船の上に引きずり上げられたり以子は、寒さと疲労でまともに歩くこともできず、かろうじて二、三歩足を動かしたところでガクリとくずおれた。

「おっと!」

 もう少しで膝を強打しそうという時に、後ろから青年の長い腕がり以子を抱きかかえるようにして支えてくれた。

「あ、ありがとうございま⋯⋯」

 り以子はお礼を言おうとしたが、声は酷く掠れ、ほとんど音になっていなかった。

 り以子は体を軽く捻り、背中を支えてくれている恩人の顔をおずおずと見上げた。船上の薄明かりで改めて見るその人は、り以子よりやや年上と思われる若い金髪の青年だった。長めの前髪がハラリと左目にかかり、露わになっている顔の右側で、眉尻がくるんと渦を巻いている。前髪の毛先から滴った雫が形のいい鼻筋を伝って流れていくのを、り以子はぽかんと見つめてしまった。

「だっ、大丈夫かァ!?」
「サンジ君落ちたのっ!?」
「オイオイ大丈夫か!?冬みてェな寒さだぞ!」

 甲板では物音を聞きつけた仲間がびっくりして騒いでいる。彼らは奥からありったけの毛布を持ち出して来て、ガクガク震えるり以子に次々に被せていった。

「それがよ、漂流してたんだよ」
 り以子を助けてくれた青年が説明した。右目に水が入りそうになったようで、右の上腕の袖でグイッと目元を拭っていた。
「見つけた時ァ肝が冷えたぜ。こんなクソ寒い早朝の海に、氷の妖精が倒れてるとは」

「何バカなこと言ってんのよ!あんたも体拭いて!着替えて来たら?」

 短いオレンジ髪の女性がピシャリと言って、青年にタオルを数枚投げつけた。

 人だ⋯⋯。
 り以子は、あれだけ恋しかった人気ひとけを肌で感じられることに感激するあまり、胸が詰まって言葉が出なかった。

「ちょっと、大丈夫?」

 ボケっとするり以子の顔を心配そうに覗き込んだ女性は、やれやれといった感じでり以子の髪や服をガシガシと拭き始めた。

「お嬢さん、温かいお飲み物をお持ちしました」

 着替えに行っていたはずの青年が湯気の立つマグカップを手にして戻って来た。「これを飲んで体を温めて──」

 しかし青年は、大量のタオルと毛布の隙間から覘いたり以子と目が合うと、マグカップを差し出しかけた格好のまま、エラーを起こしたかのようにピタリと固まってしまった。

「⋯⋯サンジ君?」

 女性が訝しそうに呼びかけると、サンジと呼ばれた金髪の青年はビクッと小さく肩を跳ねさせた。

「え?あ、あー⋯⋯すまねェ、ナミさん」

 サンジは心ここに在らずといった様子でマグカップを女性──ナミの手に握らせ、フラフラと部屋の中へ消えてしまった。ナミはますます眉根をひそめ、間違って渡されたマグカップをり以子に手渡した。

「何?アレ」

 受け取ったカップからじんわりと熱が伝わってくる。り以子はそっと口をつけ、ほかほかの湯気を顔に浴びた。

「⋯⋯あったかい」

 優しい甘さのミルクの香りが、鼻腔をくすぐり、体の芯の緊張をほぐしていくのを感じた。涙腺までもがほろほろに解け、堪え切れずに目尻から感情が流れ出ていった。本当に助かったんだ⋯⋯。私、生きて──。

「こちらもどうぞ、お嬢さん」
「──ん?」

 いつの間にやら、り以子の目の前には豪勢な食事が盛りに盛られたテーブルがあった。ごろごろ野菜のポトフにクリームシチュー、トマトリゾット、とろとろ牛すじ煮込みに、白身魚のクリーム煮、あつあつ豚汁、輝くようなコーンポタージュと、とろけたチーズが乗った煮込みハンバーグ。そこへ「トン」と軽やかな音を立て、モコモコ泡のキャラメルラテが置かれた。

「へへ⋯⋯体があったまる料理を作ったから、とんとお食べ」
「⋯⋯」

「食えるかァ!こんな量!」

 呆気に取られ絶句するり以子の代わりに、ナミがサンジの頭をはたいてツッコんだ。

「はっ⋯⋯!しまった、つい⋯お嬢さんの体を温めてやりたい一心で⋯⋯」
「変態みたいな口ぶりで田舎のバアちゃんみたいなことしてんな」

 やたら鼻の長いモジャモジャ髪の男の子が、呆れた顔でぼやいた。

 と、その時。

「め〜〜〜〜〜〜〜〜し〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」

 どこからか地を這うような声がして、ドテドテッと慌ただしい物音が聞こえた。サンジ達はたちまち呆れた顔をした。

「⋯⋯メシの気配嗅ぎつけて起きたな」
「ゲンキンなヤツだぜ」

 今度は一体何がやって来るんだろう?と、半ば期待しながら音の方を見つめていたり以子の頬に、ちらりと冷たいかけらが舞い降りた。

「──雪?」

 見上げると、白み始めた空から無数の粉雪が降り始めていた。道理で寒かったはずだ。

「ボケッとしてないでこの子中に入れてあげなきゃ!凍えて死んじゃうわよ」

 ナミはり以子の腕を掴んで立ち上がらせると、背中を押すようにして船内へ案内した。

 そこはキッチンとダイニングが一体になったような部屋だった。奥の壁には冷蔵庫とワイン棚が設置してあり、その横に食糧らしき荷物が雑多に積み上げられている。手前の壁は一部レンガ造りになっていて、キッチンが備え付けてある。たった今しがた大仕事を終えたばかりのようで、シンクに大量の鍋やボウルが突っ込んであった。

「あら?もう朝?」
「騒がしいな」

 扉から冷たい外気が吹き込むと、床に転がっていたこんもり丸い毛布の塊がのっそり動き、眠たそうな二組の目がこちらを向いた。王冠を被り、両頬に「9」と書かれた不思議な風貌の男と、水色のポニーテールの少女だ。丸いおでこにうっすら床の痕がついている。二人はラウンジに現れた面々を一人ずつ見回した後、り以子に目を留めて怪訝そうな顔をした。

「⋯⋯おや来客かい?いらっしゃい」
「ゆっくりしていってね」
「うっさいわ!何のんびり寝てんのよアンタら!便乗の分際で!」

 ナミは我が物顔の二人組を鬼の形相で寒空に向かって蹴り出した。

「ホラ、あんたはここ座って休んどきなさい。外よりは幾分かマシでしょ」

 そう言われ、り以子はホットミルクを手に一人ベンチに座り込んだ。後には、さっきまでと打って変わって、落ち着いた静寂が残された。

Un Sospiro

「サンジー!朝メシこれだけか?」
「てめェこのクソゴム!そりゃお前に作った分じゃ──ってもうねェのかよ!」
「おれもっと肉食いてェ肉」
「そんなことよりルフィ、さっきトラブルがあってよ⋯⋯」
「ウソップ!雪遊びしようぜ!」
「聞けや話!!!」

 扉の向こうは随分と賑やかだ。暖房がついているわけではなかったが、風雪をしのげる安全な船の中でぬくぬくとさせてもらったお陰か、体の感覚は元通りに戻ってきた。空になったマグカップをどうしたらいいか迷っていると、ガチャリと扉が開いて、サンジがラウンジに入って来た。

「ふぃ〜、寒ィ寒ィ⋯⋯」

 すっかり体が冷えてしまったようで、鼻の頭がほんのり赤く染まっている。肩を縮こめ手を擦り合わせながら小走りで駆け込んできた。

「あっ、あのこれ⋯⋯ご馳走様でした」

 り以子が立ち上がってマグカップを掲げると、サンジの目がパッと勢いよくこちらを向いた。たった今初めてり以子がいることに気がついたらしく、少し驚いたように目を見開いていた。

「あ、あァ⋯⋯うん。いいよ、そのままで」

 キッチンに向かいかけたり以子をやんわりと抑えて、サンジはその手からスルッとマグカップを抜き取った。

「ほら、座ってて」
「ありがとうございます⋯⋯」

 り以子は再びベンチに腰を下ろし、キッチンから聞こえる皿洗いの音を聞き流した。

 程なくして、手早く作業を終えたサンジが向かって来る気配を感じ取り、り以子は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。サンジは脇に避けていた毛布を手に取ると、通りすがりにり以子の膝にふわりと被せ、向かいのベンチの端に遠慮がちに腰掛けた。

 うわ、脚なっが──り以子は喉を鳴らした──股下2メートルある⋯⋯。

 ここまで会った船の人たちは様々な格好をしていたが、サンジはフォーマルな服装だった。青いストライプシャツにネクタイを締め、黒い細身のダブルスーツに金のフロントボタンを煌めかせている。
 ちょっと気だるそうな猫背だが、所作の端々に品の良さが隠れているような気がした。

「気分はどう?服、乾いた?」
「えっと、はい⋯⋯お陰、様で⋯⋯」

 気遣いの塊のような優しい声色の問いかけに、身構えていた体の緊張が少し和らいだ。サンジは「そっか」と微笑んだ。

「おれ、サンジ。この船のコックさ。お嬢さんのお名前、聞いてもいいかな?」

 コックさんだったのか。
 り以子は甲板で出された怒涛の料理の数々を思い出して納得した。

「あの、私、間明り以子です」
「“り以子ちゃん”かァ!」

 たかが名前だけで、サンジは素敵な魔法の呪文を教わったかのように嬉しそうに笑って見せた。甘い低音ボイスにちゃん付けされた自分の名前の響きがむず痒くて、り以子は火照る頬を押さえて俯いた。

「いやァしかし驚いたよ。朝の仕込みに早起きしたら、海に氷の妖精が浮かんでんだから。運命がおれと君を引き合わせてくれたのかな」
「? はあ⋯⋯。その節はどうも⋯⋯」
「あ、これ。あの後引き上げたんだ。荷物。り以子ちゃんのだろ?」

 サンジは部屋の隅の荷物の山から見覚えのあるリュックを拾い上げた。

「あ!そうです。ありがとうございます」

 り以子は両手を伸ばしてリュックを受け取った。外側の生地はじっとり湿っているが、中は思ったほど悲惨ではなかった。しかし、スマホの電源は入らなかった。水没した様子ではないから、バッテリー切れかもしれない。

「⋯⋯あの、すいません電話って借りられますか?」

 り以子が恐る恐る訊ねると、サンジはキョトンと目をしばたいた。「でんわ?」

「あ、そっか。海の上なんだっけ⋯⋯すいません、えっと、充電させてもらうことって出来ますか?」
「充電⋯⋯?何をだい?」
「え、っと⋯⋯スマホ⋯です」

 り以子は手の中のスマホを軽く掲げた。サンジはその手をちょっとの間だけ見つめて、困ったように眉を曇らせた。

「すまねェり以子ちゃん。おれにはよく分からん⋯⋯」
「えっ、あ、いいんですいいんです!どこか着いたらバッテリー買います。コンビニあるかなァ」

 サンジの困惑ぶりを見ていると、身を挺して助けてもらったばかりか、電力までもらおうとするなんて流石に図々しい気がしてきた。り以子はひとまずスマホをリュックに戻し、ベンチの足元に避けておいた。

「あの、今どの辺にいるかだけ聞いてもいいですか?」
「ん?あァ、あー──⋯⋯」

 サンジは答えようとして口を開き、それから答えに詰まったように唸った。

「大体でいいんです!東京の近くとか、横浜の近くとか⋯⋯」
「⋯⋯いや、おれもまだそこまで航路に詳しくねェんだが、“偉大なる航路グランドライン”に入って、“ウイスキーピーク”だかっつう町に向かってるところなんだ」
「⋯⋯」

 り以子の知らない単語が立て続けに流れて来た。

「⋯⋯はい?」
「ナミさんに聞けば海図を見せてもらえるよ。今ちょっと手が離せねェみてェだけど」

「サンジくーん!ちょっとおねがーい!」

 噂をすれば、外から大声で呼ぶ声がした。サンジはたちまち「んナミさんっ♡只今♡♡」と見えもしないのに高々手を挙げて返事をし、飛ぶようにラウンジを出て行った。

 静寂の中一人取り残されたり以子は、サンジが残した謎の言葉を反芻して首を傾げた。

「グランド⋯ライン⋯⋯?ウイスキー⋯⋯なに?」

 一方、背中で扉を閉めたサンジも、不審そうに会話を振り返っていた。

「スマホ⋯⋯?コンビニ⋯⋯?」

ため息(フランツ・リスト)