空が次第に赤みがかってきた。伽耶はシャツの袖をめくって腕時計を見た。あぁ、もうこんな時間なのか。そろそろ事務所に戻らなければ。残っていた最後の一口を一気に飲みほすと、空き缶をベンチの上に置いて立ち上がった。
 やっぱり体はまだだるい。
 肩に手を置いて首を回したが、そんなことで重い倦怠感は抜けてはくれなかった。
「だっりーなぁ…」
 伽耶は片手をポケットに突っ込んで、大股で荒々しく歩き出した。

 先ほどの公園から冨樫組の事務所までは、少し歩くと言えどもさほどの距離はない。十分もしないうちに、薄汚れた雑居ビルが見えてきた。外から事務所を見る時、伽耶はいつも不愉快な気持ちを感じざるを得なかった。ビルを取り囲むように置かれたプラカード、張り紙、近所の建物にも見せつけるように横断幕が貼られている。「暴力反対」「我々は暴力に屈しない」「悪を絶ち平和な町へ」——全部、伽耶達冨樫組の事務所に向けられたものだ。
(毎日毎日、よくもまぁ飽きもせず…)
 伽耶はエントランスに立つと一度足を止め、ドアに貼られた張り紙を乱暴に引っ剥がした。
 方々から向けられる敵意。彼らは逆上される事に怯え、目も合わせず、顔も見せない。だが、陰湿なやり方でも掲げているのは【正義】だった。そうだ、批難されるべきは彼らではなく自分達。伽耶も馬鹿ではない、それくらいの事は分かっている。その理由を例を挙げて長々と語る必要はないだろう。【極道】——その二文字さえあれば。
 今や任侠じゃメシは食っていけない。むしろ組がやっているのはそれとは逆のことだ。人々が嫌悪するようなシノギに手を出して、汚いやり方で稼いでいる。弱きをくじき、強きを助け、町の治安を酷くかき乱す。「出て行け」と石を投げつけられるのは、当然の仕打ちなのだ。

「ただいま戻りました」
 相変わらず粗暴なイントネーションの敬語を使って、伽耶は事務所に声をかけた。
「あっ、お帰りなさいアネキ!」
 駆け寄ってきた舎弟に顔も向けずジャケットを投げつける。舎弟は「わっ」とどんくさそうな声を上げながらそれを受け取り、しわがつかないようにと丁寧に畳み始めた。
 そこで伽耶は事務所内に漂うただならぬ空気を感じ、スッと眉根を寄せた。出迎えに来た舎弟を除くほとんどの構成員が、部屋の奥にある何かを囲んで気難しい表情をしている。
「おい」伽耶は目を向こうにやったまま、顔だけで舎弟を振り返った。「なんかあったの?」
「え?あぁ——」
 舎弟は伽耶の椅子に上着をかけながら、少し声を落として言った。「ちょっと……マズいことが」
「マズいこと?」
「うちの事務所、影山の頭から預かった刀置いてたじゃないスか…」
 言いにくそうに話し出した舎弟に、伽耶も嫌な予感を抱き始めた。
「あれ、パクられちまったらしいんスよ——」
「パクられたぁ!?」
 思わず大声が出た。舎弟はその声にびくりとして、慌てて伽耶の口を両手で覆った。伽耶はムッとしてその手を振り払う。
「すいません!——けど、みんなピリピリしてっから静かにしといた方がいいっスよ…」
「で、いつの間にパクられたんだ。こんだけ人数いて、事務所ガラ空きだったわけじゃねぇだろ?」
「それが——」
 舎弟はチラッと構成員の方を気遣わしげに確認した後、伽耶のとなりに並んで立ち、さらに声を小さくした。
「アネキが出かけてる間、事務所の側で爆竹みたいなのが鳴って——昨日の今日だから【暁】の連中の報復かもしんねぇって、みんな血相変えて飛び出してったんスよ。でも誰もいなくて……戻ってきたら、見張りで残ってた奴がぶっ飛ばされてて、刀がなくなってたっつーか……」
「嵌められたってことか」
 静かに唸った伽耶に、舎弟はおずおずと頷いた。
 その時、伽耶は、まったく何の根拠もないが、ふと妙なものを思い出した。さっき、あの公園で感じた謎の気配——もしかしたら、あれは…。
「おい、服は」
「えっ。今俺たたん——…」
 舎弟が椅子にかけたばかりの上着を引き戻し、バサッと翻して腕を通す。
「アネキー?え?ちょどこ行くんスか?えっ——」
 煩わしい舎弟には目もくれず、伽耶はドアを蹴り開けて外へ飛び出して行った。

 階段を駆け下り、ビルを出てすぐ、伽耶は左右に広がる道を見回した。そして——見つけた。向こうの通りを横切っていく、黒い影を。ざわりと胸騒ぎがする。あの時と同じ感覚だ。あいつがクロだという確証はない。だが——追いかけなければ。なぜだか伽耶は強い使命感に駆られ、影の消えた路地に向かって走り出した。
 壁に掴まって勢いよく角を曲がる。すると、さらに向こうの通りを駆けて行く黒い背中が見えた。長い黒髪を後ろで一つに結わいている。
 ——女…?
 不審に思いながらその背中を追いかけていると、そいつが何か細長い包みを前抱きにしていることに気がついた。あれは、まさか、本当に…!
 ——刀だ。
「おい!てめぇ待てコラ!!
 伽耶は激しく怒鳴り、地面を強く蹴って加速した。女が角を曲がる。数秒遅れて、伽耶も同じ角に飛び込んだ。
 だが。
 死角から飛び出してきた人影に勢いよく突き飛ばされ、伽耶は肩から壁に突っ込んだ。短い呻き声を漏らして地面に転がり落ちる。
「——っ、すいません」
 頭上から聞こえたのは男の声。
「この野郎前見て歩け!殺すぞ!」
 伽耶は悪態をつきながらも素早く立ち上がり、男を突き飛ばして再び駆け出そうとした。
 ところが——ぴたり、と思わず足が止まる。曲がった先に広がる路上に、人影はなかった。たった一瞬のうちに、一体どこへ…?肩を上下させて息を切らし、思いきり顔を歪める。
 ——見失った…。
 短く切るように悔しげな溜め息をつくと、伽耶は長い黒髪をザッとかき上げた。

 それから町内を一周くまなく探したが、結局、先の黒い女の姿を掴む事はできなかった。あの時、男とぶつかりさえしなかったら——悔しさに舌打ちするも、既に起きてしまった事故を取り消す事はできない。
 面倒なことになった。
 頭からの大事な預かりものを紛失、それも盗まれるだなんて、あってはならないことだ。しかも盗まれたのは、よりにもよって【刀】。当然届け出もしていない、法に触れるものだ。このまま犯人が見つからなければ、組に多大な迷惑がかかる。組長はこの落とし前をつけさせられるだろう。
 やはり【暁】の仕業だろうか。昨日のカチコミの報復かもしれない。
 ともかく下っ端の自分がここでウロウロしていても何の解決にもならない。伽耶は携帯電話を開いて時間を確認すると、舌打ちと一緒に踵を返した。左手をズボンのポケットに突っ込んで。