国中が歓喜に包まれた。苦痛の時代が終わり、そしてレイダー国王の即位によってもたらされた新たな時代の始まりを祝福し、朝も夜もお祭り騒ぎだった。花屋はそこら中に花をバラまき、酒屋は高級酒を格安で振る舞った。見渡せば、あちこちに色が溢れていた。商店街は鮮やかな旗や看板で彩られ、住宅街の物干し紐には色とりどりのバンダナやハンカチが括りつけられていた。
「ファーガスが死んだ!」
「暗黒の時代は終わったんだ!!
「新しい…豊かなフィリンシアの始まりだ…!!!
 誰もが浮かれる鮮彩な世界の中で、イーヴィだけが、ひとり、黒い世界に深く沈んでいた。
 どうしてみんな歓声を上げているんだ。なぜ“人が死んだ”ということに幸せを感じているんだ。その綺麗な色をした旗は、クラッカーは、酒は、今適切といえるのか。
「レイダー様に乾杯!」
「いやァ、今日の酒は格別にうめェな!!
「違ェねェ!!
「なんたって我が国の再誕を祝う酒だからな!……レイダー様のお陰で、何もかもが生まれ変わったんだ…!!
「新しい国王に任せておけば、我々国民は間違いなく立ち直れる!!
 イーヴィは両耳を覆った。人間よりも性能のいいこの耳が今は恨めしい。国中、どこへ行っても大人たちの言葉が付いて回る。胸が痛かった。破裂しそうなほどに。どうしたら、どこへ行ったら楽になれるのだろう。 ワンピースの胸のあたりを掻きむしりながら、イーヴィはあちこちを彷徨った。
 気づくと、イーヴィは小川のほとりに出ていた。ファーガスがよく執務をサボっては訪れていた、あの小川だった。イーヴィは草むらにしゃがみ込み、さらさらと穏やかに流れる水面を覗き込んだ。しばらく鏡を見ないうちに、自分の顔がずいぶんと様変わりしていることに気がついた。頬はこけて、両眼も落ち窪み、子供ながらにして完全に浮浪者みたいだった。肌はカサカサで荒れ地のようだし、髪の毛先もパサついている。ワンピースもヘビーローテーションで着回していたせいで、生地が薄くなって毛羽立っている。
「……きったないな…」
 イーヴィは膝の上にちょこんと顎を乗せ、自嘲的に笑った。
「毎晩孤児院のフロこっそり使ってる奴が何抜かしてんだ」
 ごつん、と後頭部に何かがぶつかった。
「小屋にはもう戻んねェのか?」
 ジムがイーヴィの隣にしゃがむ。イーヴィは横面に視線を感じたが、水面を眺めたままで小さく首を振った。
「あそこにはもう住まない」
「住まない?」と、ジムが鸚鵡返しに聞く。
「…私、ここを出てく」
 イーヴィは静かに言った。きっと、この言葉を彼は予想していたのだろう。ジムは特別リアクションを返さずに、無言で話の続きを待った。
「明日朝早くに出る貨物船に忍び込んで、ローグタウンに行く。そこで船を乗り継いで……なるべく、ここから遠い島へ行こうと思う。まったく新しい、誰も私を知らない場所へ。そしたら、フツーに働いてお金を貯めてさ、で、フツーに旅をするんだ……スタリーデールを見つける旅!」
 最後の一言でジムは小さく笑った。
「スタリーデールってお前……見つからねェかもよ?」
「見つけられなくたっていい。私は探したい。その途中で、色んな場所へ行って、色んな音を聞いて、色んな景色を見て——そして、二度とここへは戻らない」
 そこでイーヴィは初めてジムの顔を見た。ジムもイーヴィの顔を見つめていた。二つの視線が絡み合う。
「ごめん」
 イーヴィはぽつりと呟いた。
「私は王さまが大好きだった。だから近くにいたかった。でも、もういない。これ以上この国に留まる理由はないんだよ。私は王さまが大好きだった。だけど……王さまが愛したこの国を……私は好きになれないよ…!!
 沈黙。
 イーヴィは川を見下ろし、ジムは空を見上げた。風が吹いている。
「……まァ、あれだ…」
 ジムが人差し指で頬をぽりぽり掻いた。
「——寂しくなるな…」
「!」
 イーヴィは僅かに目を見開いた。いつも憎まれ口ばかり叩いていたジムが、こんなに素直に惜しんでくれるとは思ってもいなかった。不意をついたジムの言葉はイーヴィの胸の一番脆いところに突き刺さり、イーヴィはなぜか鼻の奥につんと刺激のようなものを感じた。
「……私…」
 いつもみたいに皮肉や嫌味を突き返そうとしたのに、そういった類の言葉は何も浮かんでこなかった。
「…あんたは……いつも私のことを分かってくれてた。いつも否定しないで、認めてくれてた…」
 自分でも何を言い出すのだろうと驚いた。ちらりとジムの方を伺うと、ジムは心底びっくりしたような顔でイーヴィを凝視していた。その顔がどうも滑稽に見えて仕方なく、イーヴィは小さく笑った。
「この国のことは憎いけど、私、あんたのことは嫌いじゃなかったよ」
***
 荷造りは思ったよりすぐに済んだ。城を出てから持ち物のほとんどが焼けたり壊れたりしてしまったから、服の替えを数着と、最低限の金品、細長い巨大な包みがひとつと、それから薄汚れた絵本が一冊あるくらいだった。イーヴィはもはや人の住める環境ではなくなってしまった山小屋に別れを告げ、とぼとぼと港に向かった。
 港はほとんど人がいなかったが、静かな波の上に船が何隻か碇泊していた。商船、客船、貨物船、それから——イーヴィは思わず目を逸らした——『セントフィリンス号』。レイダーをどこぞの島から連れ帰った豪華船だ。イーヴィはふつふつと腹の底から湧き上がってくるどす黒い感情に蓋をして、その隣に停まっている貨物船に足を向けた。客船を堂々と利用できるだけのお金がなかったので、こうして人の目がないうちにこっそり乗り込んで密航するしかなかった。
「よっ…と」
 貨物の隙間にリュックを投げ込んだ後、細長い大きな包みをそっと横たえた。そうして自らも船に乗り込もうとしたその時、貨物船の向こう側にセントフィリンス号が見えた。豪奢に飾られた船体には、よく磨かれた窓ガラスがいくつも嵌め込まれ、その向こうに暗闇が閉じ込められている。
「…?」
 その景色の中に、イーヴィはひとつ不審な点を見つけた。
 外側は見事に美しく保たれているが、窓ガラスの奥の暗闇に、蜘蛛の巣が張っているのが見える。それもかなりの数だ。
 イーヴィはとりあえず荷物はそのままに、セントフィリンス号の船体に近づいてみた。そこで初めて気づいたが、船尾に大きな傷痕が残っている。まるで後ろから別の船に追突されたかのような痕だ。なぜ、この船にこんなものが…?イーヴィは強く地面を蹴ると、欄干を軽々飛び越え、だだっ広い甲板にストンと着地した。
 一見して、甲板は特に異常はなさそうだった。しかしイーヴィは鋭い目をしてあたりを見回す。そして壁際のど真ん中に不自然に積まれた木箱に目をつけた。
 横から両手で押しのける。そこから出てきたのは——。
「銃創…」
 壁に銃弾の跡、そして床には刃物が深々と刺さった痕がある。
 イーヴィは続いて船内に足を向けた。当然、鍵がかかっていたが、イーヴィはドアが壊れるのも構わず力任せにドアノブをひねり、無理に押し開けた。
 その途端、こもっていた臭気がむわっと溢れ出す。イーヴィはすぐに左手で鼻と口を覆った。
 肉の腐ったような、血なまぐさい淀んだ空気。きっと不十分な掃除のまま今までずっと閉め切っていたのだろう。白い壁にはうっすらと茶色い染みが残されたままになっており、イーヴィは恐らく血を洗い流した跡だろうと思った。銃創、刀傷、そして血の跡……あちこちに乱闘の証拠が刻まれている。航海中に海賊に襲われでもしたのだろうか。だが、そんな話は流れていなかったはずだ。
 イーヴィは最も奥の部屋の前でゆっくりと立ち止まった。ここは鍵がかけられていない。さっきイーヴィが船内に入り込むのにしでかしたように、ドアノブのあたりがひどく破壊されていて施錠できなくなっていた。
 そっと、靴の先でドアを押し開ける。キィ…と幽かな音を上げて開いたドアの向こうには、衝撃の光景が広がっていた。
 ベッドを飾るように張り巡らされた、巨大な蜘蛛の巣。そしてその天井には、真っ黒な海賊旗ジョリーロジャーが堂々と貼りつけられていた。蜘蛛の巣を背に笑う骸骨の正体を、イーヴィが知らないはずもなかった。

 ——毒蜘蛛海賊団…!!

 どうやらあのレイダーとかいうやつは、とんでもない輩を船に乗せてきたらしい。
***
 点と点がようやく繋がった。海王類をけしかけたのも、そのテロを使ってファーガスに濡れ衣を着せたのも、全部“奴”の入れ知恵だったのだ。“東の海イーストブルー”最悪の海賊、“毒蜘蛛のダグラー”——その首に懸けられた懸賞金は2900万ベリー。“東の海”最高額の賞金首だ。この海で起こった大事件のほとんどは奴が裏で糸を引いていると噂され、この国でもあちこちに手配書が貼られていた。
 イーヴィは貨物船からリュックと包みを引っぱり出し、全速力で来た道を引き返した。レイダーの船に巣を張っていたのなら、今の居場所なんてだいたい見当がつく。捕まえてやろうとか、ぶっ飛ばしてやろうとか、そんなことを考えていたわけではない。ただ、大事なあの場所に諸悪の根源が巣食っている——それを見過ごすができなかった。

 フィリンシア城
 イーヴィとファーガスが一緒に暮らした場所。

 イーヴィは城の前で細長い包みを引っ剥がし、露になった『武器』を肩に担いだ。
「あっ…アイツは——」
「女傑か!止まれー!!
 ただごとではない剣幕で弾丸のように突っ込んでくるイーヴィを見て、門番が青白い顔をした。うろたえながらも銃を掲げた門番に、イーヴィは容赦なく『武器』を叩き込んだ。
「ぐはっ…!」
「このっ——」
 また一度『武器』を振り抜く時間も惜しく、もう一人の門番は後ろ蹴りで吹き飛ばした。2人の門番はぐったりして動かなくなってしまったが、イーヴィは気にもしなかった。こいつらも海賊の一味かもしれないと思うと、手加減する気にはなれなかったのだ。
 イーヴィは大きく『武器』を振りかぶり、壮大な樫の扉を遠慮なく突破した。玄関ホールで待機していた衛兵達は驚いて飛び上がったが、イーヴィに気づくとすぐに臨戦態勢に入った。
 こちらは全員、見覚えのある顔だ。イーヴィがここに住んでいた時からいる近衛兵だ。
「イーヴィ!お前、気でも狂ったか!」
 衛兵の一人が槍を構えて怒鳴った。
「復讐にでも来たのか!?」
「バカなことを…!」
「どいて!」イーヴィも『武器』を構えて叫び返した。「どかないなら、押し通る!」
 衛兵達が一斉に押し寄せてきた。イーヴィは長い『武器』の柄を地面に突き立てると、棒高跳びのように高々と跳躍して兵士の壁を飛び越えた。
「あっ!貴様——」
 一瞬遅れて振り返った衛兵達は、一面の真紅を見たはずだ。
 イーヴィは『武器』の柄に紅の絨毯の端をひっかけ、衛兵達に投げつけたのだ。玄関ホール全体を覆うほどの大きな絨毯は、衛兵達を丸ごと覆い尽くし、しばし身動きを封じた。彼らがもがきもがきようやく顔を出した頃には、イーヴィは既に1階から姿を消していた。
***
 ——同時刻
 フィリンシア城下広場

「な……なんなんだ…これは…!!?

 人々は愕然とその張り紙を見つめた。酒飲みも、花をまく花屋も、家事をさぼっていた主婦も、さっきまでのお祭り騒ぎはどこへやら、今は水を打ったように静まり返っている。それだけ、そこにしたためられた文章は強烈なものだった。
「『なに』って…新しい法律だろ?」
「法律ったって……」
 最前列で指を使って文字を追っていた男が震える声で言った。
「……こんなの、メチャクチャじゃないか…!」
「“国王軍”ってのは何だ…?“警察”や世界政府直属の“海軍”より偉いってのか?それに、何なんだよ、これ——『兵士は個人の判断で犯罪者とみなした者にその場で刑を執行できるものとする』」
「おれ達…今度は国王軍にビクビクしながら生活していかなきゃならねェのかよ…」
「しかもこれ……『傭兵募集』って……この国、戦争するってことか?」
「おいおい、徴兵制度なんてないよな?おれは戦争になんて行きたくねェぞ」
 ざわざわとさざなみのように不安が広がっていく。
「いや、だが待てよ」
 そんな中で、明るい声で呼びかける者があった。ドレッドヘアの比較的若い男だ。
「ひょっとしたら、これで下町の治安も多少改善されるんじゃないか?」
「そうだよ。何も疑われるようなことしなけりゃ安全なんだろ?」
「それに、ホラ、“警察”がなくなるわけじゃないだろ?何も全部の権限が王室に依託されるってワケじゃあなさそうだし…」
「あ、ああ…そうだよな…」
 最前列の男が戸惑いながらも頷いた。
「ファーガスが死んで、レイダー様が国王になって、この国はよくなったハズなんだ」
「そうだよな。文字にすると少し横暴に感じるが、今この国のあたまあのレイダー様なんだもんな。きっとこれも治安改善や国防の一環なんだろう…なんせ近海には海賊がうじゃうじゃいる時代だしな…」
「そうだ、とにかく王を信じよう」
 人々は顔をあわせて頷き合った。胸に残るもやもやとしたわだかまりは見ないようにして。ドレッドヘアの男の左胸に、“毒蜘蛛”のドクロマークが縫い付けられていることにも気づかずに。
***
 イーヴィは『武器』の柄を胸の前できつく握り締め、一枚の扉の前で深く息を吸った。王の間——兄と違ってまじめに執務についているのならば、レイダーはこの向こうにいるはずだ。イーヴィはできる限り気配を殺し、扉に耳を寄せてみた。
「いったいどういうことだ!! 話が違うじゃないか!!
 レイダーの声だ。憤って少し荒れている。
「そう息巻くな。せっかくの酒がマズくなる」
 低い嗄れ声が聞こえ、イーヴィは胸がドキリとした。知らない声だ。
「レイダー、お前も一杯どうだ?」
「約束が違うじゃあないか!わたしはお前が出した条件を全てクリアしたはずだ!」
 やはり様子がおかしい。イーヴィは眉をひそめ、全身を扉に押しつけるようにして耳をすませた。
「ああそうだなァ、レイダー」低い声が笑った。「確かにお前はおれの期待通りの働きをしてくれた。海王類を使ってテロを起こし、無実の老人にその罪を被せ、そして殺した……」
 イーヴィははっと息を呑んだ。
「……そして白々しくも王座を継ぎ、表向きは人のいい国王となったわけだが——それはあくまでもおれのためだ。分かってるな?本来ならおれが直接この国を仕切ってやりたかったが、あいにくおれの顔は売れちまっててな。さすがに毒蜘蛛のダグラーのままじゃあ……政治はできねェからなァ…!!
 心臓が警鐘を鳴らしている。恐怖で全身の感覚が麻痺し、体に上手く力が入らなかった——こ、こいつが…2900万ベリーの賞金首……“ダグラー!! この扉一枚挟んだ向こう側に海賊がいるんだ…!脳みそが揺さぶられるような感覚がして、視界に映るもの全てがブレて見えた。指先が震え、今にも『武器』を取り落としてしまいそうだ。
「…そうだ。わたしは…ダグラー、お前の“操り人形”だ。だがそれには条件があっただろう…!?」
 レイダーの声も心なしか震えているように聞こえた。だが、それが怒りによるものなのか、イーヴィと同じ恐怖によるものなのかまでは分からなかった。
「条件〜?さて、なんだったかなァ…」
とぼけるな!! わたしが兄を殺して王になり、貴様にその権限をくれてやれば、国民の命は保障すると言っただろう…!!!
!!!
 イーヴィは「まさか」と声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。彼は国民を人質に取られていたというのか…。
「あー、それな。だからそれはちゃんと保障してやるっつったろうが」
「しかし…!貴様は現に——」
「ただ、おれはなにも『国民全員の命』とは言ってないぜ。たとえ半分以上殺しちまったとしても、何人か生き残ってる奴がいりゃあ契約を破ったことにはならねェ……おい、ラック、そうだろ?」
「違ェねェ」
 また別の男の声が答えた。他にも何人か下品に笑う男の声がする。こいつら、全員海賊の仲間か!?——イーヴィはごくりと唾を飲んだ。
 それにしたって……「殺す」?「命」?「生き残る」?いったい何の話を…?
「そもそも作戦の第一段階で大勢が海王類の餌食になってんだ。今さら『これ以上殺すな』なんて言われても失笑するしかねェなァ……カカカカカ…!! それにな、レイダーよ、これはお前にこの話を持ちかけるずっと前から決まっていたことなんだ。今さら“操り人形”がギャーギャー喚いたって、覆らねェんだよ」
「ダグラー…!!
「この島は、いずれおれ達『毒蜘蛛海賊団』と、その傘下の10の海賊団の活動拠点となる。数えきれねェほどの手下どもがよりつくだけじゃねェ。武器はもちろん、薬物、兵器の保管と……まァ色々と場所が必要になってくるもんでな。そうなるとカス数万人は邪魔にしかならねェ」
(——なに…?)
 そして、次の言葉を聞いた瞬間、イーヴィは何か考えるよりも先に『武器』で扉を蹴破っていた。
「 国の奴らには死んでもらう 」


 バーン!!


 突如凄まじい音を上げて弾け飛んだ扉に、中にいた男達は一斉に注目した。レイダーは縮み上がって反対側の壁際まで後退りしたが、海賊と思われる男達は即座に武器を抜いて上座の大男を庇うように立ちはだかった。
誰だ、てめェ!!
武器を下ろせ!
船長、危険です。下がっててくだせェ!
 各々が武器を構え警戒態勢を取る。ところが、イーヴィはそれどころではなかった。『武器』を振り下ろし突入した格好のまま、上座を見上げて凍りついていた。
……ダ…ダグラー…!!!
 ゆうに2メートルは超しているだろうという、見上げるような大男。手配書の写真とまったく同じ人相だ。赤銅色の髪、顔の下半分を覆うフェイスヴェール、ギョロギョロと血走った目には狂気が溢れている。たったさっき爆発したばかりの怒りは、その威圧的な男の姿を目にしただけで、空気が抜けてすっかり使い物にならなくなっていた。
「なにかと思えば……小さなお嬢ちゃんじゃねェか…」
 ダグラーが猫なで声で言った。しかし手下達は警戒態勢を崩さない。イーヴィは震える手を叱咤してしっかりと『武器』の柄を握り直し、きっと唇を結んでダグラーを睨みつけた。
「話は全部聞かせてもらったわよ…!この悪党!」
 ダグラーのニヤニヤ笑いが一層深まった。たとえ物々しい武器を担いでいようが、イーヴィのことなど何の脅威にも感じていないらしい。
「イーヴィ…!貴様、なぜここへ……」
 レイダーが信じられないという顔で呟いた。それを耳聡く聞いたダグラーが、「ほう」と興味深げな声を洩らす。
「ラビル・イーヴィ。なるほど、これが噂の“女傑”か…」
「………」
「噂じゃ、あの『女傑軍』に所属していたと聞いたが……なんだ、ただのガキじゃねェか。興ざめだ」
 フッと鼻で笑うダグラー。イーヴィはギリギリと歯噛みした。
「ただのガキかどうか——」武器を大きく振りかぶり、子供らしからぬ低い声で唸る。「——試してみるといいわ!!!
 イーヴィは勢いよく地面を蹴り、風を切り裂くような勢いで飛び出した。ダグラーの前に並ぶ手下達が揃って臨戦態勢に入る。ところが、ダグラーは手下達の壁を飛び越え、自らイーヴィに向かってきた。イーヴィの『武器』には長いリーチがあった。対するダグラーは素手だ。彼のリーチに入る前に、空中で叩き落としてくれよう!——イーヴィは相手より少し早めに『武器』を振りかぶった。
 ——が。
やめろ、イーヴィ!」レイダーの悲鳴が聞こえた。「そいつは能力者じゃ!
 —— 何!?
「もう遅い」
 と、ダグラーが口を開けた。その口から、どろりと白い何かが溢れ出す。イーヴィは今まさに振り出そうとしていた武器を胸の前に持ち替え、ガードの姿勢に入った。次の瞬間、ダグラーの口から白い粘性の糸のようなものが大量に飛び出し、イーヴィを正面から呑み込んだ。
「…!!?
 イーヴィは空中で勢いを殺され、背中から地面に叩きつけられた。次の手が下される前に急いでこの束縛から抜け出そうと必死でもがいたが、体を覆うべとべとした何かはしつこく肌に絡みつき、動いても動いても剥がせない。
(何よ、これ…!気持ち悪い…!!
「イーヴィ!」
「カカカカカ!」すぐそばであの笑い声が聞こえた。「…ゲームオーバーだ」

 ——ドガッ…!
 腹部に強烈な痛み。蹴られたのか…!

「…ッ!! かハっ…!!
 一瞬だけ息が詰まり、イーヴィは激しく咳き込んだ。
「カカカ…!人間よりちょっと体が丈夫なくらいじゃ、このおれには敵わねェよ!」
「くっ…!」
 悔しい。イーヴィは下唇を強く噛みしめた。今さらになってべとべとの粘度が落ち、軽く腕を動かしただけでぱさりと剥がれ落ちた。腹を押さえながらゆっくりと体を起こす。
「この極悪人…!町に戻ったら……さっき聞いたこと全部言いふらしてやるから…!」
 イーヴィはダグラーのぎょろついた目玉を見上げて唸った。半透明のヴェールの向こうで、ダグラーの薄い唇がニヤリと不敵な笑みを作った。
「嬢ちゃんは随分と面白いことを言うな…」
「何…?」
「どうやら嬢ちゃんはこの状況で、生きてここから帰れると思っているらしい…!それどころか、町の人間が自分の言うことを信じてくれると思っている」
 イーヴィは言葉を失った。海賊どもの笑う下卑た声が頭に響く。
「よォ、女傑」ダグラーの悪人面がずいっと迫ってきた。「よーく考えてみろよ。よしんばここから生きて帰れたとして、国中から慕われてる王さまと、逮捕歴のある嫌われ者の外人……町のやつらはどっちの言うことを信じるかなァ?」
「……!!
 イーヴィは奥歯をぎりぎりと噛みしめ、床に転がっていた『武器』の柄をもう一度掴んだ。
「証拠があれば皆信じるわ…!! ……あんたの首とって城の前に晒してやる!
「おーおー、物騒だこと」
 ダグラーは冷めた目でそう言った。
 ブンッ——イーヴィの武器が空を切る。ダグラーは軽く上体を反らせて一撃目をかわし、次の攻撃が始まる前に、その長い足で鋭いキックをくり出した。イーヴィはそれをまともに腹に食らい、大きく咳き込みながらたたらを踏む。しかしすぐに体勢を持ち直し、再三武器を振りかぶる。
「いい武器持ってんじゃねェか。だが、——」
 あと少し…というところだった。ダグラーとイーヴィの間に、大きな黒い影が割り込んだ。そいつは腕一本でイーヴィの武器の柄を受け止めた。
!!
 イーヴィは眉をしかめた。急いで武器を引こうとしたが、男の手がしっかりと柄を掴んで離さない。
「——弱ェ奴ってのは道具にばかり頼りやがる…」男の向こう側で、ダグラーが歌うような口調で言った。「得物が良くても、てめェがカスじゃ話にならねェ。ヘタに振り回してるだけじゃ当たりゃしねェぜ」
「船長の言う通りだぜ、ったく。手ェ放しな」
 両腕を上げて武器を引っぱっていたせいで、腹がガラ空きだった。男は隙だらけのそこに容赦なく足裏を叩き込む。小柄なイーヴィはいともたやすく吹き飛ばされ、反対側の壁に背中を打ち当たって跳ね返った。
「ぐっ…」
 呻き声を上げながら床に崩れ落ちるイーヴィ。なんて力だ——痛みと衝撃で体中が痺れて動けない。
「船長、この武器おれがもらってもいいっすか?」
「好きにしやがれ。おれの趣味じゃねェ」
「へへっ。ラッキー」
 イーヴィが手放してしまった『武器』を弄びながら、男が軽く笑った。
「そのガキ始末しとけ」ダグラーの声が遠ざかっていく。「女傑人っつってもこんなポンコツじゃ使い物になりゃしねェ」
「了解、船長」
 突っ伏したままのイーヴィの視界に、二本の足が現れた。頭上から銃をガチャつかせる音がする。られる…!! ——イーヴィはギュッと目をつぶった。その途端、瞼の裏に色んなものが映っては消えた——仏頂面で声を荒げるスタンリー、いつも生意気を言ってばかりのジム、いつも城の窓から、愛おしそうに町を望むファーガス……。
 —— ダメだ。
(……このままやられっぱなしでたまるか…!)
 小さな拳をぐっと握り締める。
(王さまの大好きだったこの国を……メチャクチャにされてたまるか…!!!

ギャアアア!!!

 男が鋭い悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
 ダグラーは驚いて振り返った。

 頭から血を流し、ぐったりして壁にめり込んでいる海賊、傍らにはひしゃげた銃。壁は男がぶつかった衝撃で円形に大きく凹んでいた。一方、イーヴィは床に片膝をつき、何かとんでもないことをしでかしたらしい右手をまっすぐと前に突き出していた。
 ダグラーの口角がニヤリと吊り上がる。
「……おもしれェ。それが“女傑人”の“女”の能力か…!」
 そして、ダグラーはまたあの白いべとべとを吐き出した。勢いよく噴出したそれは、イーヴィの体を真正面から絡めとり、背後の壁に叩きつける。背中がジンジン痺れ、全身を包むべとべとは吐き気がするほど不快だったが、イーヴィは抵抗せず、ただ精悍な顔つきで静かにダグラーを見つめた。真っ向からではこの男に決して敵わないだろうということを痛いほどよく分かっていたからだ。
「気が変わった。殺すのはやめだ」
 ダグラーはゾッとするほど邪悪な笑みで言った。
「てめェは生かす。今はクソだが磨けば将来いい兵士になるだろうよ……」
「………」
「住む場所も、食い物も、金も、望むなら仕事もくれてやる。その代わり今ここで誓え。生涯おれに尽くし、そのイカれた力をおれのために使うとな!」
 イーヴィは鋭い目をスッと細めた。
「選択の余地はねェぜ…?てめェの儚い命はおれの手中にあるんだからよ…!」