「いいかね、諸君。これは我が一味の存亡を懸けた一大重要プロジェクトである。これまでは多少のハプニングも大目に見てきてやったが、今回ばかりはいかなる失敗も許されない。なぜならこのプロジェクトにおいては、些細なミスでも命取りになるからだおれの……あ、いや、おれ達全員の命の安全を確保するためには、君達に全力を出し切ってもらわねばならん。分かるかねルフィ君、おれの言ってる言葉の意味が」
「いや。まったく」
「つまり、お前のちょっとしたミスで仲間全員の身が危険にさらされるから慎重に行動しろってことだ。わかったか?」
「いや。まったく」
てめェ脱獄する気ねェのかコラァーっ!!
 自称キャプテン・ウソップは、全く精気の感じられないルフィに向かって「くわっ」と目をひん剥いた。ルフィは凄まじい怒号にもほとんど動じていないようで、暢気に鼻をほじっている。
「よせ、ウソップ。ルフィに当たんな」
 サンジは鉄格子からそう遠くない位置にあぐらをかいて座り込んでいる。よほど看守長の少女を気に入ったらしく、廊下の扉が開いたら真っ先に口説き出せるよう身構えているのだ。
「別に当たってるわけじゃ…」
 ウソップは溜め息と一緒に後の言葉を呑み込んだ。冷静沈着な仲間達の様子を見、話を途中ですり替える。
「…オイオイ、お前らよくそんな落ち着いていられるな。今の状況分かってんのか?おれ達はあと数時間で処刑されちまうかもしれねェんだぞ!?」
「改めて言われなくったって分かってるわよ、そんなこと」ナミが拳を振りかざした。「だけど、焦ったところでどうにもならないじゃない。あんたの思いついた重要プロジェクトとやらも全然現実味ないし。第一何なのよ、『ゾロが鉄格子を斬る』って刀もないのにどうやって斬るワケ!?それに、仮に刀があったとしても、こんな頑丈な鉄の塊斬れるわけないでしょ!?どうせ考えるならもっと役に立つこと考えなさいよ
 相当ストレスが溜まってきたのだろう。ナミの主張は言葉を重ねるたびにどんどん説教じみてきた(ちなみに名が挙がったゾロ本人は、房の石壁に背を預け、険しい仏頂面で腕組みをしている。どうやらナミ以上に機嫌が悪いらしい)。ナミの言うことが痛いくらいに的を射てきたので、ウソップは「うっ」と喉に何か詰まったような声を洩らし、しゅん…としょげ込んでしまった。そこへ、
「おれもナミさんに賛成だ」とサンジが追い討ちをかける。
「よく考えろ。たとえば幸運にもこの檻を突破できたとする。おれ達は国王軍の手を逃れて海に出れるかもしれん。だが、その代償はでかいもんだ…」
「代償…?」
 ウソップがキョトンと聞き返した。サンジはカッと目玉を剥き、
おれの愛しのイーヴィちゃんが責任問われちまうだろうが!!
てめェは誰の味方なんだチキショー!!!
 しかしサンジの『コレ』は今に始まったことではないと判断し、ウソップ以外の仲間は誰も突っ込まなかった。

「……驚いた…」
 ゲホッとお決まりの咳を置いてから、老人がぽつりと呟きを洩らした。一味の視線は再び房の片隅へと注がれる。
「こんな窮地に立たされているというのに……カハッ…君達はまるで現状を楽しんでいるかのようだ…」
うおっ!?誰だおっさん
 二十分ほど前に目を覚ましたばかりのルフィは、未だに老人の存在に気がついていなかったようだ。すり切れたシーツのような服装の老人をびっくりした顔で見つめている。
ゴホッ……そういえば自己紹介がまだ済んでおらんかったな…わしはの名はスタンリー。お前達と同じ死刑囚じゃ」
「へェ、そっか。おれはルフィおっさんと同じ——」
 ルフィは笑顔でそこまで告げた後、何か衝撃的な事実に気がついたような顔をした。今度は一体何事かと思えば…。
「——死刑囚ーっ!!?
いやそれも今さらかよ!!
 何度同じ突っ込みをさせれば気が済むのやら。麦わらの一味とスタンリーは、その時胸中に全く同じ感情を抱いた。

「やはりな…ゲフッ…まったく、君達の底抜けた明るさには救われるわい……」
 スタンリーは咳なのか微笑なのか判断し辛い咳を挟み、すこし脱力してみせる。彼の纏っていた刺々しい雰囲気が、ほんの少しだけ和らいだように感じられた。
「そうか?別にいつも通りだけどな」
 ルフィは冷たい石畳の上にあぐらを掻いたまま、体の向きをスタンリーの方へ向けた。スタンリーは孫の冗談に付き合うような浅い笑いを返す。
「そうかい……ゲホッ…お前さん達はまだ…諦めちゃいないんだろうねェ…」
 スタンリーの取り落とした呟きに、ルフィは目をぱちくりとしばたいた。そしてけろっとした口調で、
「当たり前ェだ。おれは“海賊王”になる男だからね」
「な…!?」
 あまりにも確信めいた断言。スタンリーには一瞬それが本心なのか見極めることができず、今度は彼が目をしばたく番となった。『海賊王』とはこの世の総てを手に入れた賊に付与される称号だ。そんな恐ろしい言葉を堂々と口走っておきながら、ルフィはただ「ししし」と笑みを浮かべている。
「お前さん…意味を分かっておるのか?……ゴホゴホッ…“海賊王”なんてのは…遊びで口にしていい言葉ではないぞ…!?」
「遊びなんかじゃねェよ」
 心外だとばかりにルフィはつっぱねた。
「おれは海賊王に“なる”そう決めたから“なる”んだ!!
 語調を強めて言葉を繰り返すルフィの目は、強い意志をはっきりと灯していた。一点の曇りもない、まっすぐとしたまなざし。それを銃のようにぴったりと宛てがえられては、スタンリーも用意した反論の台詞を飲み込むしかなかった。かわりに一呼吸置いてから、苦笑いと咳を置いて再び口を開く。
「海賊王が夢か……ゲホッ…バカげた夢を語るガキは死ぬほど見てきたが、そんな目をして語る輩はそうそうおらんよ…」
 スタンリーはゆっくりと顔を上げた。そしてスッと目を細める。ルフィの姿に、何かを重ねて見ているようだった。
「……いや…もう一人おったか…」
「?」
 意味深な物言いだ。ところが、ルフィ達がそれについて言及する前に、房の外から扉の開く音がした。豪快な軋み音は重苦しい威厳を持ち、牢屋中を瞬く間に黙らせる。先ほどは看守長が直々に厭味をぶっ放しに現れたが、今度は一体何事だろうか?身構える一味の耳に続いて飛び込んで来たのは——ルフィを小躍りさせる喜ばしい一言だった。

「野郎共夕食の時間よ!!
***
 時刻は午後6時を過ぎた頃。
 いよいよ夜の帳が下りて来たところで、『フィリンシア城』に不審な動きが見られた。

 『フィリンシア城』は島のほぼ中央に位置する高台に厳かにそびえ立っている。何百年とはいかずとも、そこそこの歴史が存分に刻まれた古い建築物である。城を形成するのは五つの巨大な石塔。そのうちの四つは敷地の東西南北に等間隔に配置されており、王座を持つ『中央塔』を守護している。
 ちょっと前なら国民の自由な往来で終日賑わっていたこの城も、近頃はすっかり寂れて不気味な屋敷と化していた。数年前の政権交代の後、特に誰が決めたわけでもなく、城の周囲には自然と人が寄りつかなくなっていたのである。

 ところがこの日の夕方、何年かぶりに人の気配が漏れ出した。
 それも、大量に。

 深い軋みを上げて、東西南北の塔はゆっくりと木製の扉を下ろした。久々に開放された四カ所の四角い入り口から、一様の隊服で身を覆った幾人もの兵士達が次々に溢れ出してくる。
 軍服の色は——ベージュ。
 全員、手にはフリントロック式の銃を持っている。そして腰には剣。これから戦地にでも赴くかのようないでたちだ。
「クソっ、始まったか」
 城の敷地から少々遠ざかった木陰に、人の囁く声がした。目深にフードをかぶった人物が、双眼鏡を覗き込んで城の様子を見張っている。
(疑っていたわけじゃないが……信じたくもなかった。まさか本当にあの人の言う通りになるとはな…)
 ギリギリという歯噛みの音が幽かに漏れる。塔から溢れ出した四つの群れは一つの盛大な隊列を成し、こことは真逆の方向にむかって行進し始めた。都心の方角だ。
(だが予定より早いぞ。一体どういうことだ…)
 そっと双眼鏡を下ろす。露になったのは青年とも言える若い男の顔。人が良さそうな顔立ちは、今や訝しみと憎悪で大きく歪んでしまっている。憎々しげな舌打ちを合間に挟み、
「……国王軍…
 呪詛を唱えるような声色で、町の青年・ジムはそう続けた。
***
「……足りん…」

 空になった盆の上に上体を投げ出し、ルフィはぐったりと萎れた声を絞り出した。配給された食事は、白米一杯と焼き魚の切り身一つ、そして申し訳程度の漬け物といった、あまりにも質素なメニューだった。毎食何十人分もの量を完食しているルフィにとっては前菜にもならない量だ。出された途端にぺろりと平らげてしまった。
「ああ、いくら何でもこりゃ足りん……しかも激マズときた。今度ばっかりはルフィに同意だ…」
 ウソップは名残惜しそうに最後の漬け物を口に放り込んだ。まるで埃みたいな味がする。それに比べて——溜め息をつき食器を置く。房の外から、食欲をかき立てるいい匂いが嫌がらせのように漂ってくる。
「いいじゃない。これから死ぬんだからそんなに食べる必要ないでしょう」
「………」
「それにどうせ刑の執行前は絶食よ。これが最後の晩餐ってとこね。あ、ぶどう酒いる?」
「……あのな…」
 カチャンと食器を置き、ウソップは呆れ果てたように自分のこめかみを突つく。
なんでお前ェがそこで食ってんだ!!
 サンジ、スタンリー以外の全員が手の甲を使ってビシッとツッコミを入れた。彼らの矛先に、テーブルと椅子をセッティングしてふかふかのパンにかじりついている女が一人。言わずもがな看守長のラビル・イーヴィである。ちなみに、サンジは待ちに待った少女の登場で完全に舞い上がり、先程からずっと歯の浮くような台詞をぺらぺらと唱え続けている。
ああ…♡君が傍にいてくれるのなら、たとえクソまずい料理でも僕にとっては高級料理さ♡♡なぜなら愛は最高の美味を作り上げる夢のような調味料——
「ウルサイわね。なんか文句でもあるわけ?」
 サンジの軽口を当たり前のごとくスルーして、イーヴィは言い返した。
「言っておきますけどね、私はいつもここで食ってんの。そっちが勝手にここに入って来たんでしょ」
好きで捕まってんじゃねェよ!!
 あんまりな物言いにゾロがカッと目玉を剥いた。そしてワンテンポ遅れて奇妙な点に気がつく。
「——待て。“いつもここで”だと?てめェわざわざ牢屋の廊下でメシ食ってんのか?」
「どこで食べようと私の勝手でしょ。あんた達と違って清廉潔白自由の身なんだから」
 びーっと舌を突き出してつっぱねるイーヴィ。厭味無しでは喋れないのだろうか…ゾロがイラッと顔をしかめると、彼女は勝ち誇ったようにフンと鼻を鳴らし、湯気の立つコーンポタージュに手を伸ばした。
 ——と。
あーっお前ェずりィぞ!!
 ルフィが唐突に大声を上げた。イーヴィの手がビクッと静止する。
「お前のメシだけなんかうまそうだ!! いっぱいあるし
 こういう時のルフィは目敏い。イーヴィの盆には、一味に行き渡ったものの数倍も豪華なメニューが乗っていた。
「ずるいわけないじゃなーい。私は看守長よ。で、あんた達は罪人。当然の差よ。人間の食べ物分けてもらってるだけありがたいと思いなさい」
 イーヴィは銀のスプーンをルフィに向けて言った。スプーンの先がふらふらと上下に揺れてルフィを示す。ルフィは不満げに顔をしかめ、風船のように頬を膨らませた。
「おめェ、何でおれ達にはそんな悪口ばっか言うんだ?」
「悪党に悪口言って何か問題ある?」
「あるお前ひでェぞ!! 失敬だ!!
 ウソップは咄嗟に頭を抱えた。そして彼の案の定、ルフィの発した一言は彼女の癇に障ってしまったらしい。
 ——バシッ
 激しい音にナミとウソップは思わず肩をビクつかせる。イーヴィが力任せに床へスプーンを叩き付けた音だ。
「“ひどい”?海賊風情が…よくもそんなこと言えたわね」
「ん?」
「私のことならすきに嫌ってもらって結構よ嫌われるのには慣れてるし、それに悪党にケムたがられようが何されようが痛くもカユくもないしね
 珍しく感情的な声色だった。唐突な変わり様にルフィは思わず口をつぐむ。
「海賊、海賊、海賊……回り見渡せば悪党ばっかり。捕まえても捕まえても虫みたいにはびこって後を絶たない…略奪して殺戮して、好き勝手に暴れ回るあんた達みたいな連中がいる限り、この町はどんどん汚れてく…
 一言一言、重々とかさねられる悪罵は、どこか私怨に染まっているようにも聞こえた。しかしルフィは途中で遮ることもなく、一方的にぶつけられる言葉を黙って受け止める。
「ここは監獄よホテルやペンションとはわけが違う。食事のワガママなんて通らないし、自由な外出も許されない。悪党を幽閉するためだけの場所なの。いいこと?麦わらのルフィ。あんた達はここで私の大事な町を汚した罪を反省するのよ。逃げ出すなんて許さない。二度と町には放さない。ちょっとでも脱獄のそぶりを見せてご覧なさい国王軍に引き渡すまでもなく、私がこっぱみじんにして片付けてやるわ
 突きつけられたのは明らかなる宣戦布告。ウソップはその気迫に負けてつい「はいィ」と返事をしてしまったが、ゾロは眉根を寄せ、ナミはキッと睨み返した。流石のサンジも口を閉ざして静かにイーヴィを見つめている。老人の見守る中、一味と看守は剣呑な空気に包まれた。まさに一触即発の雰囲気だ。まるで目を逸らした方が負けとでも言うように、双方が敵意の眼光をぶつけ合い、無言のうちに対峙している。
 そんな、今にも一悶着起こりそうな予感の中——。

「なんだ、お前実はいい奴だ
 と、ルフィが突拍子もなく口走った。

なっ…!?
 イーヴィが声を詰まらせた。何の前触れもなく飛び出してきた褒め言葉で顔色が微かに赤らんでいる。ルフィは格子の間からバッと手を伸ばし、彼女の手を問答無用でつかみ取った。
「やっぱお前おれ達の仲間になれ一緒に冒険しよう
「は…?あんた…?は?え、何言って…」
 驚くあまり呂律が回らない。しかしルフィの唐突すぎる発案に戸惑いを見せたのは、イーヴィだけではなかった。
「イヤイヤイヤ。何言ってんだルフィ」ウソップがあわあわと突っ込む。「たった今キッパリ敵対した直後だろ?こんなことお前に言ってもムダかもしれねェが、一応何となくくらいには空気読めよ
「そうよあんたあんだけ色々言われといて、もう忘れちゃったの!?」
 ナミも必死の形相だ。ルフィは2人に言葉を返すことなく、イーヴィに直接言葉をかける。
「いい奴さおめェ、大事な町を海賊に荒らされるのが嫌なんだろ?だからおれ達を許せねェんだ。おれ達が海賊だから。お前の好きな町をよごすと思ったから
 これに対しイーヴィは何も言わなかった。きゅっと眉根を寄せて精一杯の威厳を取り繕ってはいるが、どう見ても顔色が真っ赤なままだ。
「デュフフ~。そんな顔のイーヴィちゃんもまたカワイイなァ~♡」
 目をハートにして体をくねらせるサンジ。「うるさい」——その頭を、ナミは後ろから容赦なく踏み倒した。
「ルフィ、あんたおかしいわよ。その基準だとあのレストランの奴も同じくくりになっちゃうじゃない」
「 ? だからいい奴って言ってんじゃねェか。ばかだなァ、ナミは」
 ルフィは看守長の手をしっかりと握り締めたまま大声を上げて笑った。最後の余計な一言を聞き咎め、ナミは「バカはあんただ!!」と牙を剥く。その声でようやく意識を引き戻されたらしい。イーヴィは「ハッ」と大きく息を呑み、慌ててゴムの両手を振りほどいた。
「…かっ、勝手なことばっかり言うな誰が海賊になんかなるか
「えーっ
えーじゃないどこの世界に進んで悪党に成り下がる警察がいるんだっつの!!
「どこって…」ルフィは人差し指をぴんと突き立て、何食わぬ顔でその先をイーヴィに向けた。「ここにいんじゃねェか」
私がいつ“なる”っつった!!
 ツッコミの範疇を通り越し、虎の咆哮のような怒号が吐き出される。その迫力はウソップを縮み上がらせるには十分すぎるほど凄まじかったが、残念ながらルフィには効力を見せなかったようだ。彼は今イーヴィを仲間に引き入れることで頭がいっぱいなのである。
「お前が嫌だっつっても、おれはお前が気に入ったんだ。だからお前は今からおれ達の仲間だ
んな理屈が通るかァ!!
 キッと目をつり上がらせるイーヴィは、まるで毛を逆立てて威嚇する猫のようだった。そんな彼女にルフィは怯むどころか「あっはっは」と盛大に笑い声をふっかける。本人にそのつもりはないのかもしれないが、端から見ればルフィが彼女を挑発して遊んでいるようにしか見えない。
 やがてイーヴィも相手のペースに乗せられていることに気付いたのだろう。「ゴホン」とスタンリーばりの咳払いをして仕切り直した。
「あんたね…いい加減にしないと私も本気で怒るわよ
「いや、すでに結構キレてんぞ」
 ゾロのささやかなツッコミは当たり前のごとく無視された。
「第一、私さっき言ったわよね。あんた達海賊をここから出すことは絶対にしないって聞いてなかったの?」
「大丈夫だって心配すんな。おれ達、こっから出てもお前の町荒らすつもりはねェから」
「『荒らすつもりはない』ねェ…それじゃ、その首に懸けられた3000万と略奪の現行犯逮捕は一体なんなのよ」
「リャクダツ?何だそりゃ。そんなことしてねェぞ」
 身に覚えのない罪状にルフィは首をひねる。当然と言えば当然か。彼はここに連れて来られた経緯の一部始終を熟睡して見逃しているのだ。
「とぼけないで。あんた達、ジムの店を荒らしたんでしょう彼から直接通報があったって知ってるんだからね」
 突然飛び出して来た『ジム』の名前に、ナミの機嫌がまたしても悪化した。何せ自分達を騙した張本人の名前だ。しかしルフィにしてみれば何のことか全く心当たりがない。彼はますます首を傾けた。
「どうでもいいや。そんなことより行こう
どうでもいいわけあるか——」イーヴィがまた取り乱した。「——とにかく私はこれから押送の準備をしなきゃいけないから。あんた達は大人しく人生を走馬灯みたいに振り返ってなさい!!
「おおじゃ、それが終わったら一緒に海賊やろう
やらんわそれが終わったらあんたは海軍行きだっつの、このすっとこどっこい!!
 強く床を踏み鳴らす。しかし今度は誰一人怯むことはなかった。ルフィが熱っぽくなってきたのに反比例し、イーヴィの厭味の効力はだんだん衰えてきてしまったようだ。やがて彼女自身もそれに気付いた。気を取り直し、冷静を取り繕う。
「もういい。あんた達と話してたらこっちまで頭がおかしくなってきちゃう」
 言いながら、イーヴィはまだ全然手をつけていない夕食の盆を取り上げた。ルフィはその様子を未練たらしい目つきで眺めている。力一杯の勧誘を一蹴され、機嫌を損ねてしまったらしい。しかしイーヴィは何食わぬ顔で彼の前を横切った。そして、手にしていた盆を鉄格子の端からスッと差し入れる。
「これ。食欲ないからあんたにくれてやるわ、スタンリー。誰かさんに横取りされないよう気をつけることね
 イーヴィは最後にルフィ達へとびきりの一瞥を残し、足早に牢屋を立ち去った。

 看守長が去った後、サンジは静かに彼女が置き去りにした盆に目を向けた。湯気を立てるコーンポタージュにふかふかのパン、新鮮な野菜サラダ、白身魚のムニエル…それにデザートまでついている。自分達に出されたメニューとは雲泥ほどの差だ。しかし——サンジはすっと目を細めた——まったく手をつけていない。パンを一口分ちぎってある以外は、ほとんど綺麗に残っている。それ以上に気になるのは、デザートの皿、その陰。
「ありゃァ…」
 ぽそりと独り言を洩らした、その時だった。サンジの視界を赤みがかった霞が横切っていった。あまりの速さに風が湧き起こり、彼の金髪を大きく揺らす。その正体が何かなんて、ろくに考えなくたって分かる——豪華な食事を目の前にして、全身胃袋のルフィが黙っていないわけがないのだ。
「おいずりィぞ、咳のおっさん!! おれにもひと口——」
やめろバカ
「ヘブっ
 サンジは片足を振り上げただけで、いとも簡単にルフィの突進を食い止めた。黒い艶のある革靴が、見事にゴムっぽい顔面のど真ん中に食い込んでいる。
「……な…なんと…」スタンリーが思わず感嘆した。
 サンジが乱暴に脚を下ろすと、ルフィは一枚板のごとくビターンと床へ倒れ込んだ。しかしそんなことで大人しくなるはずもなく、一秒と間を置かずに彼は再び立ち上がった。
何すんだサンジ
「あーあーうるせェ。黙ってくたばってろクソザル。イーヴィちゃんの厚意を横取りすんじゃねェ」
 サンジはあご髭をいじりながらくいっと盆を顎でしゃくった。
「ありゃ…最初からじいさんのために用意されたモンだ。デザートの皿の下をよく見てみろ」
 ルフィは「あ」と大口を開けた。サンジの示した皿の下に小さな紙片が敷かれている。しかし、どうやらただの紙切れではない。便箋だ。細かい罫線と小さな文字がびっしりと敷き詰められているのが垣間見える。
「手紙…?」
 誰のものともつかない小さな呟きがこぼれた。その声を拾い上げてスタンリーは弱々しく笑う。サンジのただならぬ目敏さには感服するしかない。
「しかし…そりゃホントに手紙か?」ウソップが疑わしげに盆を覗き込んだ。「メモか何かじゃねェのか?——だってよ、看守長が囚人に手紙なんて書くか?フツウ」
「確かにそうよね…変だわ。あんだけ悪党を毛嫌いしておいて」
 ウソップの怪訝が伝染したように、ナミは腕を組んで小難しそうな顔をした。ところが——「いや、」——ゾロが唐突に声を上げた。何やら物知り顔だ。
「牢屋の前でメシ食うふりして、死刑囚に食事と手紙…なるほどねェ」
 後頭で手を組み、どさっと壁によりかかって座り込む。ナミは彼を振り返り、「何よ」と片眉をつり上げた。ゾロはナミの苛ついた視線をかいくぐり、スタンリーをまっすぐと見据えた。
「じいさん、あんた、ただの囚人じゃあねェな」
「え…?」
 ナミとウソップは目を丸めたが、サンジは顔の筋一つ動かさなかった。胸中にゾロと全く同じ憶測を立てていたようだ。
「一体あの女傑人とどういう関係だ?」
 ゾロが続けて問いつめる。スタンリーは年輪のように深々と刻まれた皺を引き、笑顔を浮かべてみせる。ちょっと困ったような、弱々しい表情だった。
「ルフィ君…と言ったね……少し…昔話でもしようか」