Prologue

プロローグ

 アトランタに行くと、大きな難民キャンプがあって、軍に守ってもらえるらしい。

 真偽も分からぬ情報を頼りに、り以子は陰を渡り歩いた。日中は食料を求めてゴーストタウンの店を漁り、辺りが暗くなってくると、乗り捨てられた車やバスで一晩明かした。ウォーカーに出くわしたら迷わず刀で斬った。模造刀ではない、正真正銘の真剣だ。何日か前に山奥で見つけた。持ち主は身体を木の幹に縛りつけ、腹に短刀が突き刺さった状態でウォーカーと化していた。

妻を見殺しにしてまで生き延びた報いを受けた。
じきに転化するだろう。
潔く腹を切る。
介錯をしてくれた者に、この武器を譲ろう。本物の真剣である。

 ゴルフバッグと一緒に置かれた日本語の遺書を読んで、ずっと丸腰だったり以子は、思わず歓声を上げた。急いでバッグを開けてみると、打刀と脇差が寄り添うように眠っていた。

 これ以上ない運命的な出会いだった。り以子は修学旅行前まで居合道部に所属していたから、刀の扱いには多少の覚えがあった。とはいえ、真剣には触れたことさえなかったし、形稽古ばかりで実際にものを斬った経験もなかったので、初めのうちはかなり苦戦した。流石に、命以上のものを懸けて毎日振るい続けていれば、なかなか様にはなってきたが。

 時々、遠くに銃声を聞くことがあった。銃を撃つ知能があるということは生きた人間なのだろうが、利口な人間ではないだろう。銃声は轟き、連中を呼び寄せる。銃声がしたら方向を変えようというのがり以子の旅の鉄則だった。

 り以子の命を脅かす存在はウォーカーだけじゃない。人間もまたそうだった。アメリカ人の男は体格のいいのが多く、り以子の倍くらい太い腕をしている。ただでさえまともに言葉が通じないのに、ガタイのいい大男に真上から見下ろすように睨まれては、やり合う気にすらなれない。

 不用意に人に近づくべからず。男には、特に。

 一人ぼっちになって初めて生きた人間に出くわした時、り以子は学んだのだ。藁にもすがる思いで駆け寄って助けを求めたのに、相手は何やらスラングでまくし立てながら力ずくで荷物を奪おうとしてきた。あまりにも強い力で、抵抗できなかった。その時はタイミングよく現れた死人の集団に紛れて逃げ果せたが、次はどうなるか分からない。一時間は恐怖で震えが治まらなかった。今まで当たり前と思っていた『助け合いの精神』など、もはやこの国にはなかったのだ。

 自分が女だと知られないように、り以子はジャケットの下に黒いパーカーを着込み、そのフードを目深に被って顔を隠した。スカートも脱ぎ、指定ジャージのズボンに履き替えた。ジャージならぶかぶかしていて体の形が分かりにくいから、少年のように見えるだろうと踏んだ。

 人との接触を徹底的に避けながら、ゴーストタウンで物資を調達し、また移動。そんな生活が延々と続き、毎日必死だった。

 もう長い間自分の声を聞いていない。耳にするのは動物の鳴き声や風の音、ウォーカーのおぞましい唸り声ばかり。悪夢に慣れすぎて頭がおかしくなりそうだった。
 り以子は自分をこの世に繋ぎ止めるために、一日の終わりに必ず生徒手帳を開くことにした。カレンダーに書き込まれた過去のイベントや、挟んでおいた友達や家族との写真を見返して、幸せな記憶は偽物じゃないと言い聞かせた。そして、必ずまた皆に会える。絶対無事に日本へ帰って、安全で平穏な暮らしを取り戻すのだと。

***

 その日、道の確認と食料調達のため住宅街に入ったり以子は、あまりの惨状に眩暈がした。きっと多くの人が住んでいたのだろう。そして、多くが死んだ。市民病院の敷地やトラックの荷台に数え切れないほどの死体がズラリと並び、酷い悪臭を放っていた。

 選択を間違えたかもしれない。あまり大きな街は、ウォーカーの巣窟になっているから近づかない方がいい。しかし、今更引き返して他を当たる時間はない。日本からつけてきたピンクゴールドの腕時計は、もう昼過ぎの時刻を指している。

 り以子はいつでも応戦できるよう、腰のものに手を添えて歩いた。ガンベルトを改造した手製の刀帯に、武士のように大小を差してあるのだ。

 病院を離れ、民家の立ち並ぶ道を行く。ところどころにぼんやり佇むウォーカーがいたので、短刀を抜き、こっそり死角から忍び寄って倒しておいた。放置して後々囲まれては敵わない。ちなみにこの短刀は打刀の持ち主が腹に刺していたものだ。小回りが利くので、隠密にウォーカーを始末したい時に便利だった。

 道を一掃しながら安全そうな家を虱潰しに探していると、どこからかガシャンという金属音がした。ウォーカーが物にぶつかって倒したのかもしれない。緊張が走り、思わず身を固くしていると、恐怖に染まった弱々しい悲鳴が聞こえた。り以子はハッとした。人がいる。

 息を押し殺し、家の陰からそっと様子を伺った。道路を挟んだ向こう側の芝生に赤い自転車が転がり、細いタイヤがクルクルと目を回している。その傍らに、男性が尻餅をついていた。ほとんど裸に近い格好で、かろうじて患者服のようなものを引っ掛けている。彼の目線の先にあったのは、ウォーカーだった。二体いる。

 不用意に人に近づくべからず。
 特に、男には。

 り以子は見て見ぬ振りをしようと思った。知らない人だ、助ける義理もないし、こちらの身だって危険に晒される。果たして二体同時に相手をする技量が自分にあるかどうか。それに、助けた男性に荷物を盗られる危険だって考えられる。

 かわいそうだが、捨て置こう。捨て置くはずだったのに──気づくとり以子は男の前に飛び込んで、ウォーカーに刀を抜きつけていた。