Prologue

プロローグ

 一筋の白銀が閃き、どす黒い飛沫が舞った。鉄のような臭いが充満する暗闇に、荒く弾む息が響いている。
 少女は刀身を鋭く翻して、こびりついた血を弾き飛ばすと、無駄のない所作で鞘に納めた。眼前には、気が遠くなるような死体の道が続いていた。

 この夢は、一体いつ醒めるんだろう。

 計盛り以子がアメリカに来たのは、修学旅行だ。日本の中高一貫女子校に通う高校一年生で、一番仲のいい友達と二人組で、郊外にある大きな白い家にホームステイをしていた。アメリカ観光は夢のように楽しかったが、一週間もすると強烈なホームシックに襲われた。母親の手料理や熱々の湯船、世界一の寝心地のベッドが恋しい。たくさん溜め込んだお土産話を家族に話して聞かせたい……。

 しかし、そんな平凡でささやかな幸福は、二度と手の届かないところへ逃げてしまった。

 『死』が人を食い潰し、街を悪夢のような世界に変えた。逃げ場などどこにもない。終わりのない地獄だ。多くが『死』に捕らえられ、そして食い殺された。命ある者は街を捨て、絶望的な難民生活に身を投じることとなった。

 ホストファミリーはり以子たちを見捨ててどこかに逃げてしまった。電話回線がパンクして誰とも連絡を取れなくなり、藁にもすがる気持ちで先生たちの宿泊先に向かってみたけれど、途中で死者の大群に阻まれ、引き返さざるを得なくなった。

 途方に暮れ、荒れ果てた広大な異国の地を宛てもなく彷徨っているうちに、偶然出会った避難キャンプに入れてもらうことができた。現地の家族が何組か寄り集まって出来たグループだ。ショットガンを持った男性陣が警備をしてくれたので、比較的安全の保障された恵まれた環境だった。
 り以子も友達も拙い英語しか喋ることができずに何度も迷惑をかけてしまったが、皆ちっとも悪い顔をせず、むしろ「心細くて大変だったね」と親身になってくれた。せめてもの恩返しのつもりで、り以子は魚や山菜を採るのを手伝い、ゴーストタウンへ物資調達に行くのにも積極的に参加した。

 通称『ウォーカー』と呼ばれる死人は、生き物を生きたまま食べるという本能のみによって動かされている。音や臭いで獲物を探し当てるらしい。襲ってきたとしても、殴ったり蹴ったりはしてこないで、弱点である頭を突き出して噛みついてくるだけだから、冷静に対処すればそれほど恐ろしいことではない……と、キャンプの男性陣が教えてくれた。それでも、集団で囲まれてしまえば対応しきれないし、少しでも噛まれたり引っかかれたりすれば、燃えるような熱が出て、奴らの仲間になってしまう。油断は禁物だった。

 最悪の状況の中で、なかなかに上手くやれていると思っていた。

 ところが、終わりは唐突に訪れる。夜、友達とテントで眠っていると、つんざくような悲鳴で目が覚めた。慌てて外に飛び出すと、キャンプは阿鼻叫喚の地獄絵図になっていた。ウォーカーの群れの襲来だった。男も女も子供もなく、誰もが無残に食われていく。警備隊が必死に銃で応戦していたが、数が多すぎて圧倒的に不利だった。

「りっり以子、逃げよう!」

 友達がリュックを掴んでり以子に呼びかけた。このキャンプでは、いつ何があってもすぐに移動ができるよう、荷物は広げず一つに纏めておくというルールが決めてあった。

「でもっ……、皆が──」
「手遅れだよ!無事な人は皆逃げてる!ここにいたらうちらも死んじゃう!」

 友達はり以子のリュックを胸に押し付け、無理矢理手を引っ張ってテントを飛び出した。その時、テントの陰から何か黒くて大きなものが飛び出してきたのが見えた──ぐいっと腕が引っ張られて、危うく後ろに倒れ込みそうになる。一体何事かと振り返ると、繋いだ手の先で、友達がウォーカーに生きたまま顔の皮を剥がされていた。

「ダメ!やめてぇ!」

 横からも後ろからも次々にウォーカーが集まってきて、友達の肉に群がった。奴らを追い払ってやりたくても、激痛と恐怖で錯乱した友達がり以子の手を放してくれない。あまりに強い力で握るので、手首が白くなった。

「た、助けて……」

 虫の鳴くような声で、友達が言った。り以子はウォーカーの頭を蹴りながら、何度も何度も名前を呼んだ。

 そのうち、背後に現れたウォーカーにり以子も捕まった。もうおしまいだと思った。絶命した友達の指がり以子の手から離れていく。

 何でこんなことになってしまったんだろう。たかが高校の修学旅行で、どうして死ぬような目に遭わなきゃならないんだ。り以子も友達もまだ十五歳なのに。まだ習いたいこともたくさんあるし、恋だってしていない。夢もへったくれもないうちに、腐乱臭のする汚い世界で死ぬのか。死ぬだけじゃない。その向こうに、命を失うより最悪な結末が待っているなんて──。

 仰向けに倒れこんだり以子の視界に、ウォーカーの顔が逆さまに映り込んだ。骨の砕けた半壊の顔から、どす黒くてねとねとした血が滴り落ちている。それが頬に触れた途端、耐えきれないほどの嫌悪感が背筋を駆け上がっていった。

 ──嫌だ。こんな姿にはなりたくない……!

 り以子は革靴で思い切りウォーカーの顔面を蹴り飛ばした。

 焚き火が燃え広がり、野営地を焼き尽くそうとしている。気づくと、り以子は赤みを孕んだ森の暗闇を、喘ぎながら走り続けていた。

 とうとう一人ぼっちになってしまった。

 この世界に、まだ生きている人はいるのだろうか?まだ生きられる場所はあるんだろうか?どこが安全?どこが出口?何も分からない。

 この悪夢は、一体いつ醒めるんだろう。