ここへ来たのは卵が目的じゃない──デールとアンドレアが本題の質問をぶつけると、朝食の後、ジェンナーは浮かない表情で皆をゾーン5へ連れて行った。
「TS19を再生しろ」
バイの返答と共に照明が少し暗くなり、正面のスクリーンにコンピュータの画面が映し出された。
「これを目に出来る人はごく少数だ」
人間の頭部をスキャンしたらしい映像に、皆の目が釘付けになった。カールが「あれは脳?」と訊ねると、ジェンナーは「特別な」と付け加えた。ジェンナーがバイに指示を出し、3D映像が脳の内部にズームした。東京の地下鉄よりもうんと複雑に入り組んだ組織を、夥しい数の小さな光がひっきりなしに行き交っている。
「この光は?」
シェーンが質問した。ダリルがコンピュータの上に手をついて訳が分からないという顔をしている隣で、り以子は興味津々に映像を凝視した。とっくに枯れたと思っていた修学旅行気分がまだ生きていて、社会科見学みたいだと思った。
「人の命だ」と、ジェンナーが言った。「経験や記憶の全てさ。脳に張り巡らされたこの光のさざ波こそが君なんだ。人間を世界に一人の存在にするものだ」
「意味が分からない」
ダリルが腕を組んで混乱した表情を見せると、ジェンナーは「シナプスだよ」と言い換えた。
「体に電気信号を伝達するんだ。人が生まれてから死ぬまでの言動や思考の全てを決定する」
「死ぬまでずっと記録したのか?」リックが訊いた。
「そうだ──死ぬまでの映像の再生だ」
「亡くなったのね。誰なの?」
アンドレアが悲しげに光を見つめていた。
「被験者19号だ──ウォーカーに噛まれて感染した後、変異記録の被験者になると申し出てくれた。バイ、第一段階の映像を」
映像が切り替わり、被験者を真横から記録したスキャンデータが映し出された。青白く光り続ける脳の中心を、黒ずんだ禍々しい何かが蝕んでいく。
「これは一体?」グレンが声を上げた。
「髄膜炎のように侵されてる。副腎が傷ついて、脳と主用組織が侵されていく」
スクリーンの中で、被験者が苦しみに喘ぎ出したのが分かった。難しいことはちっとも分からないが、誰もが自分の記憶の中の誰かと照らし合わせて感覚的に理解していた。やがて黒いものは脳全体に広がっていき、光を急激に弱らせた。そして、まるで部屋の電気を消したみたいに、脳がふっと暗くなった。
全信号休止
被験者死亡
「──そして死ぬ」
ジェンナーが力なく目を伏せた。
「過去の思い出も、未来も、消え去る」
これが、エイミーに起こったことなのだ。もしかしたら、ジム、……蓮水にも。り以子は気分が急降下していくのを感じた。
アンドレアが堪え切れなくなり、微かにすすり泣いた。それに気づいたジェンナーにローリが訳を話すと、彼は彼自身も大切な人を失ったと明かした。こんな世界だ、みんなが誰かを失っている。
「──第二段階の映像を」
ジェンナーが切り替えるように声を張った。バイが応答し、スクリーンがまた切り替わった。
「時間差はあるが、最短三分でウォーカーに変わる。最長記録は八時間。この被験者は、……二時間一分七秒で変異した」
黒ずんだ脳の奥の方から、赤くざわめく光の塊が生まれた。それは中心部に棲みついているように見えた。時折、不規則に光の点を飛ばしている。
「脳が活動を?」ローリが信じられないという顔をした。
「いや、脳幹だけだ」とジェンナーが言い正す。「人の反射中枢が存在する」
「でも死人だろ?──前とは別物だ。脳の大半が暗い」
リックが確かめるように訊くと、ジェンナーはすぐには答えず続きを見るよう促した。脳の中心で蠢いている赤い塊は、発生した時のそのままの大きさを保ち、それ以上広がることもない。
「暗い部分は死んでいる。前頭葉など人間らしさを司る器官だ。本能しか残っていない、非情な抜け殻だ」
被験者がゆっくりと動き出した。歯を鳴らし、体を意味もなく左右に揺さぶっている。ところが、突然画面の上に何かが現れ、激しい光が被験者の頭部を貫いた。赤い塊が消え、被験者はぴたりとも動かなくなる。銃で撃ち抜かれたのだろう。プレゼンテーションはそこで終了した。スクリーンが消え、照明が元の明るさを取り戻した。
「原因は分からないの?」アンドレアが訊ねた。
「微生物か、ウイルスか、寄生虫か、菌かもしれない」
「神の怒りかも?」
ジャッキーの痛烈な皮肉にも、ジェンナーは沈んだ表情で「あり得る」と返した。
つまり、分からないのだ。何が起きて、人をどんな風に変えてしまうのか、それだけで、原因も、対処法もここにはない。
「なぜ知らないんだ?」
焦燥を募らせたリックたちが質問攻めにするけれど、ジェンナーは言葉を濁し続けた。
「システムがダウンして通信できず、約一ヶ月、一人で暗闇にいた」
「……他の施設など、一つも残ってないのね。一つも。そうなんでしょ?」
鋭いアンドレアの視線に、ジェンナーは追い詰められた。とても答えられないと首を振った彼に、リックは項垂れ、アンドレアは呆れたように溜め息を吐いた。
「クソ、また酔っ払ってやる」
ダリルが頭を抱えて呻いた。
「ジェンナー博士、君の苦労を知って気が引けるが、もう一つ質問がある」
デールが部屋の壁に掲げられた赤いデジタル時計のようなものを指差した。
「あの時計はカウントダウンしてる──ゼロになったら何が起きる?」
「それは……」ジェンナーは口ごもった。「発電機の燃料が切れる」
何てことはないという顔で言い放ったジェンナーに、リックが愕然とした。「それで?」
ジェンナーは無言で歩き去って行った。これ以上質問に答える気はないらしかった。痺れを切らしたリックは空に向かって話しかけた。バイに何が起こるか訊いたのだ。冷たいアナウンスの声が響き、皆が押し黙った。
『──燃料が切れた場合、施設ごと汚染除去します』
リックとシェーン、グレン、Tドッグが施設に残っている燃料を確認しに行くといい、皆は一旦部屋に返された。バイの言った『汚染除去』という言葉の意味は分からないけれど、何だかものすごく嫌な予感がした。
部屋に戻るや否や、ダリルは本当にやけ酒を呷った。酒を飲んでも問題は解決しないのに、どうして大人は皆こうなんだろう。ソファに沈み、無言でグビグビとアルコールを流し込んでいる男の傍らで、り以子はリュックの口を閉めたり、刀帯を腰に巻いたりして、準備を整えていた。
そこでふと、空気の流れが変わった気がして、り以子は顔を上げた。
立ち上がって、天井に嵌め込まれた空調の吹き出し口に手をかざす。その様子を見ていたダリルが、口の中の酒を嚥下してから訝しげに声をかけてきた。
「一体何してる?」
「……空調」
ダリルは目を細め、り以子の真後ろに寄って来て同じように吹き出し口に手を伸ばした。
「死んでるな」
そう言った次の瞬間、室内照明が落ちた。びっくりしたり以子の甲高い声が部屋の壁に跳ね返る。異変が起きたのはこの部屋だけではなかったようで、次第に廊下がざわつき始めた。
「空調が止まったわ」
「部屋の電気もよ」
「一体どういうことだ?何もかも落ちた」
ダリルがドアから顔を出すと、ジェンナーがダリルのぶらつかせていた手からウイスキーのボトルを掻っ攫って通り過ぎて行った。
「優先順位がある」
「空調も電気も必要だ」
デールが抗議したが、ジェンナーは酒を一口含んで軽くあしらった。「ゾーン5が自動停止した」
「おい、一体どういう意味だ?」
廊下の照明も次々に落ち、必要最低限の非常灯が残った。足早にゾーン5に向かうジェンナーをダリルが追いかける。り以子たちもそれに続いた。
「おい、あんたに聞いてんだよ。『自動停止』って何だよ。建物が勝手に?」
「驚くぞ」
まさに取りつく島もない。
階下からリックたちが駆けつけてきた。息を切らし、険しい顔でジェンナーにどういうことだと詰め寄っている。施設に残されていた燃料は雀の涙ほどもなかったのだろう。事態は思っていたよりもずっと深刻だったようだ。
「システムが不要な電源を落とした。コンピュータの稼働が最優先だ。残り三十分──予定通りだ」
ジェンナーが酒を呷る。り以子は心臓が早鐘を打っていた。
ジェンナーがボトルを突き返すと、ダリルはジェンナーの目を睨みつけながらもぎ取るように奪い返した。ボトルの中身が飛び散って、床にビシャっとかかる音がした。
「……フランスと同じだ。フランスの研究者は、ここの研究者が自殺を図る中、最後まで粘って答えを出そうとした」
「フランスで何が?」と、ジャッキー。
「今と同じことさ」ジェンナーは落ち着き払っている。「電力が絶たれ、燃料も切れた。化石燃料に頼るなんて実に馬鹿げてる」
皆がぽかんと佇む中、シェーンがジェンナーに詰め寄ろうとしてリックに止められた。リックはローリたちに向かって急いで言った。
「ローリ、り以子、荷物をまとめろ。脱出するぞ──今すぐだ!」
言われるがままに部屋へ引き返そうとした時、けたたましいブザーが鳴り響き、真っ赤な警告ランプが光り出した。驚いて思わず足を止める皆の前で、スクリーンがパッとつき、最後のカウントダウンを始めた。
『汚染除去まで三十分です』
「な、何?」
り以子はパニック気味に声を荒げたが、ダリルは辺りをキョロキョロしながら「知るかよ」と吐き捨てた。
「皆、荷物をまとめて逃げるぞ!さあ急げ!」
「急げ!来い!」
リックに怒鳴りつけられ、Tドッグが慌てて皆を誘導し始めた。すかさずジェンナーが身分カードを取り出して手元の制御装置に押し付け、素早く暗証番号を入力した。すると、ガコンと重たい鉄の音を立てて、皆の目の前にあった通路が閉ざされた。ゾーン5から外へつながる、唯一の連絡口だ。
「そんな……」グレンが扉を見上げて唖然とした。「閉じたのか?──閉じ込められた!」
恐怖がゾーン5に満ち溢れた。青ざめ、怯え、慌てふためく皆をよそに、ジェンナーは静かに席について何かを待ち構えている。
「このクソ野郎!」
状況をようやく理解したダリルが、激しく罵りながら段差を駆け上がり、ジェンナーに掴みかかった。すぐに危機を察知したリックが「シェーン!」と呼びつける。
「ここから出せ!」
「やめるんだ!」
「嘘つきやがって──」
「よせ!おとなしくしろ!」
シェーンとTドッグが二人がかりでダリルを押さえ込んだ。ジェンナーは悠長にも乱れた白衣の襟を正している。リックは息を落ち着けて冷静を努め、静かにジェンナーに詰め寄った。
「おいジェンナー、今すぐドアを開けろ」
「無理だ、非常口も封鎖されてる」
「じゃあさっさとそれを開けやがれ!」
ダリルが横から噛みついた。しかしジェンナーは頑なに拒んだ。
「俺は制御できない。言ったはずだ!『入り口のドアは二度と開かない』。君は聞いていたはずだ」
リックは動揺して目を泳がせていた。万全のセキュリティに安堵して聞き流した言葉がこんな恐ろしいことを意味していたとは、あの時は到底考えもしなかったのだ。
「一体……二十八分後に何が起きるんだ?」
ジェンナーは答えるのを拒否し、またコンピュータにかじりついた。堪えかねたリックとシェーンが力尽くで答えを強要する。と、ジェンナーはついに声を荒げて立ち上がった。
「ここをどこだと思ってる!?俺たちは人々を悲惨な状況から守ってきた!天然痘の生物兵器に──エボラ熱の蔓延も防いだ!人々を感染から守ってきたんだ!ずっとな!」
誰も二の句を継げられなかった。凍りつく一同の視線をその身に受けながら、ジェンナーは静かに椅子に座り直した。
「……例えばテロ攻撃などで致命的な停電が発生した場合、『HIT』を展開して、あらゆる有機体を除去する」
「『HIT』?」
ジェンナーは回答を渋り、バイに説明を託した。「バイ、説明を」
『HITとは熱圧力を放つ燃料気化爆弾です。二段階に渡って核爆弾に匹敵するほどの激しい爆発を引き起こします。真空圧力により5000〜6000度の炎が発生、有機体とシステムに大きなダメージを与えます……』
キャロルがソフィアを抱いて泣き崩れ、リックとローリが茫然と抱き合った。Tドッグやデールは頭を抱えている。り以子は訳が分からなくて、すがりつくようにダリルを見上げた。ダリルは目を逸らした。
「──大爆発が起きる」
ジェンナーがゆっくりと言った。
「痛みはない……悲しみや苦しみも……後悔も」
すべて吹き飛ぶ。