「伽耶さん、もうよいか?」
「まだ」
 襖越しのこのやりとり、かれこれ二十分以上繰り返されている。

 勝の余計な計らいで恭太郎と出かける事になった伽耶は、『洋装では悪目立ちするから』との理由で、お松の用意した和装に着替える事になった。恭太郎を部屋の外に待たせ、手早く着付けを済ませたはいいが——、何気なく見下ろした自分の身体を見て絶句した。
 何だこの着物。超ピンク。超花柄。超女子おなご
 こんな格好を人目にさらすなんて、恥ずかしいことこの上ない。生地や刺繍の繊細さからして相当の上物と見て取れる。そんな気を回さなくて結構だったのに。もっと、庶民の男が纏うような、粗末な色の袴で良かったのに……。
「伽耶さん、まだか?」
「……【まだ】っつってんだろ…」
 何度目か知れぬ問いかけにぼそりと呟いた時、目の前の襖がスパンと開いた。
 ——えっ。
 思わずぎょっとして顔を上げる。恭太郎はこちらに背を向けていたが、その隣に立つお松は伽耶に鬼の如き形相を見せている。勝手に襖を開けたのはお松のようだ。
「おっ、お松さん…!?」
 恭太郎が慌てふためくのを尻目に、お松は支度の済んだ伽耶を頭のてっぺんから爪先まで鋭い目つきで睨みつけた。
「殿方をお待たせするとは何事ですか」
「………」伽耶は苦い顔をする。
「何をちんたらなさっておいでで?」お松が唸った。これはよくないサインだと伽耶は身構えた。「とっくに支度は済んでおられるのでしょう」
「済んでおるのか?」
 恭太郎は素っ頓狂な声を上げて、そろそろと伽耶を振り向いた。整った彼の目元が、伽耶の着物姿を捉えて、わっと驚いたように大きく見開かれる。
「あ……」恭太郎の口から掠れた声が洩れた。「……その、よく……似合っている…」
 伽耶は顔と耳に熱が集中するのを感じた。なんだこれ。恭太郎のために着替えたわけではないのに、なんてリアクションをするんだ、この男は。互いの間に流れる空気が初々しいカップルみたいになっていて、どうしようもなく恥ずかしくなってくる。
「ところで、水を差すようですが」
 うっかりほの甘くなりかけた空気の中に、お松が無粋に斬り込んできた。伽耶も恭太郎も、この時ばかりはお松に感謝した。
「御髪はお結いになられないのでございますか?失礼ながら、そのようにバラバラと垂らしていては、どうにも乞食のように見られましょう」
「こじっ——」伽耶は野太い声を出しかけて咽せた。
 そうは言っても、この時代の娘のように女髷を結うのにはさすがに抵抗があった。伽耶とて平成の流行を追いかけてきた年頃の娘なのだ。他人のを見るにはいいが、自分がやるのは嫌だ。伽耶はしばらく考え込んだ後、部屋の中へ【あるもの】を取りに戻った。
 スーツのポケットから取り出したのは、控えめな桜の飾りがついた、黒のヘアクリップだ。慣れた手つきで髪の毛をねじってまとめあげ、ヘアクリップで留める。
 明らかにこの時代の髪型ではないが、お松は許容範囲と見なしてくれたようだ。「いいでしょう」と眉を吊り上げ、一歩脇に退いて道を開けてくれた。
「近頃の流行りか?」
 しゃれた渦を描く髪を見て、恭太郎が不思議そうに聞いた。
「…先取り」
 それだけ答えて、伽耶は小股で歩き出した。
 初めてお目にかかる【江戸の市井】というものは、とても賑賑として朗らかな場所だった。景気のいい呼び込みの声、軽快に駆け抜けていく飛脚、元気一杯に駆けずり回る子供達。着物、袴、草履、髷、簪、笠……。伽耶の知る日本人とは体格も格好もまるで違ったが、どこか懐かしくも感じる古き良き景色だ。
「うっわ……本物だぁ…」
 伽耶は口元が緩むのを抑えきれず、キョロキョロしながら呟いた。
「大河ドラマみたい」
 天秤棒に桶をくくりつけて運ぶ者、薬箱を担いで歩く者、駒を回して遊ぶ子供達。ほんとうに時代劇そのものの光景だ。テレビくらいでしか見たことのない風景が実在し、今まさに目の前に広がっている。初めて海外旅行に来たような、そんな気分だった。
「このあたりは初めてか」
 少し先を歩いていた恭太郎が、肩越しに振り向いて微笑んだ。
「はしゃぐのはよいが、迷子にならぬようにな」
 まるで田舎の子供を世話しているような口ぶりだ。伽耶はムッとした。
 何の気遣いか、恭太郎は、伽耶と並んで歩く事は絶対にしなかった。必ず二、三歩ほど先を進んで歩き、着物のせいで小股になってしまう伽耶はその後をちょこまかとついて回る形となった。
 この時代の服は歩き辛いことこの上ない。この小股っぷりがこの時代に置ける【上品】とやらにあたるのだろうか。普段から片手を上着のポケットに突っ込んで町を闊歩していた伽耶には無縁のふるまいだ。これから【ここ】にいる間は毎日この格好をしなければならないと思うと気が滅入った。
 第二の問題は履物だ。草履だの下駄だの、靴に慣れてしまった伽耶の足にはどうにも形が合わず、痛くて敵わない。歩いているだけで機嫌が悪くなりそうだ。
(どっかでせめてブーツでも売ってないかな…)
 三歩先を行く恭太郎の背中を意識しつつキョロキョロしていると、伽耶の目はふと【ある人物】を見つけて立ち止まった。
「——あァ?」
 なんとまあ、伽耶の舎弟だ。
 が、まさか同一人物ということはあるまい。顔や雰囲気は似ているが、よく見れば月代を剃った髷頭だ。偉そうな裃を羽織り、左腰に刀を二本差している。
(……あいつの【先祖】役人かよ…)
 あの役人、子孫が極道だと知ったらきっとひっくり返るだろうな——なんて余計な気を回していると、ぼやぼやしていたせいか、前から走ってきた小柄な男と肩が触れ合ってしまった。つい【ってぇな、クソ…】と乱暴な言葉を洩らしてしまうが、相手の怒鳴り声のほうがよっぽど大きく、伽耶のささやかな悪態などうまい具合に掻き消された。
「ぼさっとしてんじゃねぇや!気をつけろ!」
 なんて言い草だ。伽耶は露骨に顔をしかめた。猛スピードでイノシシみたいに突っ込んできたのはそっちじゃねぇか……。
「どうした?大事ないか?」
 恭太郎がびっくりしたような顔で駆けてきた。伽耶はまだイライラが収まらず、つっけんどんに「べっつに」と返した。
「無事ならよいのだが……」
 と言いながらも、恭太郎は何か言いたげな目つきで伽耶を舐め回している。そんなに心配しなくとも、自分より十センチ以上も小さい男に突き飛ばされたくらいでどうにかなったりするほどヤワではないというのに。
「……何?」
 伽耶がうんざりしながら尋ねると、恭太郎は【いや…】と顎をさすった。
「物盗りではないかと思ったのだが、そうでないのならば別に——」
 伽耶は咄嗟に懐を抑えた。ない。出しなに勝から預かった巾着が……金子が、ない。やられた!——スられた!
「……っのやろ…!」
 そうと分かると、いてもたってもいられなかった。ぶつかられた事よりも、せっかく貰ったお金を失くしてしまった事よりも、【この私】から金をかすめとるなんて、そんな舐めた真似をされた事が何より許せなかったのだ。
「かっ…伽耶さん!」
 恭太郎の制止も聞かず、伽耶は走り出していた。着物の裾が乱れるのもお構いなしに、できる限りの速度を出して。
「待て、止まれ!——伽耶!」
 後ろから恭太郎が慌てふためいて追いかけてくる。しかし伽耶は止まらなかった——邪魔な通行人を脇に押しのけ、【待て!】と声を張り上げる。スリはちょっと背後を振り返り、全速力で追い上げてくる鬼のような剣幕の女をみとめると、途端にサーッと青ざめた。
「くそっ……」
 スリは吐き捨てるように悪態をつき、慌てて前へ向き直った——その時だった。すぐ傍の店の戸口に、大きな人影がフラリと現れた。スリは【あっ】と息を呑み、歩幅を縮めるようにして急ブレーキをかけたが、時既に遅し。
「ぐっ——」
「うおっ…!?」
 スリは人影に強く接触、その人を巻き込んで派手に転倒した。
「この野郎…!」スリが身体を起こしながら吠え立てた。「どこに目ぇつけてやがる!」
「こ、これはすまない…」
 巻き込まれたのは男だった。この時代の人間にしてはずいぶんと大柄な人だ。彼は袴についた土埃を軽く払いながら立ち上がると、ちょうど体を起こそうとしていたスリにスッと手を差し伸べた。
「いらねぇよ!余計な世話だ!」
 スリは男の親切心をぱしんと払いのけてしまった。「えっ…」——思わぬ仕打ちに、男性がぽかんと間抜けな面を晒していると、
「その者を逃すな!」
 あたり一帯に恭太郎の声が轟いた。男性は即座に表情を引き締め、声の出所にさっと目を向けた。
「泥棒だ!捕らえてくれ!」
 それを聞くなり、男性は動いていた。先ほど払いのけられた手でスリの腕を掴む。そして力任せにぐいと引き寄せて脇に抱え込むと、情け容赦なく捻り上げ、背中に伸しかかるようにしてスリの身体を地面に押しつけた。
「いでででででで!」
 スリが喚き散らす。痛みに悶えて体を捻った時、その懐からぽとりと女物の巾着が転がり落ちた。
 数秒遅れて、現場に伽耶と恭太郎が到着した。二人とも着物は乱れに乱れ、頬は上気し、ぜぇはぁと肩で息をしていた。
「す、すまない……手間をかけさせた…」
 荒い呼吸を呑み込むようにして、恭太郎が男性に声をかけた。
「いやぁ、これしきのこと」
 男は膝と片腕でスリを押さえつけたままだったが、その顔は朗らかに笑っていた。ふと、彼のその目が様子を窺うように伽耶に走った。伽耶は乱暴に着物の乱れを直すと、巾着を拾い上げ、荒っぽい足取りで男らの正面に立った。
「あ…」
 礼を言われると思ったのか、男はフライング気味に会釈をしかけたが——、生憎、伽耶の目にはスリしか映っていなかった。
「…てんめぇ……」
 ぎろりと睨み下ろす伽耶の目は、完全にスイッチが入っていた。幸い、声が小さかったため、その粗暴な言葉は二人の耳には届いていなかったが。
「人様の金に手ぇつけるような真似しやがって……ケジメはしっかりつけてもらっ——!?」
 台詞の途中だというのに、後ろからぐいと腕を引っ張られたせいで、変な風に途切れてしまった。伽耶は批難がましく背後を睨みつけたが、恭太郎はその睥睨に気づいてすらいない。
「まったく、冷や冷やさせないでくれ…」
 スリから庇うように伽耶を自分の背後に押しやりながら、恭太郎が溜め息をつく。
「おてんばも程々にしてもらわねば、あなたに何かあっては勝先生に申し訳が立たんではないか」
 【おてんば】って…——伽耶はムッとして口を【へ】の字に曲げた。恭太郎は伽耶が大人しくなったのを確認すると、もう一度、今度は気持ちを入れ替えるように溜め息をつき、男の下敷きになっていたスリの身柄を引き取った。
「伽耶さん、少しそこの茶屋で待っていてくれ。わたしはこの不届き者を引き渡してくる」
 そういうことなら——伽耶は言葉を使わずに態度だけで肯定の意を示した。
「……あなたを一人にしておくのは少々心配だが…」
 スリの後ろ手を掴んだまま、恭太郎が少し渋る様子を見せた。
「あァ?」
 伽耶は思いっきり顔をしかめた。
「また何か追いかけて飛び出して行っては困るからな」
「………」
 それでは、まるで子どもみたいではないか。伽耶は不服そうに目を細めた。すると、じっと二人の様子を見守っていた先ほどの男性が、声を立てて笑った。
「ならばその間、俺が彼女の側にいましょう。何、これだけ人目があるのだから妙な真似はしませんよ。あなたが戻ってこられるまで、茶屋からは一歩も動かんようにしておりますから」
「しかし……」
 己の身を顧みずスリを捕まえてくれたほどだ、恭太郎は目の前の男性に対して少なからず警戒心を解いているようだった。それよりも、彼の時間をとってしまうことに申し訳なさを感じたのだろう。
「あぁ、俺のことなら、そう構わんで下さい」
 恭太郎の表情から何となくその意を察した彼は、両手を小さく振りながら苦笑いした。
「大した用事があるわけでもないのですから」
「……ならば、しばしの間お任せする」
 まだ若干の申し訳なさを引きずっているようだったが、恭太郎は微かに笑みを浮かべると、スリの腕を乱暴に引っぱってその場を後にした。
「さ、伽耶さんとやら」
 男性に促され、伽耶は仕方なく彼に連れ立って恭太郎が指示した茶屋に入っていった。
 見知らぬ男と待ちぼうけを食らうはめになってしまった伽耶に気を遣ってか、男性は敢えて人目の多い外の席を選んで座った。赤い布をかぶせられた長椅子に腰かける際、【京都の観光地みたい】とちょっとばかりテンションが上がったのは内緒だ。男性はすぐにお茶と団子を注文し、店員が行ってしまうと、伽耶の目をちょっとだけ見て曖昧にほほ笑んだ。
「すみませんなぁ。こんな男と二人きりにさせてしまって」
 【あんたがそれを言うか】とツッコみたいのを呑み込んで、伽耶は【別に】と素っ気なく返した。
「ところで、あなたは見かけん顔だが、この辺りの人ですか?」
 男性が問いかけてきた。【この辺り】…といえばこの辺りだが……。
「千代田線で10分くらい…?」
「【千】…?」男性が目をぱちくりさせた。
「あー、……いや…」
 とはいえ、この時代のものさしを知らないので、他に何と答えたらよいか分からない。適当なことを言って誤摩化していると、店員が茶を持ってきて二人に渡した。
「俺は少しばかり離れたところで、剣の道場をやっておりまして——」
 道場を【やっている】ということは、師範か何かなんだろう。伽耶は【へぇ…】と浅い相槌を打ちながら湯呑みに口を付けた。
「——と言っても、そんなに大層なものじゃあないんだが。皆、気のいい奴らですよ」
 そう言って、男性は笑う。それは意識的なものではなく、自然と溢れ出たものだった。
「弟子の一人に総司という奴がいるんですが、こいつがなかなかいい腕をしていましてね……色々と事情があって、幼い頃からうちで預かっているんですが」
 聞いてもないのに、男性は【総司】という門下生のことをうれしそうに語り出した。その表情は、親愛と呼ぶべきか、慈愛と呼ぶべきか、とにかくそんなようなもので満ち満ちていた。よっぽど大切な子なんだろう。そんな緩んだ顔しちゃって——見ているこっちが気恥ずかしくなる。伽耶は男性から目を逸らし、誤摩化すように茶を口に流し込んだ。
「長く一緒にいるせいか……弟子というより、むしろ年の離れた弟みたいなものだな。いやぁ、人の目にはもう立派な大人として映っているんだろうが、俺からすればまだまだ子供でして。よくトシに悪戯をしては追いかけ回されていて……そんなところを見ているとますます——あぁ、いや、すいません。こんな話…」
「……いや」
 確かに、初対面の身ではうまく踏み込めないような私的な話であったが、不思議と伽耶は悪い気はしなかった。
 少し、沈黙の間があった。もともと無口の伽耶は、特にその静けさを妙に思うこともなかったが、男性はやや気まずさを覚えたようだった。苦し紛れに持ち出してきた話題がよりにもよってこの時代の政治や剣術のことだったので、ますます伽耶にはサッパリだった。兵法だとか攘夷がどうだとか、その口から飛び出してくる単語は、年頃の女を喜ばすものとは程遠い。あまり女性慣れしていないのだろうか。それはそれでポイントが高いが。
 とはいえ、代わりに提供できるような話題もない。それに、持論を白熱させる彼の表情がいきいきと輝いているので、わざわざ遮ってしまうのはどうにも可哀想な気がした。伽耶は男性に好きなだけ喋らせておこうと思い、茶を飲みながら何となく相槌を打ち続けた。
「——いやぁ、熱くなってしまいました。お恥ずかしい……」
 話が一段落したあたりで、男性はちょっぴり恥ずかしそうに笑いながら頭を掻いた。
「伽耶さんは聞き上手だから、ついつい【あれもこれも】と話してしまいたくなってしまって……」
 そうかね?——【聞き上手だ】などと言われたことがない。伽耶は片眉を吊り上げた。男性は伽耶の微妙な表情の変化など気にも留めず、すっかり冷めてしまった茶を一口含む。そして、思い出したように【あ】と声を上げた。
「——そういえば、自己紹介がまだでしたな」
 確かに、色々とゴタゴタしていたし、名前を聞くのを忘れていた。男性は湯呑みを置くと、改めて伽耶に向き直ってにっこりと人当たりのいい笑顔を浮かべた。
「俺は、【試衛館】という道場の——近藤 いさみと申します」
 途端に伽耶は噎せ返った。