明治二年五月十一日

 新政府軍七〇〇名が箱館に現る。その分隊が寒川村付近より上陸し、絶壁を登って箱館山を越えた。山頂からの攻撃に圧倒された新選組ら旧幕府軍は五稜郭まで撤退を余儀なくされる。新政府軍は箱館市中を制圧、一本木関門に兵を置き、五稜郭に向けて更なる進撃を開始した。新選組は孤立した弁天台場の救出のため軍を進めた。指揮官・土方歳三は一本木関門付近で弾を受けて落馬。小姓に付き添われ戦線を離脱したが、その後の消息は分からない。新選組は指揮官を失った。新政府軍の兵力をみると、失地回復は絶望的である。

 ——頃合いか。

 宝生景時は音もなく筆を置き、穏やかな顔つきで空を見上げた。じきに朝が来る。六年間、毎日欠かすことなく記憶を記してきた日誌帳は、血と泥にまみれ随分と汚れてしまった。重ねて添えられた辞世の句も、返り血が染みて文字など殆ど判別できないだろう。

 目を閉ざし、深く呼吸をしながら過去に想いを馳せる。迷惑をかけっぱなしだった親兄弟、息災を願うばかりの友、叶わなかった想い人、そして【志】を共にした仲間達——…。

 共に笑い、共に悩み、酒を浴び、女を取り合い、喧嘩もすれば、背中を預けて剣を振るい、血に沈む亡骸を見送って、時には【誠】のために斬り捨てた。

 もう誰もいない。
 誰も、いなくなってしまった。
 そろそろ、終いだ。

 景時はシャツの釦を外し、右袖を抜いて肌を晒した。懐紙を巻いた短刀を左手に取り、右手を添え、峰を左に向け、右手に持ち直す。それから左手で腹を三度押し撫でた後、景時は息を詰めて、刃を押し進めた。顔が強張り、声が洩れ、上半身が前のめりになる。しかしまだ意識ははっきりしていた。柄を握り締める掌に最期の力を集めると、左から右へ一気にかき切った。

「——ッ…!」

 腹に短刀を突き刺したまま、武士の上半身は前に倒れた。まるで喉の奥に鉛の塊が詰まったみたいに、息ができない。目の奥が熱くなり、視界が鈍く霞む。激しく燃え上がるような痛みを感じながら、しかし武士は満足げな微笑みを湛えていた。

「………」

 最期に彼が見ていたのは、赤く濡れた草でも、汚いぬかるみでもない。【誠】の旗の下を行く浅葱色の背中と、やさしく穏やかな少女のほほ笑みだった。


「  …千鶴  」


 明治二年五月十二日
 新選組伍長 宝生景時 切腹

 武士の覚悟のあとに残されたのは、皮肉なほどにさらさらとした灰だけであった。