおびき寄せた……そしてその船の設計に関する書類が、城の中から多数発見された」
「なんだ。それは自供か?」
 ファーガスが唸ると、レイダーはフンと鼻を鳴らしてせせら笑った。
「犯行時刻にはアリバイがありましてね……わたしの付き人が『城にいた』と証言してくれるだろう」
「貴様の付き人じゃと?信用できんな」
「——だが奇妙なことに、唯一その時間のアリバイを証明できない人物が2人いる…」
 レイダーは名前こそ出さなかったが、誰のことを言っているのか嫌でも分かった。一人は紛れもなく自分のことだろう。そしてもう一人は——ファーガスは顔色を変えた。
「…!!! バカ言え!あの子のワケがなかろう!」
「あの子の住処には見張りをつけていたのですがね……あの時間帯、なぜか彼女は家に帰って来なかったんですよ。そして事件後、森の中で見張りが気絶しているところを発見された。これが何を示しているのかはお分かりかな?実行犯はあの小娘だ。あなたは自分に忠実なあの娘を使い、計画を実行した。違うか?」
「イーヴィに何ができるというのじゃ!あの子はまだ11歳になったばかりの女の子なのじゃぞ!」
 ファーガスは声を荒げた。嗄れた怒号が狭い石部屋にワンワンと反響した。
「女傑人に大人も子供もないでしょうよ」レイダーが呆れたような顔をした。「兄上……あなたがあの子に抱いているのはただの幻想ですよ。女傑人は戦うために存在している——平和を求める我々人間とは対極の種族だ。現に、あの子は、こういうことをしてきた奴なんですから……」
 レイダーはジャケットのポケットから紙の束を引っぱり出し、ファーガスの禿げ頭に降らせた。
 それは写真だった。よっぽど慌ててシャッターを切ったのか、ピントが甘くて鮮明ではない。だが、ファーガスにはそれらが何を写し出したものなのかはっきりと分かってしまった。
「イー…イーヴィ…」
 カサついた唇から洩れた声はひどくかすれていた。
 泥だらけになって、自分の体よりも大きな武器を振るう子供の姿だった。詰襟の黒い軍服を着て、顔には返り血のようなものを浴びて——。
「ラビル・イーヴィという名前をもとに調べさせたんですよ」
 レイダーの声は弾んでいた。動揺するファーガスの姿を見下ろして、さぞいい気分に違いない。
「軍人じゃないか!それにこの野蛮な目…!——あなたが思うようないたいけな子供とは程遠い!記録もしっかり出てきましたよ。『ラティーシャ宮の部隊』所属の三等兵、ヴィーグリーズ島で『ムスペルの砦』の番人を務めた……」
 レイダーの口から、ファーガスの知らない言葉がポンポンと飛び出してくる。
「………イーヴィ……」
 ファーガスは声を詰まらせた。レイダーの悦に入った笑い声が禿げた頭のてっぺんに降り注ぐ。
かわいそうに…!イーヴィ…!!!
 それは、レイダーが期待していた絶望のむせび泣きとは違っていた。レイダーの顔から笑いが消し飛んだ。
「何…?」
「こんな……大きな武器を握らされて……まだ遊び盛りなのに、なんと哀れな…!!!
「な…!」レイダーの顔が大きく歪んだ。「なぜまだこいつを慈しむ!なぜ失望しない!見ろ!この姿を——この、返り血まみれのコイツのどこが『遊び盛り』なんだ?あァ!!?こいつは女傑人だぞ!!?ただの殺人兵器だ!!!
 ファーガスは答えない。床に散らばった写真に向かって肩を落としているので、今ファーガスがどんな顔をしているのかレイダーは分かっていなかった。
「貴様も女傑人も、国の者達にとっちゃ邪魔者でしかない!この国が生まれ変わるには、悪の時代の象徴——今の王を打ち倒す必要がある!! 貴様と娘は国の未来のために死ぬべきなんだよ!!!
 レイダーは息を切らして、ファーガスの反応を待った。怒りに任せて叫び返してくると、感情に身を任せ、檻の間から手を伸ばして胸倉を掴んでくると、そう思って身構えていた。しかし、ファーガスはそのどちらもしなかった。がっくりと項垂れたまま、小さく肩震わせているだけだった。
「……レイダーよ…」
 予想に反する弱々しい声に、レイダーはびくりと体を震わせた。鋭く睨まれるより、怒鳴りつけられるより、その消え入りそうな声色を恐ろしく思っているようだった。
「そう……いつの時代も同じことをしてきた………国の革命のために、悪の支配者を倒す……それが、新しい時代の始まりになる………そう………わしは王じゃ……わしは、お前と違って政の才はからきしなかった……ただ、数年早くこの世に生まれ落ちたというだけで……」
「あ…」
 レイダーは小さく声を洩らした。自分が追い込んでおきながら、そのスケープゴートを前にして、ひどく怯えていた。
「じゃが、あの子は違う。あの子は——」
 ファーガスがようやっと顔を上げた。その目は、涙に濡れてキラキラ輝いていた。
………弟よ……最期じゃ。ひとつ、頼まれてはくれぬか…?