どきどき、と、心臓が早鐘を打っていた。今、目の前のこの男は一体何と言った?今、こいつは、とんでもなく聞き覚えのあるような名前を口にしなかったか……?
「こ、近藤 勇…!?」
 伽耶は受けた衝撃をそっくり顔に表したまま、鸚鵡のようにその名をくり返した。近藤は、伽耶の気迫にやや圧されながらも、【あ、あぁ…】と頷いてみせる。
 何てこった——知った名だ。
「近藤って、あの——?」
「あー、ええと……」
 居心地の悪さを感じたのか、近藤は困ったように笑いながら、がしがしと後ろ頭を掻いた。
「……ひょっとして、どこかでお会いした事がありましたかな?」
 伽耶はハッとして目を逸らした。「あ、いや……」
 変に思われただろうか。…思われただろうな。急に知っている名前が飛び出してきたものだから、つい取り乱してしまった。
「……別に…」
「そうですか…?」
 近藤はまだ腑に落ちないといわんばかりの色を残していたが、それ以上の追及は適わなかった。
「——伽耶さん!」
 用事を済ませた恭太郎が、伽耶達のいる茶屋へ戻ってきたのである。これ幸いとばかりに伽耶が席を立つと、近藤も団子の皿を置いて立ち上がった。
「あぁ、御武家さま」
「すまない。大分待たせてしまった」
 恭太郎は湯気の消えた湯呑みにちらりと目を走らせると、申し訳なさそうに顔を歪めた。
「いや、そんな事はありません」と、近藤が恐縮した。
「先ほどは名乗りもせず失礼しました。俺は近藤勇と申す者です——市谷の方で、【試衛館】という道場をやっとります」
 近藤は恭太郎にまっすぐと向き直って、折り目正しく頭を下げた。それを受けて、恭太郎も自分が名乗っていなかった事を思い出したようだ。
「わたしは、湯島の橘恭太郎。こちらは、襟苑伽耶さんといって——」
 恭太郎は伽耶の隣に並んで立ち、伽耶のフルネームを紹介した。
「天守番頭格、勝麟太郎先生の——」
 そこまできて、恭太郎は言葉が詰まった。
「——御息女で?」と、近藤が尋ねる。
「いや……御客人だ」
 恭太郎はなんとか一番近しい言葉を見つけて続けた。
「此度は大変世話になった。今日はもう遅くなってしまったが、後日、是非改めて礼がしたい」
「いやっ、そんな、滅相もない!」
 近藤は両手を突き出し、首と一緒にブンブン振った。
「俺は当たり前の事をしたまでです。御武家さまにわざわざお礼をして頂くような事は……」
「しかし、そのようなわけには——」
「いえ、本当に……」
 どうもお固いところのある恭太郎は、近藤の遠慮を頑として受け入れない。ここから謙虚な2人の押し問答が延々と繰り広げられる事になるのか、と伽耶はうんざりしたが、それは思いのほかすぐに打ち切られた。

「てめぇ!俺達の言うことが聞けねぇってのか!」
 何かがひっくり返るような、激しい音。

 伽耶達はぎょっとして騒ぎの元を振り返った。
 着流しに紺足袋を履いた男達が、呉服屋の店主を取り囲んで何やら喚き散らしている。野次馬精神に釣られた町の人々が徐々に人垣を作り始めており、その合間から覗き見た程度では、何が起きているのかそれ以上詳細に知る事はできなかった。
「御用聞き——所謂【岡っ引き】だ」
 恭太郎がどこか苦々しげな顔をして言った。
「岡っ引き…」
 へぇ、あれが。名前だけならば聞いた事がある。確か、江戸時代の警察官みたいなものだ。十手を振り回し悪人を取り締まる、治安の番人…といったところ。
 だが——伽耶は目を細めて男達を眺めた——岡っ引きがただの呉服屋に何の用だ?それに、どうも様子が穏やかではない。一方的に怒鳴りつけているような、もっと言えば脅しているような、そんな風だ。
「やくざ者だな」
 だしぬけに飛び込んできた言葉に、伽耶は危うく噴き出すところだった。すんでのところで口を押さえて恭太郎を見る——が、恭太郎の目は伽耶ではなく、岡っ引きの連中に向けられていた。
「——奴らだ。ああして、ここらの店から売上金をたかっている」
「え…?」伽耶は首を傾げた。「あいつら、役人じゃ——」
 すると、近藤が怪訝そうに眉根を寄せた。「え?」
 何やらとんでもなく頓珍漢なことを口走ってしまったらしい。伽耶は近藤の目を見てそれを悟り、青い顔をして口を噤んだ。
「すまない。気にしないでくれ。彼女は事故で…少々記憶が……」
 恭太郎が即座にフォローを入れてくれた。これはありがたかった。本当は【記憶】が欠けているのではなく【そもそも知らない】のだが。
「何っ?そうだったのですか……」
 近藤が憐れむような眼差しを向けてきた。伽耶はばつが悪くなり、思わず俯いた。
「伽耶さん、御用聞きは役人ではない。奉行所の同心が私的に雇っている博徒ばくと達だ」
 そうだったのか…。伽耶は目をぱちくりさせた。知らなかった。博徒達——というのは、早い話が極道だ。つまりは、奉行所の役人たちが、捜査のために裏社会に通ずる極道を雇っており、それを【御用聞き】だ【岡っ引き】だと呼んでいるのだろう。【二足の草鞋】というやつだ。
「聞いた話では、御用聞きの俸給は雀の涙ほどらしい。副業を持つ者や、嫁に働かせる者もいるが、中には、ああして店から無理な取り立てをしている輩もいてな。あれは月単位で【用心棒代】と称し金をせしめて回っている連中だ」
 それって——伽耶は渋い顔をした。
「……みかじめ料、ってやつか…」
「は?」
 恭太郎が不思議そうに伽耶を見た。【あ】——伽耶はうっかり露骨な表情をしてしまったが、ふるふると首を振って強引に切り抜けた。
「それにしても、目に余る衆だ」
「頭の痛い話です。どうにかならんものですかね……」
 恭太郎と近藤が口々に言った。それから、二人は同意を求めるように間をあけたが、伽耶は無言を貫いた。
 急に現実を見たようだった。暢気な修学旅行気分もおしまいだ。
 —— 暴力反対!
 —— 我々は暴力に屈しない
 —— 悪を絶ち平和な町へ

 どの時代も、所詮世間はこんなものだ。当然の如く根付いている、ほんの些細な悪。それらにいちいち憎悪の目を向けていたらキリがない。どうせ隙ばかりでつけ込まれる方が悪いに決まっている。それに——、仕方ないではないか。真っ当に生きているだけでたんまり金が入るなら、とっくにそうしていたはずだ。奴らも、……自分も。
 環境が変わったところで、極道は、極道なのだ。
「違う!何度言ったら分かるんです!」
 バシッ!——お松の雷撃が手首に落ちた。

「いってぇ!」
 伽耶は手にしていた包丁をまな板の上に放り投げ、今しがた強烈なしっぺを食らった手首をガバッと抱き込んだ。
「っのクソババアてめ何しやがんだ!」
「んまああああ!」咄嗟の抗議が、火に油を注いだみたいだ。「何なんですかその口の利き方は!」
 お松の手が再び高々と振り上がったのを見て、伽耶は手首を庇いながらも、二の腕を突き出すようにして防御態勢をとった。——が、背後から恐る恐るかけられた「ちょっと、お松さんったら」の声でお松がハッと我に返る。なんとか伽耶の身体に痣が増えるのは防がれたようだ。

 一体なぜ、勝手場でお松にどやされているのかといえば、理由は至って簡単なことだ。伽耶の包丁さばきが素人以下なせいである。
 勝邸に帰ってくるなり、伽耶はお松に腕を引っ張られ、勝手場に連れ込まれた。朝餉の時の宣言はどうやら冗談ではなかったらしい。出先の事件のせいで機嫌がどん底まで悪くなっていた伽耶は、面倒臭い、かったるいと散々口汚く抵抗したが、お松は聞く耳持たずで、次から次へと夕餉の支度を手伝わせた。
 しかし。しかしである。
 生憎、料理なんてしたことがない。だから、あれをしろ・これをしろと言われたって、どうすればいいのかサッパリ。そこに突っ立っている事しかできなかった。
 料理ができないからといってこれまで困った事は一度もなかった。伽耶からすれば料理ができないことなど笑い話のネタになる程度のことで、大した問題ではない。平成の世なら、自炊なんてしなくたってすぐにおいしいご飯にありつけるのだから。
 ところが、ここでは違う。伽耶くらいの年齢の女なら、料理などできて当たり前なのである。
 なにせ基礎がなっていないわけだから、軽くああだこうだと説明されたところで理解できるはずもなかった。はじめのうちは記憶喪失のせいだと大目に見てくれていたお松も、井戸を使えず、米も炊けない、火もつけられず、食材を洗う事も知らず、挙げ句の果てに包丁も握れないとくると、ついに我慢の限界を超えた。それで、【バシッ!】が出たわけだ。

 ——包丁持ってる人間の利き手を殴るか普通!
 危うく身体のパーツをどれかひとつ切り落とすところだった。未だに心臓がドッドッと暴れ回っている。伽耶は反抗的な睥睨をお松にぶつけたが、効果はないに等しかった。
「まったく。これでは夕餉に間に合いませぬ」
 お松は荒っぽく溜め息をつきながら、伽耶の代わりに包丁を取り上げた。選手交代、ということだろうか。伽耶はいささかホッとして息をついたが、その微かな怠惰の音を聞き漏らさなかったお松は、ぎらりと厳しい目を向けてきた。
「今日のところはわたくしが代わります——が、あなたはそこでしかと見ておかれるように。明日は必ずや手伝って頂きます故」
 包丁を持ったまま鬼婆のような顔をするお松は、それはそれはかなりの迫力であった。伽耶は口元をひきつらせた。
 夕餉の後、伽耶は再び勝に呼びつけられた。今日はさんざんな目に遭ったからさっさと床につきたかったのだが、勝の呼び出しなら仕方ない。【女性らしい歩き方】とやらについてお松にくどくど説教されながら、伽耶は昨日ぶりに勝の部屋へと向かった。
「失礼します」
 襖の前に跪座し、声をかける。すぐに【あいよ】と軽い返事がかえってくる。伽耶は襖に手を添えると、なるべく音を立てないようにしてそっと開いた。
「悪いね。疲れてるとこ、呼び出しちまって」
「いえ」
 相も変わらず愛想のかけらもなかったが、勝はそれを咎めたりはしなかった。
「今日はどうだった?」
 人懐っこい笑みでそう問うてくる。【どう】って…——伽耶はムスッとした。
「………」
 答えあぐねて黙り込んでいると、勝が【おっ】と弾んだ声を上げて、自分の手首の辺りを指差してみせた。その仕草を見て、伽耶の機嫌は更に急降下する。
「そのしっぺの痕、お松だろ」
 なんでこの男はこんなにニヤニヤとうれしそうな顔をしているんだろう。伽耶は舌打ちした。
「……何なんすか、あのおばさん…」
 完全に弱り果てた様子の伽耶を見て、勝はまた笑う。
「まぁそう言うな。あれでもあんたのことを思ってやってんだ。余計な世話かもしれねぇが、ここにいる間はお松をおふくろだと思ってさ」
「冗談——」
 じゃねぇ、と言いかけて、口を噤む。この屋敷で汚い言葉遣いをしたら、それを聞きつけたお松がまたあのやたらと痛いしっぺをしにやってくるんじゃないか…なんて、子どもじみた恐怖心を覚えてしまったのだ。
 ——まぁ、地獄耳でガミガミうるさいところは、確かに母親のようであるかもしれない。
 黙り込んだ伽耶をどういう意味でとらえたのかは分からないが、勝は満足げに口元を緩めていた。…と、ふいにその目つきが切なげな色を帯びる。
「——町、行ったんだろ?……何か思い出したかい?」
 くっきりと残ったしっぺの痕をさすっていた伽耶は、ぴたりと動きを止めた。
「……何も、」
 そう答えるしかなかった。罪悪感を感じないわけではないが仕方ない。この場合、真実を打ち明けるより、嘘を貫き通すべきだと分かっていた。
「そうかい」
 勝は同情を込めて溜め息をついた。
「今日、ここいらの奴らにあんたのことを聞いて回らせたんだけどよ、残念だが、誰もあんたのこと知らねえっつーんだ」
 まぁそりゃあそうだろうなと思いながらも、伽耶は黙っていた。
「ひょっとしたら、もっと遠くから来たのかもしんねぇな。もう少し聞き込みの範囲広げてみるけどよ、時間かかっちまいそうだ。早く帰してやりてぇのは山々なんだが——悪ぃな」
 ——帰す。
 伽耶はうつむいた。そうか。そうだよな——ここに伽耶の居場所はない。いつまでもいるわけにはいかないんだ。
(……疲れた)
 本当に、今日は碌なことがなかった。
 夜も更けてきた頃、ようやく自室に戻ることができた伽耶は、布団の上に仰向けになって、ぼうっと天井を眺めた。
 財布は盗られるし、帰り際には胸糞の悪いものを見せつけられるし、強いてよかったことを挙げるとすれば、歴史上の偉人——かもしれない人——と会ったことくらいだ。
 第一、あの人は本当にあの【近藤勇】なんだろうか?近藤勇といえば、あの新選組局長を幕末の武士だ。だが、今日会ったあの男は武士ですらなかった。この時代の身分事情はサッパリ理解できないが、恭太郎を【御武家さま】と恭しく呼んでいたんだ、それは間違いない。
 ——やっぱ人違いかな…。
 現代人からすれば【いさみ】なんて変わった名前に思えるが、もしかしたらこの時代にはよくある名前なのかもしれない。ならば同姓同名ってことだって有り得る。
 まぁ、どっちだっていいか。自分には関係のないことだ。それより、もっと気にかけなければいけないことがあるじゃないか。
 身体をごろんと横に向ける。行灯から滲み出るほんのりとした灯りが、じわりと胸にしみた。
 早く【帰り道】を見つけないと、まずいぞ。勝は【しばらく泊めてやる】とは言ったが、【ここに住まわせてやる】なんて一言も言っていないのだ。現にさっきも、【急いで身元を特定してやるからとっとと帰れ】といったような口ぶりだった。まあそりゃあそうだろう。迷子の人間が転がり込んできたら元いた場所に帰してやるのが道理だ。【おや、お前さん迷子なのかい?じゃあ今日から君は俺の家族だ】なんて展開あるわけない。犬猫でもあるまいし。だが、伽耶の場合はその【元いた場所】が存在しないのだ。記憶喪失だと言って知らん顔していれば逃げ切れると思っていたのだが、現実はさほど甘くはなかった。やっべーよ超やべぇ。どうしようどうしようどうしよう。
 ごろん。反対側に身体を向ける。
「どうしよう、マジで…」
 とりあえずさっさと平成の世に戻る方法を見つけなくては。ここを追い出されたら、行く宛てなんてどこにもないんだから。
 明日、恭太郎に頼んであの場所へ行ってみよう。伽耶が現れた、あの始まりの山の中に。あの時は暗くて迷子になってしまったが、日の目のある時に行けば道も分かるかもしれない。
 そうだ、それがいい。
 小さく声に出して頷いてみると、不思議と胸のモヤモヤが薄らいだ気がした。