目、目、目、目、目…。

 人々の目という目が、これでもかというほどに自分たちへ注がれているのが分かる。漁師や商人、子供連れの夫婦、どれがどちらの手か分からないくらいに密着しあう恋人達……まったくあらゆる人達が、こぞって一味を凝視している。いや、正確に言うと、一味の先頭を歩いているこの男を、だ。

うっほォー!!! いいにおいだ!!

 ルフィは周囲の目など全く気にせず、通りに立ちこめる食べ物のにおいに大はしゃぎしている。しかし、ナミはそんなルフィのドキドキわくわくとは裏腹に胃がきりきり痛むのを感じていた。このピリピリした視線から察するに、恐らく今朝新聞に折り込まれていた手配書は既にこの町でも出回っているのだろう。それにこの規模だ。町のどこかに手配書が張り出されているかもしれない。
「やっぱり都会はさけた方がよかったかしら…」
 額を押さえてナミが呻くと、さすがにウソップも同調した。
「確かに。なんかすげェ視線感じるな…」
「そうか?」
「そりゃ今朝新聞で見た顔が町歩いてりゃなァ…」
 くわえタバコの先を上下に揺らしながらサンジが言う。その割にはあまり気にしていないような口ぶりだった。ゾロに至っては向けられる視線の不自然さに気がついてすらいない。ナミは呆れた。
「アンタ達ホンット図太いわよねちょっとは危機感ってものを持ちなさいよ
「危機感って言われてもなァ…」ゾロが頭を掻きながら困ったように呟いた。
「ちょっとは顔を隠すか道を変えるかしたらどう?ココヤシ村とはわけが違うんだから。状況も場所もね私は海兵に追われるなんてゴメンよ!!
「ナミは心配性だなァ~。大丈夫だって」
 先頭切って歩いていたルフィが、頭の後ろで両手をくんで至極気楽そうにナミたちを振り返った。
「そんな簡単に捕まらねェから安心しろ。だっておれ達強ェもん。な
「なじゃなくて……はァ…もういいわ…あんたらに何か言ってもムダなだけだわ」
 ——けど、何かイヤな予感がするのよね…。
 それは、船長が異常なまでに楽観的なせいか、それとも、自分達へ注がれている視線に恐怖よりも色濃い何か感じるためか——根拠はいまいち掴めなかったが、どうも胸の奥に慢性的な不安が蛇のようにとぐろを巻いているような気がしてならなかった。買い出しを終えて無事に出航するまで、何も起こらなければいいのだが…。
***
 ——同時刻
 フィリンシア城 軍事司令室

「お勤めご苦労。報酬だ」
 そう言って無造作に放り出された袋を、彼女は冷め切った目で見下ろした。ぱんぱんに膨れ上がった麻袋。その口からはベリー札の束がちらちらと顔を覘かせている。
「……しかし、2番隊はいつも仕事が早ェな」
 彼女が袋に手を伸ばしたときを見計らって、目の前の男が言った。大柄な体にちょこんと据え付けられた小さな頭。「脳みそまで筋肉」という悪罵は、まさにこういう男のためにあるのだろう。見苦しいまでの巨体が小さな肘掛け椅子にぎゅうぎゅうと押し込まれているさまは、妙な違和感を与える。
 一度止めた手で素早く袋をつかみ取り、彼女はフードの下で静かに唸る。
「それは褒め言葉?」
「フン。それ以外にどう聞こえる?」
「皮肉っぽいなって思っただけです」
 敬意の欠片も見受けられない話し方だった。しかし司令官は取り立てて気にしない。するするとマントの内側に納められた袋を見送って、彼は再度口を開いた。
「確か…今夜は非番だったな」
 ほんの一瞬、彼女の時が止まったかのように見えた。
「…ええ」
「なら、今日はもうゆっくり休むといい。明日からはまた大変な毎日になるだろうよ」
「あんたが傭兵の心配をするなんて珍しいのね」
 女のフードの暗闇から、フッとあざけるような笑い声が漏れた。司令官は怪しげな笑みを浮かべ、「おれだって女性を気遣うことくらいするさ」と軽口を叩く。
「そう。でもあいにく、今晩は本業の方があるからムリね。戦争だけでは食ってけないもの」
 バサッとマントが翻る。マントの持ち主は薄暗い司令室を大股で横切って、木製のドアに嵌め込まれた金色のノブに手をかけた。出て行く背中を追いかけるように、部屋の奥から冷たい声が投げかけられる。
「そりゃずいぶんと大食漢だな」
 疑い深い切り返しだ。彼女は顔だけを振り向かせ、唯一見える口元にうっすらと不気味な笑みを浮かべてみせる。

「 そうでしょ? 」
***
 何も起こらなければいいのだが——なんて、所詮最初から無理なお話だったのだ。この麦わらと一緒にいる限り、危険な面倒事は必然的に舞い込んで来る。いや、この麦わらが危険の中に飛び込んでいくと言った方が的確かもしれない。とにかく、こんな風になることは予測済みだったわけだ。
 ナミはこめかみを指で突つきながら、荒く溜め息を切った。
 事態は数分前までさかのぼる。

や、やめろ何するんだこの野郎!!

 平和な昼時には決して似つかわしくない叫び声。それと一緒に何かの割れる音がした。一味が目を丸くして右を見ると、こじんまりとしたレストランの前で、三人のゴロツキと一人の青年が揉め事を起こしていた。腰に下げられた刀や、下品な風体には似合わない高価なアクセサリーを見るに、どこかの海賊かもしれない。青年の制止を片手で撥ねのけ、看板を蹴り飛ばしたり、レストランの窓ガラスを叩き割ったりして大騒ぎしている。
「ゲロマズいレストランへようこそ
「おい姉ちゃん、ちょいと寄ってけよメスブタのエサにゃうってつけだ!!
「ギャハハハハ違ェねェ!!
やめろよやめろって言ってるだろ
 さらには通行人にまで罵声を飛ばす始末。青年は海賊の腰にしがみついてまで止めようとするが、極端なほどの対格差が災いし、いとも簡単に突き飛ばされてしまう。
「おーおー。物騒だなこりゃ」
 タバコを離してフーッと煙を吐き出しながらサンジが呟いた。ここで突き飛ばされたのが「可憐なレディ」だったらすっ飛んで助けにいっていただろうが、実際の被害者は立派な青年だ。先ほどの屈辱的な罵倒も特定の女性に対して吐き出されたものではないので、特に彼の逆鱗には触れることはなかったらしい。
 ——ところが。
おいお前ら!! 何してんだ!!
 ルフィの逆鱗に触れたようである。
てめェが何してんだーっ!!
 即座にウソップが突っ込んだ。
「ちょっと、ルフィヘタに騒ぎ起こさないでよバカ!!
 ルフィに声は届かず、ゾロやサンジは当然と言った様子でそれを見守っている。ウソップとナミは頭を抱えた。こんな大きな町で賞金首が海賊と暴力沙汰になったら、何が出動してくるか分かったものじゃない。
 そんな人の気も知らずに、ルフィは海賊と青年の間に割り込むようにして立ち入り、偉そうに仁王立ちまでしている。
「なんだァ?てめェ」
「おめェさっきから黙ってみてりゃ好きホーダイしやがってそんなまずいのか?ここ」
まずいわけないだろ」咄嗟に否定したのは青年の方だった。「おじさんの作った料理がまずいはずねェこいつら、店にクレームつけてタダ食いしようって魂胆なんだそれをおれが断ったから、こんな風に店を荒らして——」
「なに!?ひでェ奴らだなー
 青年の言い分を聞いて、ルフィはますます機嫌を悪くする。彼は薄汚い笑みを浮かべている面々を親指で指し、くるりと仲間の方を振り返った。
「なァ、こいつらぶっ飛ばしていいか?」
ダメに決まってるでしょ
 ルフィの提案は審議前にナミによって却下された。ぶっ飛ばす許可は下りなかったものの、その提案は海賊達の矛先を変えるには充分な効果を出してしまったようだ。
「オイオイオイ。何のつもりだ?てめェ。ずいぶんと好き勝手言ってくれちゃってよォー」
「なめんじゃねェぞ、クソガキ」
「おれたちをボガーティ一味の幹部と知っての狼藉かァ?」
「なんだそりゃ。知らねェ」
 しゃあしゃあとしたルフィの態度にすっかり挑発され、ゴロツキたちは揃いも揃って肉付きのいい顔を真っ赤に膨らませた。「あァ!?」——いっそう柄の悪くなった声色を聞いて、これで確実に面倒事は避けられなくなったと確信した。ナミとウソップは涙を流しながら、「あああああ…」とこの世の終わりのような声を上げて抱き合った。
「おれ達を知らねェだと?世間知らずにも程があるぜ、麦わら野郎」
「今やこの“東の海”を支配している存在、剛力のボガーティ率いる最強の一味だおれ達にゃ逆らわない方が身のためだぜ」
「親切で忠告してやってんだ。素直に聞き入れろよ田舎ボーズ」
 相手も相手だ。これは明らかに喧嘩を売っている口ぶりだ。どうやら今朝の新聞に折り込まれていた手配書にはまだ目を通していないらしい。いや、そもそもこういう輩は新聞を買ってもいないような気がする。「東の海を支配している」なんて大口を叩いておきながら、呆れるほど身のほど知らずな連中である。
「誰だそれ。ヘンな名前」
 …まぁ、ルフィもルフィなのだが。
てっめェ!! どこまでバカにすりゃ気が済むんだ!?
 真っ先に逆上した一人が、出窓に飾られていた植木を適当に引っ掴み、洒落た紋様の鉢ごとぶん投げた。ルフィは反射的に身を翻してそれをかわす。植木鉢はガシャアンとけたたましい音を鳴らして、見るも無惨に砕け散った。
 淡い紫色をした胡蝶蘭。溢れ出した土と割れた鉢の破片を被って、アスファルトの上にぐったりと倒れ込む。その瞬間、ルフィの足元で尻餅をついていた青年が、恐怖とは違う音色の声を「あっ…」と上げた。
「………」
 彼の声に気がついたのは、ルフィただ一人だった。青年の視線の先でバラけてしまった土のかたまりを見て、ルフィの顔から一切の表情が消し飛んだ。
「おい」
 その瞬間、賑やかだった筈の通りは、耳鳴りさえ聞こえるほどの静けさの中に落ちていった。緊張の走る静寂の中心にいるのは、田舎臭い麦わら帽子と、三人のゴロツキだ。
「おめェ、謝れよ」
 傷みかけの麦わら帽子を手で押さえ、ルフィが静かに言う。しかし海賊達にはその言葉の意味を理解できなかった。そればかりか、通りの空気が入れ替わったことにさえ全く気がついていない。
「はァ~?」
「謝る?何言ってんだコイツ」
 散乱した植木鉢の破片をザリッと踏みにじり、海賊達がルフィに近づいて来る。毛むくじゃらの熊のような手が無遠慮に伸びてきて、くたびれた赤いベストの胸倉をぐいっと引き寄せた。
「謝んのはてめェの方だろうが。おれ達をコケにしやがって」
 差し歯だらけの汚らしい牙を剥き、ギョロギョロと血走った目玉がルフィを睨みつける。それでもルフィは眉筋一つ動かさず、「無」という一語がぴったりの表情で相手の顔を見つめ返した。あまりにまっすぐで、あまりに澱みのない視線に、海賊は一瞬胸の奥にざわりとした何かを感じ取った。

 ——それが「恐怖」という感情だったことにここで気がついていれば、彼の海賊生命も少しは長持ちしたかもしれない。

おとなしく土下座でもしやがれ
 ギュンと凄まじい勢いで、海賊の大きな拳が空を切った。麦わらの一味は無言でそれを見つめている。いや、正確にはその拳をではない。彼らが見守っていたのは、ゴロツキの拳が盛大に空振りし、入れ違いに伸びた船長の右腕が、三つの巨体をまとめて弾き飛ばす瞬間だった。

ごフッ!!?

 頬が潰れて、突き出した唇から間抜けな呻きと血が漏れる。
 麦わらのルフィは、腕を後方へ伸ばすことで勢いをつけ、自分の1.5倍はある巨体を三つも殴り飛ばしたのである。ゴロツキ達はスピンをかけて吹き飛んでいき、通りに積み上げられていた木箱をなぎ倒して崩れ落ちた。

 バチンという痛そうな音とともに元の長さに戻ったルフィは、肩をコキコキ言わせながら「ふゥ」と息を切った。まるで大したことでもなかったかのように。そんな彼を目の当たりにし、自然と群がっていた周囲の野次馬達は、目玉を引ん剥いて声にならない悲鳴を上げた。
~~~~~!!?!?
!? い、いいい今……の、のののの伸び…っ!?」
 飲食店の青年がさっきと同じ場所に尻餅をついたまま、ルフィを指差して青ざめた。当然の反応である。たった今、目の前にいる人間の腕が「伸びた」のだから。まるで、ゴムのように。
「あ、そうだ」
 愕然とする一同をまるっきり無視して、ルフィは突然に青年の方へ目を向けた。青年はびくっと肩を揺らしてあからさまに動揺する——が。
植木バチこわしてごめんなさい
 あろうことか、真昼から堂々と怪奇現象を見せつけてくれた彼は、腰を抜かして動けなくなった青年に向かって、腰の角度をきっちり90度に曲げて謝った。

 ——そして、ナミの溜め息に至る。

 一連の騒ぎを聞きつけて、野次馬達がぞろぞろと周囲に集まってくる。木箱の山を大破させて気絶している「ボガーティ海賊団」の幹部連中と、今朝新聞に載ったばかりの新鮮な犯罪者「麦わらのルフィ」。これで人目を引かないという方が無理な話である。
「どーしてくれんのよ…この騒ぎ…」
 うんざりしたような彼女の呟きは誰の耳に届くことなく、さざなみのようなざわめきに呑み込まれた。