雨が降っている。

 水浸しのコンクリートに味気ない景色がうつり込む。その上に煤けた革靴が片っぽだけ、無造作に転がっていた。パトライトの赤い光が地面を舐める。慌ただしく駆け回る大人の足がいくつか見えたけれど——おかしなことに、何の音も聞こえてこない。

 淡いピンクのひしゃげた傘、割れたスマホ、びしょ濡れのハンカチ。

 コンクリートに映った逆さまの世界が揺らめいている。救急車のタイヤが道路の水を跳ねて、いびつな世界をかき消した。

Quidam

 はっとして目を開くと、そこは果てしない大海原だった。

「──え?」

 ギョッとして勢いよく体を起こすと、体を支えていた片手がツルッと滑り、冷たい水の中に肘まで突っ込んだ。

「わっ!?」

 慌てて腕を引っ込めた間明り以子は、そこで初めて、この状況を理解する。

 乗っていたのは、僅か一畳分ほどのボロボロの木の板だった。すぐ真下は波打つブルーの海面。辺りを見渡しても何もない。大海と青空だけがひたすらに広がっている。

「えっ──えっ、えっ⋯⋯?」

 り以子はパニックになり、波に揺れる板の上で頭を抱えた。

 何度確認しても、海のど真ん中だ。陸はどこにも見えず、船もない。人どころか、海鳥の気配すら感じられない。完全な孤独だ。誰もいない海のど真ん中で、一人、腐りかかった板にしがみついて漂流している⋯⋯。

「嘘⋯⋯なんで?ど、どうしよう⋯⋯どうしたら⋯⋯、キャッ!」

 突然、板の一部が大きく跳ね上がり、り以子は慌てて身を伏せた。かと思えば、今度は後ろに立ち上がった波が、背中に海水を叩きつけてくる。

「つめたっ⋯⋯」

 り以子は身を縮めて呻いた。一瞬にして濡れ鼠になってしまった。異様なほどの冷たさに、このままでは良くない気がした。

「どうしよう⋯⋯何とかしなくちゃ」

 奇跡的に、荷物は手元にある。

 急いでリュックのファスナーを開き、中を漁った。コンビニで買ったペットボトルの飲料水、タオルハンカチ、着替えと靴、ワイヤレスイヤホンのケースに充電器、そして──スマートフォン。

 り以子はスマホを取り出すと、真っ先に画面左上を確認した。

 ──圏外。

「なんで──」

 なんでも何も、少し考えれば当然のことなのに、藁にもすがる思いでそんなことにも考えが至らなかった。すっかりスマホさえ手に取ればどうにかなる気でいた。そんなはず、ある訳がないのに。

 途方に暮れるり以子の手からスマホが滑り落ち、リュックの中でゴトリと音を立てた。

「詰んだ⋯⋯」

Come Josephine, in My Flying Machine

 日差しが辛い。遮るものが何もないから、容赦なく照りつけてくる。首の裏がじりじりと灼ける感覚に耐えきれず、荷物に入っていたパーカーを頭から被って蹲った。すぐに喉がカラカラになり、ペットボトルの水でちびちび口を湿らせる。飲み水はこの一本しかない。いつ飲み干してしまうか気が気でなく、満足に喉を潤せなかった。

 不規則に揺れる海面は、時折思ってもいなかったような大きな波でり以子の乗る板を跳ね上げた。り以子はその度に振り落とされまいともがいたが、何度目かの抵抗の時、なんと板の端を踏み抜いてしまった。

「きゃっ!」

 ベキッと嫌な音がした次の瞬間、り以子は大きく傾いた板の上からズルッと滑り落ち、冷たい海中に肩まで沈んだ。必死に板を押さえてなんとか転覆は免れた。よかった。リュックを落としたら一巻の終わりだった。

 海面が上下に暴れ、り以子の口元に覆いかぶさって呼吸を邪魔する。り以子は金魚のように口をパクパクさせながら波をかき分け、四苦八苦の末にようやく板の上によじ登ることに成功した。

「ゲホッ、ゲホッ⋯⋯、ハァ⋯⋯ハァ⋯⋯」

 板は、三分の一ほどの面積を失ってしまっていた。こんな簡単に破損してしまうなんて──り以子は血の気が引いていくのを感じた。もしかして、この板、もたないんじゃないだろうか⋯⋯。

 電波がないと分かって「詰んだ」とは思ったが、それでもまだ心のどこかで最終的には助かるはずだと信じていたのに。漁船や貨物船が通りかかるかもしれないし、漂流しているうちに島が見えてくるかもしれないと、僅かな希望があったのに。その前にこの板がバラけてしまったら⋯⋯?海に投げ出され、すがる物もなく、どれだけの時間泳いでいられるかなんて分からない。体力が尽きたらどうなるんだろう。人って、沈む⋯⋯?

 思わず海面を見下ろしたり以子は、余計なことを思い出してしまった。

 ──海の95パーセントは未だ解明されていないらしい。

 透き通ったターコイズブルーの浅瀬とは違う。濁った濃紺の海面は光を通さず、上からでは何も見えない。何があるか分からない。何かがいても、分からない。どれくらい深い?沈んだら、どこまで落ちていくんだろう⋯⋯。

 ダメだ。そんなこと考えたらいけない。り以子はブンブンと頭を振って、余計な考えを払いのけた。

「大丈夫⋯⋯」

 ハッキリと呟いて、自らにそう言い聞かせる。

「大丈夫。絶対大丈夫だから⋯⋯」

 きっと何とかなる。こんなワケの分からないことで人生が終わるはずない。助かったら、酷い目に遭ったとSNSに愚痴を書くんだ。

「きっと助かる。大丈夫。大丈夫。大丈夫──」

Come Josephine, in My Flying Machine

 寒い⋯⋯。

 さっきまで照りつけていた灼熱が嘘のように、今は寒さがしみ込んでくる。見れば日が傾き始め、水平線の向こうへしまわれようとしている。

 お願いお日様、沈まないで⋯⋯。

 り以子の願いも虚しく、程なくして夜の帷が下りた。

 髪も服もぐっしょり濡らし、まともな防寒具もない。おまけに海面がひっきりなしに冷たい波を浴びせかけ、り以子の体温を奪っていく。り以子は歯をガチガチ言わせ、懸命に腕をさすったり体を縮こめたりした。

 星もない曇り空の夜の海はあまりにも暗く、視界が真っ黒に塗り潰されてしまったようだった。自分の手さえ見えず、迂闊に身動きも取れない。波の音がしなければ、ここを地獄か何かだと思っただろう。

 冷たい風が濡れた髪を揺らした時、り以子はゾッとした。髪が──凍っている。咄嗟に手で触れて確認しようとして、服の袖にも霜がついていると気づいた。

 どうしよう。こんなの無理だ。耐えられない。

 さっきまであんなに暑かったのに、これほどの気温差ってあり得るんだろうか。海ってこんなもの?おかしくない?たった数時間で季節が二つ巡ったような変わりようだ。

 容赦なく畳みかけてくる自然の厳しさに、り以子の心はほとんど折れてしまった。体は凍え、末端の感覚がなくなっている。だんだんと意識に霞がかかり始めていた。瞼が重くて目を開けていられない⋯⋯。

 ⋯⋯⋯⋯。

「──イ!オイ⋯⋯!」

 誰かの叫び声がくぐもって聞こえた。

 最初、り以子はそれを幻聴だと思った。しかし、目の眩むような白い円形の光に晒された時、り以子はようやく現実だと気がついた。

「オイ!あんた、生きてるか!?」

 り以子は知らぬ間にうつ伏せになっていた体を懸命に動かし、顔を上げて光の差す方を確かめた。一隻の帆船が暗い海面の上に浮かんでいる。控えめな明かりの中に立つ黒い人影が、り以子に懐中電灯を向けていた。

「⋯⋯ッ!ウソだろ!?女の子だ!」

 驚きの声の後、船のそばに何かが飛び込んだ重たい音がして、黒い水柱が上がった。

 うねる波間をかき分けて、その人はまっすぐり以子に向かって泳いできた。しかし、波はまるで二人を近づけまいとするかのように暴れ、彼を押し戻そうとする。り以子はすがる気持ちで彼に向かって必死に腕を伸ばした。

「あっ──」

 その拍子に、板はバランスを乱し、盛大に傾いてり以子を海中に落とした。刺すような冷たさが一瞬のうちに全身を襲い、筋肉が縮み上がるのを感じた。ダメだ、体が言うことを聞かず、上手く泳げない。溺れてしまいそうだ⋯⋯。

 波が動き、偶然、二人の間が開けた。そこで初めて二人の目が合った。

 危険を顧みず、冷たい海を一生懸命に泳ぎ向かってくるのは、思ったより線の細い青年だった。彼は一瞬、海面に浮かぶり以子の顔にはっと息を呑んだ。

「手を──」

 闇の中から青年が手を伸ばす。り以子は無我夢中でその手に掴まった。

「──ッ、捕まえた!」

 次の瞬間、り以子は全身をガッシリとしたものに抱き止められるのを感じた。もう二度と溺れさせないとばかりに、強く、きつく。

「もう大丈夫だ」

 耳元で力強い声が言った。り以子の目からほろりと熱いものがこぼれ落ちた。助かった⋯⋯私、助かったんだ──背中に腕を回してしがみつくと、硬い胸元から、ほろ苦いタバコの匂いがした。

カム・ジョセフィーンはタイタニックのアレです