り以子達を乗せた船──“ゴーイングメリー号”というらしい──は、順調に海を進んでいた。ポカポカと朗らかな気候で、つい気が緩んでしまう。ここが気難しい航路の上だということも、秘密犯罪会社の脅威のことも、綺麗さっぱり忘れ去ってしまったかのようにのんびりした空気が流れていた。

「ゴフュ!!!」

 何気なく甲板を歩いていたウソップが、突然、見えないラリアットを食らったように独りでにひっくり返った。

「どうしたウソップ」ゾロが引き気味に訊いた。「活きがいいな⋯」
「違ェんだよ、ここに何か⋯⋯ハッ!り以子!り以子の仕業だなコラ!!!」

 ウソップは空中の何もないところを指差し、非難の目をぶん投げてきた。り以子は強くなじられて初めて、ウソップがいきなりパントマイムショートコントを始めたわけではないと理解した。

「あ、なるほど⋯⋯さっきちょっと試したのが残ってたのか⋯」
「“何か”作ったなら消せ!誰にも見えねェんだぞこれ!!」

 ウソップはバンバンと激しい音を立てて見えない壁を叩いた。

「しかし何とも惜しい能力だな。見えねェ障害物を作り出せるなんて、一見神のような技なのに」ゾロが言った。
「こう⋯⋯高速で移動しながら全身で空気を撫でれば壁が出来るんじゃねェか?」

 ウソップがあまりにいい加減な提案をするので、ゾロは呆れ返った。

「じゃあ次は高速で移動できる能力を手に入れねェとな」
「え、そんなにホイホイ能力って手に入るんですか?」
「冗談だよ間に受けるな」ウソップが面倒臭そうにピラピラと手を振った。「二つ目食べたら死んじまうぞ」
「死ぬ!!?」

 聞き捨てならない不穏な単語にり以子は間抜けな声を上げたが、ちょうどトレーを片手にマストをよじ登ってきたサンジの呼びかけにかき消されてしまった。

「おい!!野郎ども!!おれのスペシャルドリンクを飲むか!!?」

 シュワシュワの泡を含んだ鮮やかな色のグラスを見て、り以子の頭から“悪魔の実”のことなど一瞬にして消し飛んだ。

「おおーっ!!」
「クエーッ!!!」
「スペシャルドリンク!!?」

 り以子はルフィ達やカルーと一緒になって盛大に歓声を上げた。

「いいの!?こんなんで!!!」

 ビビが信じられないという表情でナミに言いつけた。ナミは口に咥えたストローをチューチュー言わせながら、気楽に肩をすくめた。

「いいんじゃない?シケでも来たらちゃんと働くわよ。あいつらだって⋯死にたくはないもんね。はい、あんたの」
「それはそうだろうけど⋯⋯なんか⋯気が抜けちゃうわ⋯⋯!!」
「うお!!いけるクチだな、おい。うめェか!?どんどんいけよ!?」

 カルーまでもがルフィ達に混じって夢中でドリンクを啜り、サンジを満足させていた。実際、サンジのスペシャルドリンクは革命級においしい。り以子は一口吸い上げてすぐに目を輝かせた。程よく甘くてすっきり飲みやすく、それでいて突き抜けるような独特な爽快感⋯⋯。

「サンジさんって⋯⋯天才⋯!!!」
「ん〜?嬉しいこと言ってくれるね。姫のお気に召したなら何よりさ」

 サンジは咥えタバコを揺らして得意げにニッと笑った。

「ところで──もう『サンジ君♡』って呼んでくれねェの?」

 り以子はドリンクを逆噴射しかけた。サンジは小首を傾げ、あざとい眼差しをり以子に注いでくる。

「⋯⋯そ、それは⋯おいおい?」
「おいおいかァ〜♡ 二人きりの時限定♡ってヤツ?♡♡」
「ブフッ──」

 り以子は今度こそ盛大に咽せたが、サンジは意に介さず、悪戯っぽくニヤニヤしながら「楽しみだなァ〜♡♡」と器用にハート形の紫煙を上げていた。

 いちいち翻弄されてしまうり以子はきっとサンジの思う壺だ。精神を落ち着けようと咳払いをして姿勢を正したが、ドキドキしっぱなしの心臓を宥める術は分からない。もしかしたら一生慣れないかもしれないとさえ思えた。

「お前、サンジに気に入られてんな〜」
「そ、そうなんですかね⋯⋯?」

 しみじみとしたウソップに何と答えてよいか分からず、り以子は曖昧に首を捻るしかなかった。『気に入られている』といっても、サンジにとってり以子はせいぜい反応が新鮮なおもちゃといったところだろう。

「『そうなんですか?』って、そりゃねェより以子ちゃ〜ん!こんなにアピールしてるのにィ!!!」
「フラれて泣け」
「何か言ったかクソマリモ」

「悩む気も失せるでしょ、こんな船じゃ」

 ナミはニカッと歯を見せて明るく笑いかけた。ビビはちょっと押し黙り、やかましくバカ騒ぎする一味を眩しそうに眺めた。

「⋯ええ。ずいぶん楽⋯⋯」

 海鳥が軽やかに鳴いている。入道雲の浮かぶ青空の下を海風が吹き抜け、手すりに腰掛けたサンジのグラスの中で、溶けかかった氷がカラン⋯と透き通った音を立てた。

「おいみんな見ろよ!イルカだぜ」
「おお」
「わあっ、かわいい⋯」

 波を掻き分けて、まん丸い額のイルカが空中に飛び上がった。水飛沫がキラキラと輝き、波が船を大きく揺さぶる。太陽を背にしたイルカが船全体に影を落とし──そう、船全体を覆い隠すほどの影だ⋯⋯。

「デカイわーっ!!!」

 島と見紛うほどのその巨体に、全員が突っ込んだ。

「逃げろーっ!!」

 ルフィの元気いっぱいの号令が響き渡る。皆が一斉に走り出し、船上は一転し大わらわとなった。

Circle of Life

 あわや転覆の大惨事というドタバタ劇の後、船の前方に島の影が見え始めた。霧を纏った薄ぼんやりとしたシルエットだが、壮大な岩山が立ちはだかっているのは分かる。ナミが片目を瞑り、“記録指針ログポース”の示す先と慎重に照らし合わせているのを、皆が固唾を飲んで見守った。

「間違いない!!サボテン島と引き合ってる私達の次の目的地はあの島よ!!」

「あれかァ〜〜〜〜っ!!!」ルフィが感激に身を乗り出して叫んだ。「“偉大なる航路” 2つ目の島だァ〜〜〜〜っ!!!」

 しかし、純粋にテンションを高めていたのはルフィくらいで、ビビやウソップといった他の面々は引き締まった表情だった。

「──⋯⋯気をつけなきゃ⋯⋯。ミス・オールサンデーの言っていたことが気になるわ」
「か⋯⋯!!か⋯⋯!!怪物でも出るってのか!!?」
「さァわからない」

「そろそろ食糧を補給しねェとな。⋯この前の町じゃ何も貯えてねェし」

 サンジが腕を組んで言った。しかし、島に近づくにつれ、それは難しいことのように感じられた。見渡す限り、鬱蒼としたジャングルだ。得体の知れない鳥の鳴き声や重たげな鈍い羽音が、湿気を含んだ空気の向こうに溶け込んでいる。り以子は似たような雰囲気をどこかで体験したような気がして記憶を漁った──そうだ。テーマパークのジャングルクルーズだ。

「⋯⋯まるで秘境の地だぜ⋯生い茂るジャングルだ」
「ここが“リトルガーデン”⋯⋯!!」
「──そんなかわいらしい名前の土地には見えねェぜ?」
「どの辺がリトルなんだ⋯⋯!?」
「⋯⋯だいたい見てよ!!こんな植物⋯、私図鑑でも見たことないわ」

 ナミが船から身を乗り出した瞬間、近くで「ギャアッギャアッ!!!」と大迫力の鳴き声が上がり、ナミは身を縮めて甲高い悲鳴を上げた。

「何!!?今のっ!!!」
「⋯⋯ナ⋯、ナミさんったらかわいい♡」

 サンジは怯えるナミをデレデレと見守った。

「大丈夫さ、ただの鳥だよ。そしてここはただの密林ジャングル。心配ねェ!!」
「⋯⋯?トカゲか⋯?」

 飛び去る鳥の影を見上げてルフィがポカンと呟いた。り以子は「え?」と鳥を追いかけて首を回したが、視線が目標を捉えることはなかった。

 ドォン!!──重低音が鳴り響き、空気を伝って船をビリビリと震わせた。り以子の体は独りでにビクッと飛び上がり、気づいたらサンジの背後の影にすっぽり収まるまで後退りしていた。

「これが⋯ただのジャングルから聞こえてくる音なの!!?」
「まるで火山でも噴火したような音だぜ、今のはっ!!?」

 皆が口々に恐怖を叫ぶ中、サンジは微動だにせず無言で突っ立っている。思わず盾にしてしまったけれど、怖くないのだろうかとり以子がおずおずと見上げると、たまたまこちらを振り向いたサンジとバチッと視線がぶつかった。

「り以子ちゃん、怖いなら掴まってていいよ♡」
「え──」

「ほら、ここ」と、サンジは後ろ手にり以子の片手を掴み、ジャケットの裾を握らせた。高級そうな生地に皺が寄ってしまいそうで尻込みしたが、この僅かな繋がりだけでも安心感が得られるのは確かだった。

「おおおおおれも怖い!すすすすす裾掴んでいいいいいいか!!?」

 一連のくだりを見ていたウソップがDJのような音を出してたかってきた。

「いいわけねェだろ!!おれの服に皺寄せていいのはレディだけだ!!!」
「う⋯ウソップさん、じゃあ、私のシャツの裾掴んでいいよ⋯⋯」
「──ダメに決まってんだろ!!!」

 り以子が空いている方の手でシャツの裾を引っ張った途端、サンジが引ったくって元の位置に撫でつけた。

「り以子ちゃんダメだからね他の野郎に服なんか脱がせちゃ」
「話変わってない⋯⋯?」

 その時、川岸から獣の唸り声が聞こえ、り以子はギクッと肩を強張らせてサンジの背中にタックルして引っ付いた。相変わらず全く動じないサンジを盾に恐る恐る藪に目を向けると、立派な虎が巨体を揺らしながら現れたところだった。ユラユラと奇妙な足取りをしている。

「虎⋯!!?」

 身構える皆の前で、虎は力尽きたようにその場に倒れ込んでしまった。よく見ると、身体中から溢れるように血を流している⋯⋯。

「普通じゃないわっ!!絶対普通じゃない!!!」ナミが金切り声を上げた。「何で“密林の王者”の虎が血まみれで倒れるの!!?」
「こ⋯この島には上陸しないことに決定っ!!」
「⋯船の上で“記録”がたまるのを静かに待って⋯!!一刻も早くこの島を出ましょ⋯!!は⋯早くアラバスタへ行かなきゃね」

 ウソップもナミも冷静そうな表情を装って尤もらしい意見を述べているが、二人して冷や汗がダラダラ滲み出ているのをり以子は見逃さなかった。そんな中ただ一人、この状況に血を騒がせている男がいた。

「サンジ!!弁当っ!!」
「弁当オっ!?」
「ああ!!『海賊弁当』!!!──冒険のにおいがするっ!!!」

 ルフィは沸き起こる興奮の震えを抑えきれずにいた。今に船を飛び出して行ってしまいそうな様子に、ナミは慌てた。

「ちょ⋯ちょっと待ってよあんた!!!どこいくつもり!?」
「冒険。ししし!!来るか?」

 輝くような笑顔を見て、ナミはこれは止められないと諦念の涙を流した。ルフィはそんな彼女を尻目に、うきうき腕を揺らしながら「サンジ弁当ーっ!!」と激しく急かした。

「わかったよ、ちょっと待ってろ。り以子ちゃんごめんな」
「あ、いえ⋯⋯」

 申し訳なさそうに眉を下げるサンジを、り以子は大丈夫というように小さく手を振って見送った。

「⋯⋯ねェ!!」ビビが意を決して声を上げた。「私も一緒に行っていい!?」

 り以子もナミもギョッとしてビビを振り返った。ルフィは能天気に「おう、来い来い」と笑っているが、正気の沙汰とは思えなかった。

「ビビさん!?危ないですよ!!!」
「そうよあんたまで何言うの!?」
「ええ⋯⋯じっとしてたらいろいろ考えちゃいそうだし。“記録”がたまるまで気晴らしに!!大丈夫よ!!カルーがいるから」

 指名されたカルーは衝撃のあまり顎が外れた。「本人、言葉にならないくらい驚いてるけど⋯」

「じゃあビビちゃんに愛情弁当を」キッチンからサンジがヒョイと顔を出した。
「カルーにドリンクもお願いできる?」

 そうして、あれよあれよという間に、ルフィとビビとカルーはジャングルへ出発してしまった。り以子は勇気があるなと感心して見送っていたが、

「じゃ、おれもヒマだし。散歩してくる」

 と言って、ゾロが気楽そうに首の骨を鳴らして船を降りていくのを見ていると、そっちの方が普通なんじゃないかとさえ思えてきた。

「おいゾロ!!待て待て!!」

 遠ざかるゾロの背中を、サンジが急いで呼び止めた。

「ん?」
「食糧が足りねェんだ。食えそうな獣でもいたら狩ってきてくれ」
「ああわかった」

 おつかいを頼むサンジに、二つ返事のゾロ。り以子は二人の仲が悪そうな場面しか見たことがなかったので、少々意外に思って見守っていたが──。

「お前じゃとうてい仕留められそうにねェヤツを狩ってきてやるよ」
「待てコラァ!!!」

 ゾロの付け足した余計な一言で、案の定のバトルが勃発した。

「あァ!?」
「聞き捨てならねェ⋯!!!てめェがおれよりデケェ獲物を狩って来れるだと⋯!?」
「当然だろ!!」
「狩り勝負だ!!!」

 荒々しくり以子の横を通り過ぎたサンジは、船の手すりを片足で踏みつけ、殺気立った目で眼下のゾロにメンチを切った。

「いいか!!“肉何kg狩れたか勝負”だ」
「何tかの間違いだろ。望むところだ」

 サンジとゾロは荒々しく草木を蹴散らしながら、二手に分かれて密林の奥へと消えた。

「えっ⋯、えー!!?サンジ⋯さん!ちょ、待って──」
「あっ。こらり以子!!」

 ナミが引き止める声を振り切り、り以子は慌てて船を降りてサンジの後を追いかけた。この時、り以子の頭はとにかくサンジの側を離れてはいけないという思い込みでいっぱいだった。もし突っ走る前に少しでも慎重に考える頭があったなら、数分後、り以子は泣きべそをかくほどの後悔などしなくて済んだに違いなかった。

Circle of Life

「うええ〜⋯⋯迷子なったァ⋯⋯」

 り以子は四方を巨大なシダ科の葉に囲まれ、嘲笑うような怪鳥の鳴き声を浴びていた。どこを向いても似たような景色が続くばかりで、もはや右も左も、いやそれどころか前も後ろも分からない。

「サンジさァ〜ん⋯⋯」

 猛獣に出くわしませんようにとビクビクしながら、り以子は弱々しい声で何度も呼びかけた。もちろん、応答はなかった。

 草木の裏で何かが這いずる音が聞こえ、り以子は「ヒッ!?」と息を呑んだ。素早く周囲に目を走らせたものの、音の主は見当たらない。代わりに、あまり直視したくないようなカラフルな節足動物が視界を掠め、震え上がってその場を離れた。

 そんな調子で無謀に歩き回っている内に、り以子は広く開けた場所に出た。大きな湖だ。静かな湖面に、鏡のようにさかさまの空が映り込んでいる。

「ほわ⋯⋯」

 り以子はほとりに佇んで、ぼうっと湖に見惚れた。幻想的な風景だった。まるで鮮やかな原生林の中に空が落ちてきたみたいだ。り以子は恍惚の溜め息を口にした。

「綺麗⋯⋯」

 あまりの美しさに、好奇心が疼く。この水に触れてみたい。きっと冷たくて気持ちいい。入ってみたい。泳いでみたい⋯⋯。

 り以子はいそいそと靴と靴下を脱ぎ、ズボンを膝まで捲って、裸足を沈めてみた。脛が半分浸かるくらいの浅さだ。程よい冷たさが歩き疲れた体に染み渡る。り以子は思い切ってもう少し深いところへ進んだ。この際、全身びしょびしょになって泳ぐのもいいかもしれない⋯⋯。

「え」

 腰から下が完全に水に浸かったところで、り以子の意識はたちまち現実に引き戻された。体からみるみる力が抜け落ちていくのに気づいたからだ。これはまずいやつだ──り以子は本能的に感じ取った。

「あ⋯、やばい⋯⋯、⋯⋯」

 ──能力者は海に嫌われる。

 脳裏に流れ込んできたのは、酒場でサンジから聞かされた言葉だ。『カナヅチ』。サンジはそうとも言っていた。溺れちまうかもしれないから、もう海に飛び込んだりしちゃダメだよ⋯⋯。

 り以子は力を振り絞って後ずさり、這う這うの体で岸に上がった。たったこれだけのことで息が上がり、全身汗だくになっていた。
 海に嫌われた。あれは本当だった。本当に、カナヅチになっている。り以子は絶望で途方に暮れた。たかが見えない手形を宙に浮かべる程度の能力と引き換えに、水に入れなくなってしまった。よりにもよって今は船で旅をしているのに⋯⋯酒場にいた人々の励ましの意味にようやく合点がいった。リスクに見合わない能力⋯⋯『大ハズレの実』だ⋯⋯。

「⋯⋯り以子ちゃん?」

 不意に耳に届いた声に、り以子は弾かれたように顔を上げた。

「──サンジさん」

 その姿はまさに白馬に乗った王子様──ではなく、たんこぶを拵えた可哀想なサーベルタイガーに跨ったチンピラだった。

「え、何がどうなってこう?」

Circle of Life(『ライオンキング』より)