Beside the Dying Fire

壊れゆく人格

 焚き火に当たって温まる人々を、り以子が遠巻きに眺めている。ダリルは腕いっぱいに薪を持ち、離れた場所から彼女の様子を見守った。

 故郷のことを嬉しそうに話していたり以子の表情をまだ覚えている。その弾んだ声の調子も、遠い我が家に思いを馳せ、涙をこらえて眉間に寄せていた小さなしわも、今でもはっきり思い出すことが出来るほど、ダリルの印象に鮮明に残っていた。

 ダリルや他の人々だって、家族や友人、生まれ育った町を失っているのだから、り以子を特別哀れだと思える精神的な余裕はない。彼女自身もそれを分かっているから、決して涙を見せまいとしているのだろう。だが、いたずらに希望を持たされ、そして落とされた。今の彼女の苦しみは、きっとこの場の誰にも計り知れない。

 ダリルはキャロルの隣に腰を下ろし、枝を折って火に焚べた。酷く居心地の悪い沈黙で、焚き火のパチパチと爆ぜる音がやかましく感じるほどだった。

「……あの人といるのは危険だわ」

 矢庭にキャロルが囁きかけた。怯えた表情がオレンジ色に浮かび上がっている。誰のことを言っているのか、ダリルには聞かなくても分かった。リックのことだ。

「私たちにあんな風に隠し事をしてるなんて……どうしてあなたは彼につくの?あの人、あなたを裏切るわ」
「いや。リックはそんなことしない」

 キャロルはキッとダリルを睨みつけた。

「あなたは彼の忠実な部下、そして私はお荷物。あなたの方がマシね」
「……何が望みだ?」

 ダリルはこんな風に卑屈なキャロルを見ていたくなかった。

「誠実な人間よ」
「リックは誠実だ」

 それだけ言って、ダリルは一方的に会話を打ち切った。陰口を叩いたって、何の役にも立たない。

 薪を全部焚き火に放り込んで、り以子の方を振り返ると、彼女は額を押さえて小さく呻いていた。頭痛がするらしい。ローリが沢で濡らしてきたタオルを手渡し、頭を冷やすよう言った。

「ありがとうございます……」
「……いいのよ」

 ローリはどこか決まり悪そうな顔をしていた。

 ダリルは腰を上げ、り以子の傍に移動した。り以子は濡れタオルで頭を冷やしながら、瞼を重たそうに押し上げて、ダリルを見上げた。ハイウェイで再会した時よりも顔色が悪くなっている。疲弊した体に精神的なダメージが重なり、限界を迎えているのだろうと思った。

「痛むか?」
「少し……気持ち悪い、くて……」

 いつも以上にたどたどしく話すり以子を、ダリルは可哀想に思った。遠慮がちに肩に触れ、伸ばしていた背筋の力を抜くよう促しながら、石の壁に寄りかからせた。

「気を張って疲れてる。休め」
「うーん……でも……えーっと……」

 り以子は何か伝えようとして、けれども英語が出て来ず、緩慢な動作で言葉を探すような手の仕草をした。ダリルは根気強く待ったが、り以子がしゃべり出すよりも先に、遠くでカサッと小枝を踏む音がして、人々がざわめき出した。

「今の何?」
「何でもありさ」

 ダリルは立ち上がって、クロスボウのショルダーベルトを脱ぎながら、面倒臭そうに言った。

「アライグマか、フクロネズミか……」
「ウォーカー?」

 グレンの余計な一言が、キャロルたちの不安を煽った。皆が立ち上がり、口々に騒ぎ立て始めた。

「移動よ。何を待ってるっていうの?」「どっちだ?」「あっちの方からよ」「私たちが来た方?」「ええ……」

「暗闇の中逃げるのは無理だ」

 リックが苛立ちに顔を歪めて唸った。

「俺たちには車がない。歩いて移動はできないだろ」
「落ち着け」

 ハーシェルが静かに言い聞かせても、マギーは全然納得がいっていない様子だった。

「私……ここに座り込んで別の群れが襲ってくるのを待ってるなんて嫌。移動しましょう。今すぐ」
「誰もどこへも行かない!」
「何とかして!」キャロルが言った。
「してるだろ!」

 いつものリックからは想像もつかない高圧的な態度に、キャロルは絶句した。

「グループをまとめてる、命を守ってる!今までだってそうしてきた──何が起ころうと。皆のため親友だって殺したんだぞ!冗談じゃない!」

 誰もが衝撃を受けて固まった。けれど、ダリルは心のどこかで予想していた。近いうちにそうなるだろうという覚悟があった。恐らくシェーンがオーティスを殺したことに気づいた時から──いや、本当はそれよりもずっと前から、全てが狂っていたのだ。

「彼を見てきたろ。俺を責め、皆を危険に曝し、脅してきた。奴はランダルの件で自作自演し、り以子を手にかけ、俺の背に銃弾を撃ち込もうとして誘導した。仕方なかった!親友だったが、俺を襲ったんだ……俺は潔白だ!」

 誰もがかける言葉を失ったようだった。彼を非難する資格も、もちろん、称賛する厚顔さもない。ダリルはり以子を振り返った。また不必要な責任感に苛まされ、泣いているんじゃないかと思ったのだ。しかし、り以子はいつも以上の無表情で、その場に突っ立っているだけだった。手から濡れタオルが滑り落ちたのにも気がついていない。

「俺がいない方がいいか?」

 リックが挑発的に言った。

「行けよ。安全な場所なんて幻想かもしれない。また思い違いをしてるのかもしれない。だから自分たちで探しに行ってみたらどうだ?ポストカードを送ってくれよ!」

 全員が静まり返っている。無理もなかった。ダリルはリックがこんな風に荒々しく人を蔑むところを見たことがなかった。

「どうした、行っていいぞ。もっとうまくやれるんだろ?どこまで行けるかね」

 ダリルはチラッと皆の様子を窺った。マギーやグレン、ベス、キャロル、誰もが愕然としていたが、ここを離れようという度胸のある者は誰一人としていなかった。

「行かないんだな?よし。じゃあはっきりさせよう──残るなら、二度と俺に逆らうな」

 リックは独裁者そのものの態度で、人々をグルッと見回した。

 その時、落葉の擦れる音がダリルの耳に届いた。誰もが身動きを取れずにいる中、ただ一人、この場を遠ざかる背中があった。ダリルは咄嗟にリックを見た。リックは、まるで捨てられた子犬のように心細そうに、衝撃と失望の目で、り以子の背中を見つめていた。

「──分かった」リックが息を震わせた。「行くんだな。いいさ、好きにしろ」

 だが、様子が変だった。ふらふらと危なげな足取りで、自分がどこに向かって進んでいるのか理解していないように思われた。全員が、言葉もなく、呆気にとられてり以子の歩みを眺めていた。

 次の瞬間、まるで糸が途切れたように、り以子はふっと地面に崩れ落ちた。

「……おい、嘘だろ」

 理解するよりも早く、ダリルは駆け出していた。落葉の上にうつ伏せに倒れたり以子の薄い肩を引き寄せ、自分に顔を向かせると、り以子の体はまるで柔らかい人形のように、ぐったり転がった。

「り以子!──り以子!」

 後から駆けつけたリックとベスが、口々に名前を叫びながら、り以子の顔や肩に触れている。り以子は応えない。目は固く閉ざされ、唇は力なく半開きになっている。まるで──そんなことは考えてはいけないと分かっていても、死人のように見えてしまった。ダリルは現実を飲み込むことが出来ず、内臓を締めつけられるような苦しみに喘ぎながら、り以子の頬をさすった。

「何がどうなってる!……ああ……」

 リックがハーシェルを呼ぶ声も、ベスが泣き喚く声も、全てのことが無意味に思えた。ダリルは自分の手の中で何かが遠のいていくのを、成す術もなく感じていた。

 誰かが叫んでいる。その叫び声が遠ざかっていく。

「り以子!り以子!──り以子……」