ダリルがウイスキーのボトルをドアめがけて力任せに叩きつけた。しかし、頑丈な鉄の扉はダリルの癇癪でも傷一つつかない。
「ドアを開けやがれ!」
ダリルの怒号がゾーン5にわんわん反響している。ジェンナーは無視を貫いた。
「どくんだ!」
非常用の手斧を持ったシェーンが通路を走って勢いをつけ、力の限りドアを殴り始めた。Tドッグが投げて寄越したもう一本の手斧をキャッチし、ダリルもシェーンに倣った。半狂乱になってドアを叩く音、そして男たちの声に、カールもソフィアもすっかり怯えて、母の腕の中で声を上げて泣いていた。
「おとなしくしていた方が楽だ」
ジェンナーは彼らを見て呆れ顔でぼやいた。
「外に出たらどうなる?苦しみながら死ぬことになる──君……君は妹がいたな。名前は?」
「エイミー」アンドレアが短く答えた。
「エイミーの行く末を見ただろ?妻子が同じ目に遭っても?」
詰問の矛先はリックに向いた。リックは強く突っぱねた。「ここで死ぬのはご免だ!」
シェーンとダリルはドアを叩くのを諦めたようだ。息を切らし、くたびれた顔で見つめる鉄のドアは、僅かな浅い傷が少し刻まれた程度でびくともしていない。無理だと肩を落とすシェーンに、ジェンナーは得意げに言った。
「ロケット発射にも耐える」
「なら、お前の頭はどうだ!」
斧を高々と振りかざしたダリルが、り以子の真横を走り抜けて行った。男性陣が慌てて押さえ込んだが、切れたダリルは彼らを振りほどいて向かっていこうとする。
「ダリル!ダリル!」
「やめろ!」
後ろから駆けつけたTドッグの手も借りて、男三人がかりでようやくダリルを突き飛ばした。Tドッグに斧を取り上げられ、ダリルはギラギラ殺気立った目で遠巻きにジェンナーを睨みつけた。
「望み通りでは?」ジェンナーがリックに不思議そうな色の目を向けた。
「愛する人が死ぬのも時間の問題と言ったろ?」
一同の非難めいた目が一斉にリックを捕らえた。リックはうろたえたように皆を見回した。
「……希望は捨ててない」
「希望など一つもない」
ジェンナーは光を失った目で自嘲的に首を振った。何もかもが消滅する。人間が絶滅する時が来たのだと。
「それは違うわ」キャロルが涙を流しながら懇願した。「私たちを外に出して!」
「千分の一秒も痛みを感じずに死ねる」
「娘をこんな風に死なせたくない!」
ジェンナーは理解できないという風に首を振った。
「幸せなことさ!愛する人を胸に抱いてその時を待つんだ」
「……幸せ?」
り以子が唇をわななかせた。
「私たちは死に方を決めるために生きてきたのではありません!」
「だが、それを選択しなくてはならない時を迎えている。全員がだ」
もう何を言っても彼の心は決まっているのだ。この人は、り以子たちと一緒に心中する気だ。最期が孤独でなくてよかったとさえ思っているかもしれない。り以子は自分の左手ががたがたと震えだしたのを感じた。それが怒りによるものか、恐怖によるものかは自分でも分からなかった。
「──どけ!」
後ろから誰かに突き飛ばされて、り以子はデスクの上に倒れた。ハッとして顔を上げると、シェーンがショットガンをジェンナーの顔に突きつけていた。リックが懸命に止めにかかっている。
「シェーン!よせ!」
「邪魔するな──ドアを開けないと頭をブチ抜く。聞こえたか!?」
「いいか、なあ、そんなことをしたら出られなくなる」
リックが懸命に銃を下ろすよう宥めた。シェーンの息は激情に震え、瞳孔が開ききっていた。
「彼が死ねば俺たちも死ぬ!」
それを聞いたシェーンが怒りに吠えた。銃口が火を噴き、次々とコンピュータが爆発した。り以子は悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。リックはショットガンに飛びついてシェーンから奪い取り、銃床で彼を殴り飛ばした。
騒ぎが収まると、皆の荒い息の音と、ごうごうというコンピュータの駆動音だけが残った。絶望と恐怖に染まった皆の顔を一望し、リックはゆっくりとジェンナーを振り返る。
「嘘をつくな。『望みがない』なんて嘘だ。あんたは研究を途中で投げ出さなかった。なぜ厳しい道を選んだ?」
「……放っとけ」
「そうはいかない。話してくれ。仲間が逃げても残ったのは?」
「望んだわけじゃない!約束したからだ」
ジェンナーは言葉を強めて言った。そして、今はひたすら終焉を秒読みしているスクリーンを指差し、「彼女に」と続けた。
「俺の妻だ」
誰もが目を瞠った。『被験者19号』は、ジェンナーの妻だったのだ。
「妻に研究を続けろと言われて断れなかった。妻の代わりに俺が死ぬべきだった。俺と違って妻の死は世界の損失だ。妻がここのリーダーだった」
皆黙ってジェンナーの言葉を聞いていた。ダリルが斧で扉を殴り続ける音が虚しく響いている。
「彼女はこの分野の天才で、俺はジェンナーというただの男だ。妻なら何とかできた。俺は無理だ」
「あんたの奥さんは残念だった。でも俺たちには選択肢がある──生き延びるチャンスがあるんだ」
「出来る限り挑戦しましょう」
リックの説得にローリが言葉を重ねた。
ジェンナーはやがて緩やかに首を振ると、静かに言った。「正面玄関の鍵は解除できない」
そして落胆する皆の前で、制御装置にカードをかざし、暗証番号を入力した。ガチャンと解錠の音が聞こえ、連絡通路を塞いでいた分厚いドアが呆気なく開かれた。
「行くぞ!」
真っ先にダリルが声を張り上げ、皆に向かって手招きした。グレンも慌てて皆を呼ぶ。ローリたちが子供の手をつないで走り出し、ゾーン5を飛び出して行った。
「チャンスをつかめ」と、ジェンナーが穏やかな笑みを湛えて告げた。
「感謝する」リックが手を差し出して言った。
「──恨む日が来る」
怪訝そうな顔をしたリックの手を取ると、ジェンナーは突然体を寄せて何かを耳打ちした。り以子の位置からは、彼がリックに何を言ったのかちっとも分からなかった。
「おい!残り四分だぞ急げ!」
カールの腕を掴んだグレンが声を荒げた。り以子はぐずぐずしているアンドレアの手を取って走り出そうとした。ところが、アンドレアは乱暴にり以子の手を振り払った。ぎょっとして振り返ると、彼女は涙に濡れた美しい目で突き放すようにり以子を見つめていた。
「どうして……?」
「私は残るわ」
先にそれを口にしたのは、アンドレアではなくジャッキーだった。Tドッグが目を剥いた。
「正気か!」
「ここに来てやっと正直になれた。ジムやエイミーのような終わり方をしたくない」
皆が愕然としてジャッキーを見つめた。錯乱している様子ではない。きらきら光る黒い目は、固い決意の色を見せていた。
「話し合ってる時間はないわ。私は残る──さあ、早く行って。行って!」
ジャッキーに突き飛ばされたTドッグの腕を、シェーンが掴んで無理矢理連れ出した。デールが考え直すように詰め寄るが、ジャッキーは涙をこらえて影の中へ逃げてしまう。デールは助け舟を求めるようにアンドレアに目をやった。しかし、
「……私も残るわ」
「アンドレア、よせ!」
アンドレアはデスクに背を預けて座り込んだ。り以子は信じられない思いでいっぱいになった。
あんなに必死な思いで生きてきたのに。ウォーカーだらけのアトランタから逃げ延びた仲間じゃないか。生き延びるために一緒に足掻いた。どうしてそんなことを言うんだろう?どうして──。
「お願い、行きましょう!一緒に外へ……お願い……」
二人は答えない。早くしないと、時間がない──焦って時計を見上げるり以子を、デールはリックたちの方へ突き飛ばした。
「さっさと行け!行け!」
「嫌──」
「二人は俺が何とかする!行くんだ!」
り以子は迷って立ちすくんだが、カールの切羽詰まった甲高い声に名前を呼ばれると、無視が出来なかった。デールに望みを懸け、後ろ髪を引かれる思いでリックたちに続いて駆け出した。
全員分の荷物を抱えた女性陣と合流し、エントランスホールに駆けつけると、ダリルとシェーンが強化ガラスで出来た窓を手斧で叩き割ろうと奮闘しているところだった。Tドッグが制御装置をいじっているけれど、光を失ったそれはもはやうんともすんとも言わないガラクタだ。
「ダリル、どいてくれ!」
Tドッグが椅子を抱えて飛びつき、狂ったように声を上げながらガラスに叩きつけた。駄目だった。そんなことで割れるようなら、そもそもここまで無事でいたはずがない。
「ドッグ!下りろ下りろ!」
シェーンがショットガンを構え、窓に向かって撃った。
「……ダメか」
「割れないの?」ソフィアが不安げな声を上げた。
何か、壊すもの──り以子は咄嗟に周囲を見渡した。強いもの。武器のようなもの。窓ガラスが割れるもの。吹き飛ばすもの……。
「リックさん!あれ!」
「何だ!?」
り以子は手で小さな丸を作ってどうにか伝えようとしたが、焦るリックには通じない。だが、キャロルは気がついたようだった。
「リック、これならどう?」
リュックを漁るキャロルに、シェーンは苛ついた口調で「爪やすりは無理だ」と皮肉ったが、彼女が震える手で取り出したのはり以子の思い描いていた通りのものだった。
「キャンプで初めてあなたの制服を洗った時、ポケットからこれが」
──手榴弾だ。
リックはそれを受け取ると、皆に「下がれ!」と叫んだ。ダリルがり以子の襟首を掴んで角の壁の裏に押し込み、自分もそこに身を隠した。「伏せろ!」──リックの声と同時に体の奥底を震わせるような低音が響き、一瞬視界がピカッと真っ白に塗り潰された。
「行くぞ!早くしろ!」
腕を強く引かれて立ち上がると、窓が一枚砕け散って、外の世界に繋がっていた。明るい太陽の光が差す、地獄だ。リック、シェーンに続き、ダリルにぐいぐい引きずられてそこへ飛び出すと、吐き気のする腐乱臭がむっと鼻をついた。正面からウォーカーが数匹、獲物に向かって嬉々として駆けてくる。
シェーンがショットガンで一体撃ち抜いた。リックの拳銃が唸り、もう一体が崩れ落ちる。別のウォーカーが目前まで迫って来ていて、ダリルはり以子の手を突き放し、斧で首を跳ねた。男性陣の作った道を全力で走り、生垣を飛び越え、道路に出た。ダリルが振り返りざまに手を伸ばしてり以子の腕を取り、ほとんど強引に車の中へ投げ飛ばした。その時、割れた窓からデールとアンドレアが這い出して来るのが見えた気がした。
「デール、伏せて!」
キャンピングカーの窓からローリが叫んでいる。急かすようにクラクションが何度も鳴った。地を這うような音が聞こえ始め、恐怖に心臓がざわついた。
来る。
運転席からダリルがり以子を引き倒し、膝の上に抱え込んで、ぐっと体重をかけてのし掛かった。り以子はダリルのジーンズに顔を押しつけ、必死にしがみついた。
世界が爆ぜた。爆風と熱風が押し寄せ、車がガタガタ揺れた。激しい炎が死体を焼き、ウォーカーを食い潰し、戦車を巻き込んで膨れ上がった。多分、り以子は声の限りに悲鳴を上げたし、ダリルも歯を食いしばって唸っていたが、あまりの爆音で何も聞こえなかった。
やがて衝撃が収まり、ダリルがゆっくりと体を起こした。覆い被さるものがなくなり、り以子も起き上がった。恐る恐る窓から外を覗くと、施設は跡形もなく崩壊し、黒々とした煙を空に放っていた。何とか逃げ切れた──皆、生きている。り以子はへなへなと脱力して背もたれに寄りかかった。ダリルが安堵に細く息を吐き、荷台を振り返ってバイクの無事を確かめていた。
デールとアンドレアがグレンに急かされてキャンピングカーに駆け込んでいる。ジャッキーの姿はそこにはなかった。彼女は最期を共にする相手に、ジェンナーを選んだのだ。
一度に色々なことが起きすぎて、頭の中がごちゃごちゃだ。情報の整理が追いつかないし、感情は処理しきれていないけれど、とにかく体はくたくただった。肩で息をしながら運転席を見ると、ダリルもちょうどり以子に視線を寄越したところで、ばちっと目が合った。り以子が力なく笑ったのを見て、ダリルは溜め息と一緒にハンドルに崩れ落ちた。
燃え上がる希望の残骸を後にして、一行はフォートベニング基地への道を行く。今日よりもましな明日になると信じて。