目を覚ますと、一面灰色の世界だった。
 見慣れない殺風景、馴染みのない湿気と冷気。その中に彼はいた。長い手足が冷たい石畳の上に放り出されている。ぼんやりとした意識の中で、ひとつの疑問が浮かぶ(一体、ここはどこだ…?)。
「うっ…」
 訳も分からず体を起こそうとすると、重い倦怠感が全身にのしかかっていることに気付いた。続いて後頭部に走った鋭い痛みが意識を覚醒させる。そうだ——サンジはようやく自分の置かれている状況を思い出した——あのジムとかいう策士の罠に嵌められ、警察に襲撃されたのだ。そこで、クルーの2人を人質に取られて…。
「あっ、ナミさん!!?」
 サンジは勢いよく跳ね起きた。目当ての航海士は、自分よりも少し離れたところで仰向けになって倒れていた。豊かな胸が上下しているのを見るところ、息はある。どうやら気を失っているだけのようだ。安堵を抱く。それにしても、レディにまで手を挙げるとは…とんだ野蛮な連中だ。サンジは怒りと呆れが半々に入り交じった溜め息を荒く切り、長めの金髪をガシガシと掻き回した。あんな奴ら、ルフィが健在なら2秒で伸してやったというのに——。
「…って、そうだルフィ!!
 ワンテンポ遅れて最重要事項を思いだした。慌てて周囲を見渡すと、緑色の髪の剣士の腹に折り重なるようにして、麦わら帽子の少年が盛大にいびきをかいている。
「なんだ、無事か…」
 何せ3000万ベリーの賞金首だ。てっきり海軍に引き渡されでもしたのかと危ぶんだが、どうやら杞憂だった模様。
「よし……他のクソ野郎共も全員無事だな…」
 船長の下でうなされているマリモ剣士と、その後ろでひっくり返っている長鼻の狙撃手の姿も確認できる。サンジはホッと息をついた。
「しかし…こりゃまた厄介なとこにブチ込まれたな…」
 長い足をスッと伸ばして立ち上がり、溜め息まじりに金髪を掻き回す。一味は5人揃って一つの房の中に閉じ込められていた。左右と背後は分厚い石壁で囲まれており、正面には丈夫な鉄格子が嵌め込まれている。長々と敷かれた廊下の向こうには、ここと同じような房がいくつも置かれ、4~5人の男たちが収監されている。
 サンジは格子に歩み寄り、頑丈な鉄格子をコツンと靴の先で突ついてみた。
「壊せっか?コレ…」
 物騒なことを呟いてみたものの、到底できそうな気がしない。格子の間から外側の様子を覗き込んでみると、出口の扉が頑丈な錠前でガッチリ固定されているのが見えた。
「ご丁寧にどーも…」
 どうやら完全に幽閉されてしまったようだ。

「……うっ…」

 辛そうな呻き声が聞こえ、サンジはバッと振り返る。ナミが起き上がっていた。右手を床について体を支え、もう一方の手で額を押さえている。具合の悪そうな様子だ。
「ナミさんよかった、気がついたか」
 サンジは慌てて彼女のもとへ駆け寄った。
「具合でも悪いのかい?」
「え、ええ、ちょっとね…でも大丈夫よ」
 心配そうに顔を覗き込んで来るサンジを払いのけるように、ナミはパッパと手を振った。そして先ほどサンジがやったようにおぼつかない足取りで立ち上がり、薄暗い房の中をぐるりと見渡す。
「何なの…ここは…」
「どっかの牢屋だな。見た感じそう古くもねェし、この国の監獄か何かだろ」
 ナミに続いて立ち上がりながら、サンジが答える。その時、2人の足元で再び「うっ」が聞こえ、ウソップとゾロが次々と目を覚ました。
「あ、ウソップゾロ
 ナミが呼びかけたことでようやく完全に覚醒したようだ。重たそうに上半身を起こし、きょろきょろ辺りを見渡した後、結局2人とも正面の頑丈そうな鉄格子に目を移す。
うわ何じゃこりゃ!!
「なんだ?海軍にでも捕まったのか、おれ達」
 ゾロは鮮やかな緑色の短髪をガシガシと掻きながら立ち上がろうと腰を浮かせた。しかしその拍子に、先の襲撃で負った痛みを思い出し、小さく呻いて頭部を押さえた。
「ってェ…まだ頭がガンガンしやがる」
「たく、いつまでも寝ボケてんじゃねェよ。役立たずの万年寝マリモ」
「あ゛ァ?何か言ったか?この貧弱エロコック」
「「やんのかコラ」」
 たった一言の悪罵で体の軋みは一気に消し飛んだ。さっそく喧嘩をおっぱじめようとしたサンジとゾロだったが、2人とも突然聞こえてきた「コホン」という埃っぽい咳払いでフッと怒気を収めた。皆の視線が一点に注がれる。
 暗い、濃い影の落とされた、房の片隅。
 見知らぬ老人が一人、ぽつりと座り込んでいる。
 骨と皮ばかりの痩せこけた老人だった。くっきりと筋の浮き出た腕や脚は、ぼろ雑巾のような粗末な衣服に包み込まれている。息も浅い。大分衰弱しているように見える。どうしたものかと戸惑い沈黙していると、ふいに老人の落ちくぼんだ両眼が力なくサンジとゾロの姿を捉えた。
「目覚めなすったか、お若いの」
 カラカラに渇ききった、しかしどこか威厳の残った声だった。声を絞り出すたびに、筋張った首で喉仏が上下する。
「じいさん、誰だ?」サンジが訊ねた。
「見ての通りさね……ゲホッ…お前達と同じ、囚人じゃよ」
「囚人…?じゃ、ここはやっぱり監獄か!?」
 ウソップが頭を抱えて絶望的な悲鳴を上げた。その様子を見て、老人は弱々しく笑う。
「安心せい。海軍の牢屋ではない…まあ、だからといって助かったわけでもないが……武器も全て取り上げられておろう」
 言われて初めて、一味は自分達の体が普段よりも身軽になっていることに気がついた。ゾロの刀は勿論、サンジが万が一に備えて所持していた拳銃も、ウソップのポーチも、ナミが服の中に忍ばせていた三節棍も、徹底して抜き取られている。更には——。
「えっ、ちょっと私の財布は!?」
「おれのタバコもねェ!!
「ってよく見たらおれのゴーグルもどこ行ったー!!?」
 各自私物まで取り上げられている。
「財布もタバコもゴーグルも……ゴホッ…房で生涯を終えるなら必要なかろう…」
 老人があざ笑った。自分の体をぺたぺた触って大騒ぎしていた一味は、ぱたりと押し黙って牢屋の隅に目を戻す——『房で生涯を終える』…?今この老いぼれは、そう言わなかったか…?
~~~~!? そ、それっておれら死刑ってことかよォオオ!!!
 ウソップが痛烈に叫ぶ。最初の悲鳴は言葉にすらなっていなかった。
「何を今さら……カフッ…ここは“警察”が所有する“フィリンシア監獄”…死刑判決を下された輩が収監される」
いやいやいやいや待てよ、おれ達ァまだ裁判にもかけられてねェぜ!?」とサンジ。
「いえ…」ナミは静かに首を振った。「この国の役人って言ったら、無害な通行人を気分や都合で処刑するような連中よ。そんな横暴を許すデタラメ国家が裁判なんてやると思う?しかも海賊相手に
ゲホガホッ…これはまた随分な言われようじゃな…」
 老人が一層大きく咳き込んだ。ひょっとしたら、これは咳ではなく笑っているのかもしれないと思ったが、誰もそれを口にしようとはしなかった。
「まあデタラメ国家は否定できんな…それに嬢さんの言う通り、今のこの国では賊の者相手に裁判は執り行われん。警察により捕らえられた海賊は数日間禁錮され、後に処刑される——」
「処刑って…?」
「この国で人を処刑する権限が与えられているのは、国王とその直下にある国王軍のみ……ガハッ…お前さん達は海賊なのであろう?ならば恐らく、数日後に君たちの身柄は国王軍に引き渡される…賞金の懸けられている者は海軍に引き渡され、その他の者は縛り首…ってところじゃろうな」
「「!!!!」」
 この時のナミとウソップは、言葉には書き起こせないような衝撃的な顔をしていた。目玉はひんむかれ、顔色は真っ青。勿論、老人から告げられた恐ろしい結末に対するリアクションである。
「ししししし縛り首って…
 ウソップの分厚い唇は、恐怖でカタカタと小刻みに振動している。ナミの目にはじんわりと涙が滲んだ。
「何が『国王軍に通報しなかっただけ感謝しろ』よ、あのレストランのやつ結局殺されるんじゃない!!
「……レストラン…」
 コホッと控えめな咳を挟んで、老人がポソリと呟いた。
「国王軍に…通報しなかった?お前達を通報した輩はそう言ったのか…?」
「ああ、言ってたな」サンジが頷いた。「だがどっちにしろ数日後には奴らに引き渡されんだろ?同じことじゃねェか」
「そうとも限らん……もしかしたら、お前達は助けられたのかもしれん…」
「は?何言ってんだ、じいさん」
 ウソップが思い切り眉を吊り上げた。こんな薄暗い牢獄にブチ込まれることが『助けられる』?まったく話が読めない。老人は落くぼんだ目玉をゆっくりともたげ、房の中の若者達を見極めるようにじっくりと観察した。ちくちくと突き刺さる視線に一味は居心地の悪さを感じる。老人はやがて仕舞い込むように目線を下ろし、少し細い声で問いかけた。
「よもや……その通報者は…“ジム”という名の青年では…?」
「あ、そうそう。そいつだ」
 ゾロが即座に答えた。老人は「やはりな…」と呟く。
「なんだ、じいさんあいつのこと知ってんのか」
 返された質問に老人は答えなかった。好き放題に伸びたあご髭を骨張った手でさすり、考え込む仕草をしている。数秒間の沈黙の後、老人はようやく思考が纏まったらしく、意を決したように口を開いた。
「この監獄は…今夜——」
 その時。

 ——バシャッ

 老人の言葉を故意に遮るように、鉄格子の外から大量の水を浴びせかけられた。

きゃっ!!
「うわ
「どわっ!? 何だ何だ!!?」
 それまで大イビキをかいていたルフィも、これにはさすがに驚いて跳ね起きた。房の隅にいた老人に被害が及ぶことはなかったが、麦わらの一味は揃いも揃って哀れなぬれねずみだ。
何すんだ!!
 びしょ濡れになった黒髪を振り乱し、ルフィが牢屋の外を睨んだ。寝起きにも拘らず鋭い反応である。
「あーら、ようやくお目覚め?“麦わらのルフィ”」
 甲高い、明らかな嘲りの色を含んだ声。

 最初に目に入ったのは、クジラの噴水のような黒い何かだった。少し視線を下ろしてみると、それは女の子のポニーテールだと分かった。顔の両側で大きな銀色のリングピアスが揺れている。この薄ら寒い牢獄の中、女の子はノースリーブのワンピースを一枚着ているだけだった。両腕には黒いアームウォーマーを嵌め、首には同色のバンドが巻かれている。

フィリンシア監獄看守長/第2傭兵隊隊長
“女傑のイーヴィ”

ラビル・イーヴィ

清潔第一警備二の次フィリンシア監獄へようこそ、海賊ども!!
 厭味たっぷりの笑顔を浮かべて、イーヴィ看守長は高らかに言ってのけた。
***
「ラ、ラビル…イーヴィ…!!
  房の隅にしゃがみ込んでいた老人から、驚愕と焦燥の声が漏れた。彼が口にしたその名は、一味内の空気の流れをまたたくまに狂わせる。

 ラビル・イーヴィ。
 イーヴィ。
 女傑のイーヴィ。

「えっ…イーヴィってまさか…この子が…!?」ナミがパッと両手で口を覆った。
「奴の言ってた“女傑人”…」サンジはあんぐりと口を開け放っている。
「第2傭兵隊最強の…現役看守長!?」ウソップの顎は今にも外れそうだ。
「んな強そうか…?」ゾロは顎をさすりながら顔をしかめた。
「へー。こいつがジョーケツ人か」ルフィはキラキラと物珍しそうなまなざしを向ける。

 一気に色々な視線を注ぎ込まれ、イーヴィ看守長は少し尻込みした。「よそ者のくせになんでそんなに知ってるの」とでも言いたげなのがありありと窺える。
「なんっっっって可憐なレディなんだ♡♡」
 戸惑った様子のイーヴィの足元に、目をハートにしたサンジが跪く。といっても鉄格子越しではあるのだが。
「え?」
その困ったように揺れる黒曜石のような瞳、桜色の唇、陶器のように白い肌…!なんてかわいらしいんだ♡君を見るたびこの胸は張り裂けそうに疼き出す…!ああ、僕は今や恋という名の牢獄に捕らえられた愚かな囚人…!君のためなら僕は火の鍋にだって喜んで身を投げよう!! 好きです♡付き合ってください♡♡
 サンジは芝居がかった口調で歯の浮くようなセリフを高らかに連発する。そしてやけにうやうやしい振る舞いで格子の間からイーヴィの手を取り、彼にとって一番の決め顔で『黒曜石のような瞳』をジッと見上げた。
「……いや…鉄格子越しに口説かれても…」
「エ」
 照れるわけでもさらりと流すわけでもなく、真面目に本音を返される。思わぬ返答にサンジは硬直する。
「まァ普通そうよね」ナミがとどめをさした。
 サンジは本日1番と言える多大なショックを受け、房の隅にうずくまってしまった。細身の体に哀愁を背負い、周囲にはよどんだオーラが漂っている。どう接していいのか本気で迷ったゾロは恐る恐る「ドンマイ」と声をかけ、「うるせェ」と返されるのだった。
「ところでおめェ、」
 一連のやり取りは綺麗にスルーだ。ルフィはイーヴィを見つめて首を傾げた。
「なんで牢屋なんかに入ってんだ?」
お前達だ入ってんのは!!
 ありえない勘違いにイーヴィは「ガーン」とショックを受ける。しかしルフィの受けた衝撃は彼女以上に強烈だった。
何ィ!?おれ達牢屋に入れられてんのか!?
今さらかよ!!
 看守長に加え、麦わらの一味や老人までもがビシッと突っ込みを入れた。
「…ていうか何フザけてんのよ
 危うく一味のペースに持っていかれそうになったイーヴィが、慌てて正気に戻った。
「あんた達今の状況分かってんの!?牢屋に入れられてんのよ、牢屋!!看守長口説いたりボケかましたりしてる場合じゃないはずでしょ
「あ、ホントだ」とルフィ。「じゃあ退屈だな。寝るか。それか何かうまいもん食わしてくれ」
…執行早めたい?
ギャアアアアア馬鹿野郎お前が余計なこと言うからあああああっっ!!!
 ウソップが涙しながらルフィを背後からガクガク揺さぶった。
「じゃー何しろって言うんだよ……あ、そうだお前仲間になれ」
「…は?」
 突拍子もないルフィの発言に、イーヴィ看守長はまたしてもポカンと呆けた顔つきになる。
「「勧誘してる場合かァ!!」」
 スパァーンと小気味いい音を響かせ、ゾロとナミがルフィの頭を全力でひっぱたいた。ルフィは「ぐえ」とカエルの潰れたような声を洩らし、よく磨かれた石畳に体を沈めた。
「あの子の言った通りよ。あんた自分の置かれてる立場分かってないんでしょ私達は囚人なの処刑されちゃうのよ
「そうか」ルフィはガバッと頭を持ち上げた。目が血走っている。「じゃあお前、おれ達をこっから出してくれ!! お前ここで一番偉いんだろ!?」
「いや出してくれるわけねェだろ!!
 ウソップが目をひんむいて突っ込んだ。それでもルフィは必死の形相だ。
「ぷっ…」一味のぶっ飛んだやり取りを見て、イーヴィがふき出した。「アハハ
 腹を押さえて豪快に笑い出す看守長。(わ、笑われた…?)——ウケを狙ったつもりは毛頭ない。予想外のリアクションに戸惑い、ナミとウソップは目を見合わせる。2人を尻目にイーヴィはひとしきり大笑いすると、目尻に滲んだ涙をそっと指で拭って大きく溜め息をついた。そして、呆気にとられている麦わらの一味に向かって、
「なーんだ。3000万の賞金首っていうからどんな大物かと思えば…ただのゴミね」
 と、盛大に厭味をぶっ放した。
な、なんですって!?」ルフィの代わりにナミが食ってかかる。
「だってそうじゃない。あんな見え透いたやり口にまんまと引っかかって、仲間一人救えない。国王軍に引き渡されると分かった途端に看守に命乞い私ビックリしちゃった。あんた絶対船長の器じゃないわ。こんな小物に付き従ってるようじゃ他の奴らもたかが知れる——悪いけど、私は助けてやらないからね。あんた達みたいゴミくず、解き放ったら町が腐る
 甲高い声で淡々と吐き出される悪罵の数々。ナミは悔しさのあまりギリギリと奥歯を噛み締めた。
「ちょっと、ルフィ何か言い返しなさいよあれだけ言われて悔しくないの!?」
「う~ん、よく分からんがすげェ嫌なやつだってことは分かった
 ルフィが珍しく機嫌を損ねている隣で、サンジはフッと苦笑を漏らした。
「参ったね…随分と毒舌なお嬢さまだ…」
「まったくだ」ウソップが頷く。「おいルフィ、まだこの女を仲間にいれたいとか思ってんじゃないだろうな?」
「ああ。やめた
 ルフィがきっぱりと言い放った。勿論、牢屋の中の犯罪者達にどれだけ煙たがられようが、罪人を取り締まる立場にいるイーヴィとしては痛くも痒くもない。
「バカ言わないでよ。あんた達の仲間になるなんてこっちから願い下げそれに——」
 イーヴィがパチンと指を鳴らすと、廊下の死角から彼女の部下と思しき男が何かを持って駆け寄って来た。彼女はそれを男の手からもぎ取り、奴隷に物を与えるような乱雑な所作でナミの足元に放った。
「——あんた達は二度と海になんか出られない」
 ナミは一度しゃがんでそれを拾い上げた。銀色の安っぽい懐中時計だった。
「その時計が夜中の12時を差したら、あんた達の身柄は国王軍に引き渡される予定よ。つまりあと9時間とちょっとの命ってこと…せいぜい仲間とメソメソ嘆いてれば?」
 そしてまた厭味な高笑い。ヒールの音を響かせて立ち去る女の背中を、ナミは渾身の力で睨みつけた。まるで目で射殺そうとでもしているかのように。
「何が『町が腐る』よ……正義の肩持っちゃって…自分だって傭兵面して何百人と殺してきてるくせに!!

 遠ざかっていく靴音が、一瞬だけ凍りついたように静止した気がした。