——ザッ…。

 裾長のマントを引きずるようにして、看守達は暗い石畳を荒々しく闊歩する。その先頭に立つは、背に「2」の数字を掲げた少女。彼女は看守の誰よりも背が低く、誰よりも華奢であったが、その存在感は圧倒的だった。殺気立った気配は部下達さえもおびやかす。彼女の通り過ぎたところから、石畳が恐怖に震え上がって凍りついていくようだった。
「一号棟から三号棟は護送船に移し、準備ができ次第出港。ローグタウンで海軍と落ち合い、罪人を全員引き渡して」
「はい
 矢継ぎ早に下される命に誰一人として困惑を見せることなく、みな凛として敬礼を返す。何人かの看守は与えられた任務を全うするため、そのままスッと隊列を離れていった。
「四号棟の罪人のうち、“釈放組”はこのリストに記されているとおり。その他は全員ローグタウンへ」
「はい
 後ろ手に握られた小さなメモ用紙を、残った看守のうちの一人が恭しく受け取った。
「看守長五号棟はいかがされますか?」
 看守長の少女は一度足を止めた。頭をよぎるのは、麦わら帽子の下に輝いていた、無邪気な笑顔——。
「……七号室…麦わらの一味は残していって。それ以外は全員釈放よ」
 部下達は再び「はい」と威勢のいい敬礼を返し、列を抜け足早に去って行った。残された看守長は、フードの下にギラつくその鋭い両眼を持ち上げ、細長く続く廊下の先を静かに見据えた。

「 さぁ、最後の大掃除よ 」
***
ゴホッ……ナミさん…といったね。君達は、イーヴィについてどれほど知っておる?」
 暗闇の中で、老人が言った。ポカンとするルフィの背後で、ナミとサンジは互いの顔を見合わせた。「どこまで」と問われても、せいぜい彼女が女傑人で、野蛮な傭兵の部隊長で、かつこの牢獄の看守長、そして要注意人物である…ということくらいだ。しかしどうやらイーヴィと親しいらしいスタンリーに正直に答えるのもどうか。気を悪くしないだろうか。何と答えてよいか考えあぐねていると、ルフィが何の配慮もなく真っ先に口を切った。
「だから、ジョーテツ人だろ?」
 房の気温が一度下がったような気がした。ジョーテツ?何だそれは。どっかの国の名前か?——いや、ひょっとして…。
「……女傑…人?」
 スタンリーがおずおずと言い当てる。ルフィはあっさり改めた。
「あ。そうそう。それだ」
ゲホッ…それ以外には…?」
「なんかヘンな力があんだろ?」ルフィが言った。
「ま、まァそれはそうなんじゃが……そういうことじゃなくて…」
 ルフィのペースに圧倒されて、スタンリーの厳かな口ぶりがいよいよしどろもどろになってきた。
「わかった……ゲフッ…し、質問を変えよう。お前さんはあの子を仲間に入れたいと言ったじゃろう…なぜそう思った?」
 ナミ達はちらりとルフィの様子を窺った。ルフィの顔は真顔そのものだ。ふざけている様子もない。そしてルフィはスタンリーの質問を受け、その真剣な表情で——。
「いい奴だから」
 とだけのたまった。スタンリーは「思わず」といった様子でずっこけた。
「そ、それだけ…?」
「ああ
 きっぱりと答えるルフィ。ナミはやれやれとこめかみを押さえた。
「スタンリーさん…うちの船長、こういうヤツだから」
 スタンリーは物珍しそうにルフィを見つめていたが、やがて気が緩んだのか、ふっと微かな笑みを見せた。
「ルフィ君……ゲホッ…おぬしはやはりちょいと変わっておるようじゃ……何も知らぬと言いながら本質を見抜き、悪党と言いながら善行を選ぶ」
「ん?何言ってんだ咳のおっさん」
 ルフィは耳が肩にくっつくほど首を傾げた。スタンリーはその様子をじっと見つめた。深いしわの刻まれた目元がうっすらと細められる。ルフィの姿に誰かを重ね合わせているようだ。
「——あの子はね、この国を好いておるんじゃない…憎んでおるんじゃ」
「え…!?」
 予想を裏切る言葉に、ナミ達だけでなく、ルフィまでもが目を丸くした。
「憎んでるって…あのイーヴィって子が?」ナミが聞き返した。「でも、そんなふうには…」
 見えなかった。国の治安を守ることにあれほど執心していたのに。普通、憎悪を向ける対象にそこまでできるだろうか。
「そうじゃろうな。今のあの子は国を守ることに命を捧げておる」
 スタンリーはすっと目を上げ、何もない天井の隅のあたりをぼんやり眺めた。
「素直な子じゃ。短気ですこーし怒りっぽいが、根は優しい、よくできた子じゃ……ゴフッ…昔も今も、変わらずな…」
***
 6年前
 東の海 フィリンシア王国

 高く澄み渡る美しい青空に、わた菓子のような雲が浮かんでいる。とても心地のいい朝だった。海鳥の声は軽やかに響き渡り、透き通った風は町に海の香りを運んでくる。街路樹はさらさらと軽やかに葉を揺らし、アスファルトに落ちる影がそれに倣って細やかに踊る。
 街の子供達はいつも通り元気いっぱいだ。日が高くなるに連れて活気づいてきたメインストリートを、子供達はかん高い笑い声を上げ駆け抜けていく。「なんとかごっこ」だとか「誰々が鬼だ」とか、聞こえてくる微笑ましい言葉に大人達の顔にも自然と笑みがこぼれる。
「待てー
 花屋の前を、男の子五、六人の鬼ごっこ集団がきゃあきゃあ騒ぎながら走り過ぎていった。集団の最後はひと際小さな男の子。『鬼』の役を押し付けられ、先を行くみんなを必死で追いかけている。みんなは『鬼』と一定の距離を保ったまま悠然と走り続けている。そればかりか、わざとスピードを落とし、『鬼』の指先が服をかすめたところで再加速する、などという悪ふざけができるほどの余裕を見せていた。
「あらあら…まったく。今日もみんな元気ね」
 子供達が通り過ぎた八百屋の店先で、主婦がクスクス笑った。
「転ばないように気をつけるのよ」
 ところが次の瞬間、まるで約束通りとでも言うように、少年の一人が足元に転がっていた小石に躓いた。最後尾を追従していた『鬼』の男の子だった。「あっ」——息を呑み慌てて手を突っ張るも、バランスを取り直すには既に手遅れ。無様にも顔からべしゃっと転倒してしまった。
「へぶっ…
「うわっ、ストップチトがコケた
「え〜っ。おい、大丈夫かよチト」
 急にすっ転んだ『鬼』を心配し、前を走っていた男の子たちが苦笑まじりに声をかけた。チトと呼ばれた『鬼』の子は、鼻をさすりながらまず上半身をゆっくりと起こした。
「いってェ…」
 こわごわと鼻の下を拭ってみる。指先にベットリと赤い血が付着した。鼻血が出てしまったようだ。
「うぅ〜…だから走るのってイヤなんだ…」
 チトは情けない声でうめいた。
 その時、彼の目の前にすっと白い手がスッと現れた。
「きみ、大丈夫?」
「あ…ありがとう——」
 差し出された手に掴まろうと、チトはそっと顔を上げた。ふたつの視線がガッチリ絡み合う。長い黒髪の女の子だった。髪は元気なポニーテールで、てっぺんがクジラの噴水のように他方向に分かれている。生地の薄いワンピースを一枚纏っているだけの格好で、むき出しの腕や脚は東の者とは思えぬほどに白い。黒うるしを塗ったような眼は見るからに気が強そうだが、淡い色の口元はにっこりと優しげな笑みを浮かべている。
「うっ、」
 少女の笑顔を見た途端、チトの顔からスーッと血の気が引いていった。
うわぁぁあぁああぁぁあぁぁああッ!!
 つんざくように絶叫して、チトは少女の手をバシッと払いのけた。
女傑人だァ!!!
イーヴィだ!!
ギャアァァアみんな逃げろーっ!!
 鋭い悲鳴を上げ、一目散に逃げ出していく子供達。その途端、人々でごった返していた商店街はパッと開け、レンガ色のタイルで舗装された道の上、黒髪の少女だけがぽつんと取り残された。
(…またビビられちゃった)
 ラビル・イーヴィはう〜んと首をひねった。できる限り愛想良くしてみたつもりだったのに、逆効果だったようだ。
「——おい、見ろよアレ…例の“女傑人”だぜ」
 小さくささやく声が聞こえた。すぐそばの果物屋の主人だ。声はほとんど吐息に近かったが、十分聞き取れてしまうほどにあたりは静まり返っていた。しかしこの一言を皮切りに、周囲にはヒソヒソ声がさざなみのように広がっていった。
「あれが!?ただの子供じゃないか」
「歳は関係ねェよ。じゅうぶん危険分子さ」
「女傑軍にゃあんぐらいの歳のバケモンがゴロゴロいるってウワサだぜ」
「えー、やだァ…コワーい」
「なんかヤバいことでもしでかしにきたんじゃないだろうねェ…」
 イーヴィは俯いた。胃袋の中にズシンと重石が入ってきたような気分だった。大人たちの冷たい視線と心ないささやきがチクチクと胸に突き刺さる。
「アイツいつまでここにいる気だ。さっさと行っちまえ」
「お、おい…気ィつけろ
「ヘタに怒らせたら何されるかわかったもんじゃない」
 握り締めた拳が小刻みに震えた。目を逸らそうと顔を背けたって、敵対心がむき出しの睥睨は雨のように容赦なく降り注いでくる。
(——いつだってこうだ)
 ほんの厚意のつもりが、結局みんなを怖がらせてばかり。理由は至って単純明快だ。イーヴィが『女傑人だから』。ひとたび町に出れば嫌な囁き声が町中に広がる。通りかかる人すべてがイーヴィを振り返り、それまでどんなにのどかに過ごしていようが、その顔から笑みを消し去ってしまう。
 やがてイーヴィはこうべを垂れたままのろのろと踵を返した。一歩進めば、人垣はイーヴィを避けてパッと開く。
「国王も何考えてんだ。あんな物騒なモン城に雇いやがって」
「女傑人っつったら歩く兵器だ。あいつ、今に恐ろしいことをしでかすぞ」
「いっそ、本当に何かやっちまえばいいのに」
「ハッ、違いねェ。何かやらかしてくれれば、国から追い出す口実ができるってもんだ」
 聞こえてくる陰口は次第に冷罵へと変わっていく。それはあまりにも一方的で、あまりにも理不尽だった。イーヴィはその数々を辛抱強く無視し続けた。言い返そうとしないどころか立ち止まって睨みつけることもしなかった。
「殺人鬼め」
 それでも、通りを抜ける最後の瞬間、彼女は人知れずきゅっと唇を噛みしめた。
***
 ——ポチャン。
 青い水面が王冠のように浮かび上がる。イーヴィの手から離れ、美しい放物線を描いて飛んでいった小石は、水の王冠の中をスーッとすり抜け、見えないところまで沈んでいった。イーヴィは川岸ぎりぎりのところに靴の爪先をあわせ、2投目の小石を大きく振りかぶった。
「な・に・が…」
 ぐぐっとふんぞりかえり、全身を使って小石をぶん投げる。今度は定規で線を引いたようにまっすぐと飛んでいき、やや強い水柱が上がった。
「…歩く兵器だーバカヤロー!!
 小石と一緒に投げ飛ばした罵声は、誰の耳につくこともなく、小川のせせらぎと一緒に流されていく。イーヴィは荒々しく溜め息を切り、その場にすとんと腰を下ろした。
 ——殺人鬼め
 背中から浴びせられた心ない一言が、イーヴィの頭の中でリアルによみがえる。『殺人鬼』……その言葉は、氷の矢のように胸を突き破り、体の中からぬくもりを奪っていった。視界の真ん中を横切っていた川が次第にぼんやりと霞んでいく。サラサラと流れる穏やかなはずの川の音がやけに騒々しく感じた。
「あ〜あ…」
(いつになったら分かり合えるのかな…)
 いびつな水面にイーヴィの顔が情けなく映り込んでいる。腹の中身が全部ぐしゃぐしゃにかき回されたような、心地の悪い感覚が襲ってくる。
 女傑人と人間。
 姿形は似ているようでも、その本質は全く対極にある。人間は平和を祈るもの、しかし女傑人は一概に気性が荒く好戦的だ。ふたつはもともと相容れない存在なのだ。仕方がないと頭では分かっていても、「どうして」「なぜ」——現実を理不尽に思う感情は押さえきれない。やり場のないもやもやとした苛立ちが胸の中で膨らんでいく。イーヴィは膝を抱えて体を丸めた。
(私は、人殺しなんかじゃないのに…)

「そんなとこで丸まっとると川に転がり落ちるぞ」
 不意に、耳元で声がした。

「へっ…」
 イーヴィは驚いた。顔を上げ、素早く背後を振り返る——はずが。
「うわっ!?」
 声の正体を認める前にバランスを崩し、体が大きく揺らいだ。そのまま水面へ真っ逆さまに落ちていき…。
ギャー!!!」
 咄嗟に目を瞑る。派手な水柱が上がり、次の瞬間、イーヴィの体は冷たい無重力の中に投げ出された。強制的に呼吸が止まる。水の乱れるくぐもった音が直に聞こえてくる。びっくりして水をしこたま飲んでしまった。それでも、頭の中は冷静だった。もがきながら体をよじり、なんとか水上に顔を出す。「ぷはっ」——口の中の水を吐き出し、慌てて空気を吸い込んだ。渇望していた酸素が肺を満たす。しかしまだ息が浅い。
「驚いた…ほんとに落ちるとは」
 声の主が言った。嗄れ声だ。
「ハァ…ハァ……びっくりしたァ…死ぬかと思った…」
 イーヴィは水をかき分けて岸に戻ると、高く飛び上がるようにして水から上がった。ワンピースが吸いきれなかった水をびしゃりと吐き出し、川岸に水たまりを作った。
「大丈夫か?イーヴィよ」
「大丈夫も何も…」
 キッと声の主を睨みつける。川岸にしゃがみ込んでいた老人は、その鋭い眼光に思わずたじろいだ。乱れた黒髪から水を滴らせる姿がさぞ恐ろしかったのに違いない。
「——あんたが急に驚かすからでしょーが
「す、すまん…」
「おかげでずぶ濡れよ泥もついた。あー汚いあー気持ち悪い
 綺麗に切り揃えられた爪に泥がこびりついていた。イーヴィは老人の手からふんだくったハンカチで、狂ったようにごしごしと手をこすった。「相変わらずのケッペキ症じゃな…」——老人は呆れたようにつぶやいた。
 見れば見るほど奇妙な老人だった。やさしそうな眼をしているが、眉毛がなく、少し気難しそうにも見える。長い白髪はなぜか縦巻きで、てっぺんだけがつるりとはげ上がっている。寂しげな頭に豪華な王冠が載っていると、何だか出来の悪い合成映像を見ているようだ。

フィリンシア王国 国王(当時)
ファーガス

「…で?こんな森の中まで何しにきたの?王さま」
 ワンピースの裾を雑巾のようにしぼりながら、イーヴィはファーガスを振り返った。
「なんと『王さま』だなんてそんな他人行儀な…いつも『“グランパ♥”とお呼び』と言っとるのに——」
潰すぞ
「すみませんでした」
 青筋をたてたイーヴィが拳を振りかざすと、ファーガスはあっさりとジョークを取り下げ土下座した。「はァ」と仕切り直しの息をつき、晴れ渡った青空を見上げる。
「散歩しとったんじゃよ。このあたりは空気が澄んでおって気持ちがよいからな」
「執務から逃げてきたと」
 イーヴィが訳した。
「…つきつめて言うとそうじゃ」とファーガス。
「まったく…」イーヴィは呆れ眼で国王を睨んだ。「あとでスタンリーにどやされるよ」
 イーヴィはその忠告にファーガスがひくりと口元を引きつらせたのを見逃さなかった。そんなに怖いなら最初からさぼったりしなけりゃいいのに…とは思っても、相手がこの調子では言ったところで無駄だろう。キリキリした頭痛が脳を貫く。イーヴィは人差し指でトンとこめかみを押さえた。

 ——ガサッ…。

 草の揺れる音。背後からだ。微かだったが、確かに聞こえた。イーヴィは肩越しに視線を向けた。ファーガスはまだ気づいていない。スタンリーにどう言い訳しようかブツブツ唸っている。イーヴィは足元に転がっていた小石に靴の爪先をひっかけ、「うらァ!」——振り返りざま茂みの中へと蹴り飛ばした。
「ギャッ
 確かな手応えと共に、鋭い声。捕らえた——イーヴィは駆け出した。
「な、何事じゃ!?」
 ファーガスもようやく異変に気づいたようだった。イーヴィは答えを返す代わりに、茂みの中へ手を突っ込み、“そいつ”の襟首を掴んで強引に引っぱり上げた。
「うわあ
「…ん?」
 意外にもすんなり持ち上がった。しかも間の抜けた悲鳴。見ると、イーヴィが掴んでいるのは自分とさして歳の変わらない男の子だった。地味な顔つきをしていて、痩せっぽちで背も低い。半ズボンから覗く足は、膝小僧が飛び出していた。
「イーヴィ。放しておやり」
「う、うん…」
 イーヴィは慌てて手の力を緩めた。男の子はパシッとイーヴィの手を払いのけた。
「放せ、怪物め
「おや」
「まー
 なんて言い草だ。ファーガスとイーヴィは声を揃えた。
「いってて…」
 男の子は顔をしかめて額をおさえた。どうやらイーヴィの蹴り飛ばした石がおでこの真ん中を直撃してしまったらしい。うっすらと赤く腫れていた。しかし「怪物」呼ばわりされては、素直に詫びる気持ちも失せてしまう。イーヴィは腕組みをして、フンとそっぽを向いた。
「そんなところに隠れてコソコソしてるからでしょ何たくらんでたのよ」
「うるせェ女傑人」男の子が言い返す。「おれは国王をたおしにきたんだヤミうちだお前はひっこんでろ!!
 あまりにも真剣なまなざしをして言うので、イーヴィはついずっこけるタイミングを逃してしまった。イーヴィより30センチも背が低いのに、『国王を闇討ち』だなんて…。第一『闇討ち』の意味を分かっているのかどうかも疑わしい。リアクションに困って立ち尽くしていると、突然背後で大声が上がった。
「ナハハハハ
 イーヴィと男の子はびくりと飛び上がった。見ると、ファーガスが腹を抱えて笑い転げている。
「お、王さま…?」イーヴィは恐る恐る問いかけた。「どうしたの?」
「ナハハハまったく、こりゃまた随分とかわいらしい刺客じゃわいナハハハハハ
「笑うなおれは真剣だぞ!!
 男の子は我に返ってようやく自分がおちょくられていることに気づいたらしい。真っ赤な顔をして地団駄を踏んだ。地団駄に合わせて、ファーガスとイーヴィはぴょんと飛んだ。
んな゛っ!!——おまえらおれのことバカにしてんのか!?」
 男の子の顔がさらに熱くなった。今に耳からピーピー湯気を出してきそうだ。その姿が一層愉快だったようで、ファーガスはまた盛大に笑った。
「ナハハハハ
「笑うなっつってんだろ
「あーすまんなつい…」
ついじゃねェ!!
 男の子はまたしても地団駄を踏みかけて、慌てたように押しとどめた。またさっきのギャグを繰り返されると悟ったに違いない。(完っ全に遊ばれてる…)——イーヴィはだんだん男の子が不憫に思えてきた。
「王さま。そのへんにしといた方が…あんまりからかうと、あとで仕返しされるよ」
「ん?——ああ、そうじゃな。恨まれてヤミうちされちゃァ困るからな…」
 ファーガスはまだ半笑いだった。
「気に入ったぞ、坊主。おまえ、ジムじゃろ。エルスロード孤児院のいじめられっこ」
(いじめられっこ…?)
 イーヴィは男の子に目を向けた。いまだに国王をギラギラ睨みつけている。しかし、言われてみればその“痕”は確かにあった。膝小僧がむき出しの足、ほとんど骨と皮ばかりの腕…。青白い肌にはひっかかれた痕がミミズのようにのたうち回っている。服はドロドロで、茂みに隠れていたせいと思っていたが、どうやらそれだけではなかったようだ。ほつれた裾は意図的に裂かれたようにも見える。
「それがどうした」男の子が叫んだ。
「おれがこんな目に遭ってるのはあんたのせいだ国王だから……だから…おれはお前に復讐するんだ…!!
「ほお。“いじめられっこ”の割にはずいぶんと勇敢じゃな」
 ファーガスが感心した。どうやらファーガスはこの男の子に相当恨まれているようすだが、大人の余裕か、それほど焦燥しているようには見えない。むしろこの状況を楽しんでいるかのようだ。
「うるせェ!!
 男の子の手の中で何かがキラリと輝いた。それが完全に姿を現すより先に、イーヴィは動き出していた。国王めがけて突進してきた少年に足払いをかけ、バランスを取ろうと突き出された彼の腕をつかみ取る。そのまま手首にグッと力を込めると、男の子の細い指がほどけて、銀色の何かが滑り落ちた。水たまりのそばにポトリと落ちたのは、食事用の小さなナイフだった。イーヴィはそれを蹴っ飛ばし、手が届かぬよう川へ落とした。
「あっ…お前さては孤児院の食器を持ち出したな?」
 ファーガスがやれやれと首を振った。
「うぅっ…は〜な〜せ〜!!
 男の子がじたばた暴れ出した。しかし小柄な彼ではイーヴィを振りほどけない。イーヴィは暴れる手足を難なくかわし、男の子の体に腕を回すと、ぎりぎりと締め上げた。
「ギャァアアァアアッ痛い痛い放せバケモノ〜!!
 イーヴィは無言で力を加えた。
ギャアアアァァアアァァアッ!! 折れる体がおれるゥ〜!!!
「あーあ…相変わらずイーヴィは容赦ないんだからまったくも〜」
 ファーガスはぴしゃりと額を叩いた。
「おまえはケンカが強いんだから、ちょっとは手加減してあげなさいといつも言ってるじゃろうに…」
 イーヴィは聞こえないふりをした。ジムの悲鳴はやまない。どうやら今日の雲行きは、思ったほどよくなさそうだ。