私達は、当たり前だと思っている。

 思い立てば、地球の裏側へも行けることを。
 いつでも想いを伝えることができることを。
 平凡だが、満ち足りた日々が続くだろうことを。
 闇を知らない、明かりに満ち満ちた眠らずの夜を。

 だけど、もしもある時その全てを失ったら。

 本当の闇の中に、投げ出されてしまったら。
 私はそこで【光】を見つけることができるのだろうか。
 その【光】を掴もうとするだろうか。
 それとも、また、さらなる【闇】の中へ溶け込んでしまうのだろうか。

 また、世を捨ててしまうのだろうか——。
 平成21年(2009年)11月

 東京某所——とあるビルの前に、2台の黒い車が乱暴に停まった。待ちきれないとばかりに性急に開かれたドアから、黒尽くめの集団がワッと溢れ出る。どいつもこいつも黒い布で顔の下半分を覆い隠し、目深にキャップをかぶっている。手には鉄パイプ、金属バット、ゴルフクラブ、木刀などが握られ、ただならぬ殺気をまき散らしている。
「行け」
 車の中から落ち着き払った声がした。ほとんどが車外に降り立っていたが、一人、悠然と後部座席に残っている男がいた。高級そうなスーツに身を包み、首元に派手なネクタイをくくり付けている。
「ぶちかましてこい」
 男の言葉に応えるように、黒尽くめの集団は一斉に雄叫びを上げた。
「任せて下さいよ、組長」
 言葉こそ敬語のかたちをとっているが、乱暴なイントネーション——それは明らかに女の声によるものだった。黒尽くめの男達の中に、ひとつ、不自然に華奢な人影がある。金属バットを肩に担いだその人影は、突然勇ましさに満ちた咆哮を上げると、先陣をきって走り出した。
 星のない、どんよりとした夜空の下、男達の雄叫びが響き渡る。女はバットを高く掲げると、エントランスのガラスに向かって勢いよく振り下ろした。
 割れるガラス、なだれ込む黒。誰かが振り回した鉄パイプが蛍光灯を割り、ビルの中はパッと光を失った。それでも男達の熱は下がらない。いっせいに階段を駆け上がり、一直線に最奥の一室へ向かう。真っ先に到着した大柄な男が、ドアに向かって飛び蹴りをかました。
「誰だァ!!
 部屋の中から怒声が上がった。中にいたのは派手な色の服を着たチンピラ達。突然のカチコミに戸惑いのどよめきが広がる。出口付近に席を取っていた男が咄嗟に立ち上がったが、黒尽くめの鉄パイプを顔に食らってすぐに床に沈んだ。
 その途端、チンピラ達にもスイッチが入った。
「の野郎!」
「ぶっ殺すぞコラァ!!
 各々が武器を手に取り、ぞろぞろとなだれ込んでくる黒装束に向かっていく。室内は一気に暴力でいっぱいになった。そう広くはない空間の中で押し合いもみ合い、もはや誰が誰だか分からない。下手をして味方を殴っている者もいた。そんな中、ひときわ派手な音を立てて大男を殴り飛ばしたのは、突撃の合図を出したあの女。女は真後ろから飛びかかってきたチンピラを振り向きもせずに蹴りつけると、側で取っ組み合っていた男達を邪魔そうに突き飛ばし、奥に向かって突進していった。
「うらああああああああっ!!!
 バットを振り上げ、標的に思いきり叩き付ける。ガシャァーン!とかん高い悲鳴のような音を響かせ、【暁連合】の看板が粉々に砕け散った。
 一夜明け、襟苑伽耶はふてくされていた。黒い服は埃で白く汚れ、体中に生々しいアザをこさえているばかりか、唇の端を切って血を流している。彼女の足元には同じ年の頃の男が跪き、真っ赤に腫れた細腕に清潔な包帯を巻き付けている最中だった。
 伽耶は元々きつい目つきをさらに険しくさせ、じっと治療を受けていた。その態度はすこぶる悪い。黒い革のソファに足をかっ開いてどっかり座り、さっさと終わらせろだのヘタクソだのと舌打ちばかりを打っている。
「おい痛ぇぞ」
「すいません!」
 今度は「包帯の巻き方が乱暴だ」ときた。伽耶の苛立ちにビクビクしながら、男は早いとこ済ませてしまおうと急いだ様子で絆創膏を手に取った。
「もういいよ、自分でやる」
 ついに我慢が限界を超えたらしい。伽耶は男の手から絆創膏をひったくると、呆ける彼を「どけ」と足蹴にしてソファを立ち上がった。なんて理不尽、横暴。残された男はポカンとするしかない。
「オラ、いつまでもそんなとこにへたり込んでんじゃねぇよ。邪魔だ」
 すると今度はトラの絵柄のジャンパを着たチンピラが男の背中を蹴り飛ばした。男は大きくつんのめったところで慌てて床に手をつき、なんとか床とキスするのを免れた。
「お前まーた襟苑の嬢ちゃんにいじられてたのか」
 チンピラはソファにどさりと腰を下ろすと、どんくさそうに立ち上がる男を同情の目で見た。
「…アニキ、あの女何なんスか?俺より3つも年下なのによ、すげー偉そうじゃないスか?」
「けどお前よりゃ先輩だろ。それに、昨日のカチコミで一番活躍したのあいつだぜ」
 あーりゃとんでもねぇ気迫だったな、とチンピラは感慨深く言う。
「あいつのそばで取っ組み合ってたら邪魔だっつって突き飛ばされたんだぜ。容赦ねぇよなーったく…」
「つーかよ、【襟苑】っつったらすっげーいいとこっスよね?ってことは【お嬢さま】じゃん?前々から不思議に思ってたんスけどー、あの人なんでこんなとこで極道なんかやってんスか?」
「どんな家柄に生まれてもな、グレる奴はグレんだよ」
 チンピラは面倒臭そうに溜め息のまじった声色で言った。
「はぁ…」舎弟はいまいち腑に落ちないというように顔をしかめる。「そんなもんスか?」
「ま、女の癖に血の気の多い奴だからな。良家の折り目正しい方々とは反りが合わなかったんだろ」
「あぁー…」
 舎弟は間抜けな声を洩らし、伽耶の横顔に視線を戻す。伽耶は事務所の片隅で錆びた鏡に向かい、顔に絆創膏を貼っている真っ最中だった。手当ての拍子に痛みを感じたのか、「っつー…」と盛大に顔をしかめている。
「おしとやかにしてりゃ、光の当たり具合によっちゃあちょっとぐれぇ美人に見えっかもしれねぇのにな」
「…おい」
 舎弟の呟きを拾ったチンピラが、青い顔をして囁いた。
「それあいつがいる前で二度と言うんじゃねぇぞ。あいつに聞こえたらよ、ぶっとばされんぞ!」
 その時、2人の前を大きな影が横切った。思わずびくりとした2人だが、それが伽耶でないと分かるとあからさまにホッとしてみせる。それは熊のような大男だった。昨晩の乱闘でよほどの一撃を食らったらしく、顔の右半分が腫れ上がって紫色になっていた。
「うーわ!アニキやべーっすよそれ!」
「なにで殴られたんだ!」
 慌てる2人をよそに、男は救急箱をのそのそと漁る。そしてガーゼとテープを見つけると、その場にあぐらをかいて座り込み、事務所の奥をチラチラ窺いながらとんでもないことを言った。
「…伽耶ちゃんに。素手でやられた」
 影山かい赤坂地区貸元 冨樫とがし組。
 ここはつまり、そういうところである。

 雑居ビルの一室に押し込められた窮屈な事務所。片付け知らずの雑然としたデスク、隅に溜まった綿埃。手入れの行き届いていない割に、革のソファや動物の毛皮など、高級そうなインテリアが混在している。最奥には組の名前を掲げた看板が堂々と腰を据え、その下に丁寧に手入れされた刀が飾られている。誰が抜くというわけでもなく、ただ仰々しいインテリアとしてずいぶん前からそこに居座っているものだ。
 襟苑伽耶はここの構成員だ。刀がインテリアになるようなとんでもないところで手荒な真似をしている人間である。
 黒スーツに黒シャツ、ギラギラした柄のネクタイといういかついいでたちで、それにサングラスをひっかければますます物々しい。華奢な体格とまっすぐに伸びた長い黒髪が唯一柔和という差し色になっている。
「チッ——ってー…」
 汚れた鏡に映った顔に絆創膏を貼り付けながら、伽耶は粗暴そのものに舌打ちをした。
 昨日は久々に大暴れしたせいか、傷やアザに関係なく、体のあちこちが軋んでいる。久々、といっても、ケンカ自体はしょっちゅうやっている。現に、5日ほど前にも、【影山會】と敵対している【暁連合】のシマを荒らしに行ったばかりだ。だが、昨日のはレベルが違う。バットを振るい、大男を殴り蹴り、そして何といっても奴らの看板を叩き割ってやったあの瞬間……今思い出しても鳥肌が立つ。とはいえ、その時に負った傷や体の疲れまでを【名誉の傷】と誇れるほど、伽耶は情熱に生きてはいない。痛いものは痛いし、だるいものはだるい。そんなわけで、今日の伽耶はすこぶる機嫌が悪かった。
「よぉ、かっちゃん!」
 そういえば肘のあたりもやらかしていたな、と左腕を曲げて覗き込んでいると、いきなり背中を叩かれた。思いきり顔をしかめて振り向くと、金髪の男がニヤニヤ顔で伽耶を見下ろしていた。
「…うっす」と、伽耶は無理に低くした声で挨拶を返した。
「かっちゃ〜ん、聞いたぜ?昨日は大活躍だったっていうじゃねぇか」
「いつものことです」
「っかー!言うねぇ!クソ生意気!」
 言葉の割に、男はまったく気を悪くしていなかった。品のない笑い声を上げると、もう一度伽耶の背中をバシッとやってから、他の怪我人にちょっかいを出しに行った。
「……何だアレ…」
 能天気な背中を胡散臭そうに一瞥した後、伽耶は再び左肘に目を戻した。
 ——ガコン。

 重たい音がして、きーんと冷えた缶コーヒーが落ちてくる。伽耶は軽く屈んで取出し口に手を突っ込むと、素早く缶を掴んで引っぱり出した。本当に冷たい。ホットにすればよかった、と今さら遅い後悔をする。
 伽耶は重たい体を引きずるようにして近くの公園に入っていくと、がら空きのベンチにどさりと座り込んだ。相変わらず足をかっ開いている。左腕を背もたれに預け、右手は膝の上で缶のプルタブを弾くように弄ぶ。
(——晴れてるなぁ…)
 顔を上げると、空は高く突き抜けるように透き通っていた。
 あー、もう11月か。あと少ししたら、あっというまに2009年が終わる。1年というのはなかなか早いものだ。そして時の流れは年々スピードを増しているように思う。ところで、来年は【2010年】か。なんだかしっくりこない響きだ。だが、来年もまた今年と同じようにのらりくらりと時に身を任せていれば、いずれ馴染むようになるんだろう。
 伽耶は暮れの空をぼんやり眺めながら、そんな、とりとめもないことを考えていた。
 ふ、と。
 背後に何か幽かなものを感じ取り、伽耶はハッと息を呑んだ。それが何だったのかは分からない。人の気配か、動物の動きか、風の流れか、とにかくよく分からないが、胸のあたりがざわっとするような感覚だった。振り返ってみても、植え込みを挟んだ向こうには狭い歩道が敷かれているだけで、特に何も見当たらない。
「……?」
 ——気のせい…か……。
 体を元の向きに戻しながらも、伽耶はどことなく引っかかるものを感じた。