What Lies Ahead

長い旅路の始まり

 命からがらCDCを脱出した一行の目下の悩みは、深刻なガソリン不足だった。かねてからシェーン・ウォルシュが提言していたフォートベニング基地への道は、125マイル以上もかかる長旅だった。125マイルとはおよそ200キロらしい。ガソリンスタンドを見つけては給油をしたが、スタンドに残っていたガソリンはほんの僅かな量しかなく、一行は苦渋の決断で車を三台手放した。キャロルとソフィア・ペルティエの車には引き続きグライムズ一家が、Tドッグとアンドレア・ハリソン、そしてシェーンはデール・ホーヴァスのキャンピングカーに乗り込んだ。ダリル・ディクソンは荷台に積んでいたチョッパーハンドルのバイクを下ろし、皆を先導する役割を買って出た。

 キャンピングカーの給油を終え、皆の準備が整うまでを、ダリルがバイクをふかして待っている。キャロルとソフィアから敬遠の目を向けられていたが、物ともせずに跳ね返した。

 くたびれたワイシャツにスカート姿の計盛り以子は、休憩中の見張りをしていたシェーンが、妻と子供を伴って車に乗り込むリック・グライムズをじっと眺めているのに気づいた。まるでおもちゃを取り上げられた子供のような目をしている。シェーンはリックの親友だと聞いているが、彼とローリの間に何かしらの確執があることは、CDCで見かけた一件から何となく感じ取れた。

 ダリルがやって来て、素っ気なく顎をしゃくった。り以子は溜め息を漏らし、渋々ダリルの後ろに跨った。車が二台に減って、り以子の居場所はダリルのバイクだった。車の定員の都合上、誰か一人はダリルと一緒にならざるを得なかったのだ。り以子は荷物がたくさんあるからと理由をつけてごねたが、するとり以子のリュックだけがキャンピングカーにお邪魔するという結末になった。

 ダリルのバイクは物凄い爆音だし、かなりのスピードですっ飛ばすので、嫌でも彼の背中にしがみつかなければならなかった。気持ちよさそうにしているダリルの気が知れない。り以子は翼が縫いつけられた革のベストに体を押しつけ、向かい風と揺れに耐えた。

 しばらくの我慢の後、不意にバイクが速度を落とし始めた。り以子が顔を上げると、これまで何もなかったハイウェイに大量の廃車の行列が現れた。

「クソ……」

 ダリルが小さくぼやくのを聞きながら、車と車の間を縫って進む。そこは車の墓場だった。恐らく逃げ惑う人々の車で渋滞が発生し、惨たらしい何かが起きたのだ。強行突破しようとして中央分離帯に乗り上げたものや、横転したもの、他の車に追突したものがごろごろ放置され、ほとんどがドアを開け放ったまま空になっていた。

 ダリルはUターンして、キャンピングカーの運転席側にバイクをつけた。車はここを通れないので、どうするのか指示を仰ぐつもりだろう。

「先導してくれ」

 デールが困り果てた顔で頼んだ。助手席でグレン・リーが大きな地図を覗き込んでうんうん唸っている。ダリルは一度渋滞を振り返り、少し考え込むような目をした後、デールに向かってついて来るよう小さく頭を動かした。

 むっと鼻をつく悪臭に顔をしかめながら、なるべく開けたところを進んだ。ほとんどの車が空っぽだが、中には死体が残ったままのものもある。通り過ぎた車の窓から干からびた死体と目が合い、背筋がぞくっとした。

 突如、真後ろで何かが破裂して、り以子は思わず叫んだ。デールのキャンピングカーがついにを上げたのだ。白い蒸気が噴き出している。

「お前の声に驚く」

 ダリルがバイクを降りながらうんざりした顔で何か言った。

「やっぱりな。ほら。まいったね」

 デールたちと後続車の皆もぞろぞろと道路へ降りて来た。シェーンが「問題か?」と訊くと、デールはもくもくと上がる蒸気の前で途方に暮れて手を広げた。

「辺鄙な場所で車が故障し、希望もなく──」

 ダリルが開きっぱなしの廃車のトランクに手を突っ込んでいるのを見て、デールがハッと口をつぐんだ。見渡す限り、物資の宝庫だ。

「オーケー、今のは撤回だ」
「……いろいろ揃ってる」ダリルが物資を手にとってしげしげ観察しながら呟いた。
「ガソリンを頂こう」と、Tドッグ。

 それに、きっと水や食べ物もある。

 皆で廃車を一台一台覗き、有用なものがあれば拝借した。服、日用品、非常食、工具……およそ何でもある。グレンはデールを手伝いながら、修理の仕方を習っていた。ダリルとTドッグはポリタンクを持って蜜蜂のように車から車へ渡り歩いた。ダリルがバールで給油口をこじ開けて、Tドッグがホースを挿してガソリンを抜き取っていく作業だ。

「おい」

 り以子が乗用車のトランクを開けようとしていると、ダリルが通りすがりに声をかけてきた。

「目の届く範囲にいろ」

 二本指で自分の目を指し、「いいな?」と続ける。遠くに行くなという意味だろうと察して、とりあえず頷いておいた。一連のやりとりを見ていたTドッグが、不思議そうに眉を寄せている。

「えらく気にかけてるな」
「何かあったら後で保安官が面倒だ」

 何かコソコソ言われてるとは思いつつも、どうせよく分からないので聞こえないふりをした。

 どこかに蝉の鳴く声を聞きながら、トランクの中を漁った。食べ物や衣服類は持ち出された後で、期待していたほどろくなものは残っていない。

 しょうがないので後ろの車のドアを開けると、中で死んでいた車の持ち主がり以子に向かって倒れ込んできた。びっくりしてつい悲鳴を上げてしまい、三台先から顔を覗かせたダリルにうるさいと怒られた。気を取り直して車内を物色し、非常用の缶詰を何個か見つけた。ペンライトと乾電池もあった。り以子はそれら全部をリュックに詰めた。

 最初にそれに気がついたのは、高台で見張りに立っていたデールだった。彼が確かめるように双眼鏡を構えたのを見て、リックもライフルのスコープを覗いた。何十メートルか先に、車と車の間をふらふら歩くウォーカーの姿があった。それも、一体や二体だけではない。夥しい数のウォーカーが、大群を作って向かって来ていた。

 リュックに物資を押し込んでいたり以子は、密やかに忍び寄ったダリルに突然背後から口を押さえて抱え上げられ、驚いて抵抗した。「動くな!じっとしてろ!」──耳元に鋭い囁き声が叩きつけられ、訳も分からないまま体の力を抜くと、ダリルはり以子を抱えたまま車の下に潜り込み、上にぐっと覆い被さってきた。

「ウォーカーだ」

 ハッと息を呑む。ぞろぞろと足を引きずる音が徐々に接近しているのが分かり、り以子の呼吸が恐怖で荒くなった。ダリルは「しーっ」と囁きながらり以子の後頭部に手を添えて、自分の肩口に押し付けた。り以子の震える息の音がダリルの服に吸い込まれていく。ほどなくして、二人の前を誰かの足が慌てて走り抜けて行った。顔までは見えなかったが、Tドッグだろうと思った。通り過ぎた路面に赤い血痕が滴っている。流血している──。

 その後ろを、ウォーカーが一体通り過ぎて行った。新鮮な血の臭いを嗅ぎつけたのだ。すると、ダリルが地面に手を突いてり以子の上から降りた。どうする気だと目で問い詰めると、ダリルは口の前に人差し指を立て、その手でここにいるよう指示をしてから、音もなく車の下を抜け出して行ってしまった。一人取り残され、急に心細くて恐ろしくなったが、すぐに左右の隙間からウォーカーの脚が見え始め、じっと留まるしかなかった。手で鼻と口を押さえ、息も声も漏れないよう必死で堪えた。

 腰を抜かし、追い詰められたTドッグに、一体のウォーカーが迫っている。ダリルは物陰から顔を出して機を伺うと、ボンネットの上にクロスボウを置いて背後から忍び寄り、頭を掴んで首の付け根に素早くドライバーを差し込んだ。勝負は一瞬だった。ダリルは死体をその場に引き倒してドライバーを抜き取り、鋭い双眸をTドッグへ向ける。彼は激痛を呑み込むのに精一杯の様子だった。

 しーっと唇に人差し指を当てて合図すると、Tドッグの両足を掴んで引きずり倒し、その体の上にウォーカーの死体を被せた。自らも手近な車で干からびていた死体を被って地面に横たわり、息を殺して行列がやって来るのを待った。

 り以子のほんの数十センチ先を、呻き声や喘ぎ声を上げながら、足を引きずるようにしてウォーカーが行進している。ほんの僅かでも物音を立てれば最後だ。緊張で心臓が暴れ、その鼓動の音を聞きつけられてしまうのではと恐怖した。過ぎ行く一秒が一分にも一時間にも感じられた。

 やがて、通り過ぎる脚が見えなくなり、何の音もしなくなった。辺りを警戒しながら外へ這い出すと、少し先で何かが跳ねた。瞬間的にドキッとしたが、ダリルが自分の上に被せていた死体を投げてどかしただけだった。

 ダリルが横に転がっていた別の死体を突き飛ばすと、血みどろのTドッグが現れた。白かったはずのシャツの半分以上が真っ赤に染まっている。り以子はぎょっとして、急いで駆け寄った。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 ダリルがTドッグのシャツの肩を掴んで無理矢理起き上がらせた。腰にぶら下げていた赤いバンダナを手渡しているが、それで何とかなるとは思えないほどの怪我だった。咬み傷ではないので、最悪の事態にはならなさそうだ。廃車から突き出していた鋭利な何かで裂いてしまったのだろう。腕に深く刻まれた赤い線から、ピューピューと血が噴き出している。

「ああ、ヤバい……ヤバい……」

 と、日本語で呟きながら、り以子もポケットからハンカチを引っぱり出した。激痛に喘ぐTドッグの傷口にハンカチを当てて圧迫し、腕を取って彼の心臓より高く持ち上げる。それを見て意図を理解したダリルがTドッグの腕をその位置にキープさせた。

「あ、あとは!? ど、ど、ど、どうしたら……?」
「誰でもいいから男を一人呼んで来い。移動させる」
「え?え?……えっ?」

 口早に告げられた指示にり以子が戸惑うと、ダリルは溜め息をついて、一句一句区切るように言い直した。

「男を──ひとり──呼んで来い!誰でもいい!行け!」
「あっ、はい!」

 り以子は慌てて頷き、Tドッグを任せて皆のところへ走った。

 すぐに車の下から飛び出して来たばかりの皆を見つけたが、そちらもただならぬ様子だった。キャロルが道路脇の森に向かってむせび泣いているのを、ローリが懸命に宥めている。

「娘がウォーカー二体に追いかけられてる!」

 り以子は愕然として森を見つめた。