Beside the Dying Fire

壊れゆく人格

 ダリルに半ば引き摺り下ろされる形で馬から降りたり以子は、全身に返り血を浴び、フラフラしていた。彼女にとって、よほど壮絶な夜だったに違いない。自分の足で立っていることも出来ず、ダリルに抱きとめられて何とか踏ん張っているようだった。

「り以子!」

 リックの横を、ベスが泣きながら走り過ぎて行った。キャロルも少し遅れて彼女に続いた。リックはまだ事態がよく呑み込めていなかったが、足は自然とり以子の無事を確かめに向かっていた。

「何があった?……ああ……ああ……」

 ダリルは片腕でり以子の腰を支えながら、もう片方の手で、まるで本当にそこに存在しているのか確かめるように、り以子の顔にべたべた触れていた。どす黒く変色した返り血の中に、紛れもなく赤い彼女自身の血が混ざっている。ダリルは痛ましそうに顔をしかめ、息を荒げて、恐る恐るり以子の髪の毛の中を探った。

「……私はただ殴られただけです……大丈夫……大丈夫……」

 り以子はダリルの胸に手を突っ張り、強がって自分の足で立って見せたが、その声は霞のように弱々しく、とても言葉の通りとは思えなかった。ベスはすかさず父親に向かって言った。

「手当てをしてあげて」
「ここでは無理だ」

 ハーシェルはネリーの手綱を引きながら、注意深く周囲に目を走らせた。どこからか微かに嗄れた声が聞こえている。

「私は大丈夫です」り以子が繰り返した。「私は……少し、馬に酔いました。そしてとても疲れています……それだけです」

「場所を移そう」
 リックのその言葉に、グレンが信じられないと眉をしかめた。
「アンドレアを捜さないのか?」
「移動し続けるんだ。この辺りはウォーカーが徘徊してる」
「東へ行こう」

 Tドッグが言った。廃車の隙間を縫って、一体のウォーカーが姿を見せた。

「幹線道路は避けよう」ダリルは自分のバイクに戻り、クロスボウを手に取った。「デカいところにはもっとウォーカーがいる。こいつみたいなクソったれがな──任せろ」

 鋭い音を上げて矢が放たれ、一瞬のうちにウォーカーの片目を貫いた。皆は崩れ落ちたウォーカーの死体を見下ろして、たった数時間前の悪夢について思い出していた。もうあんな目に遭うのは懲り懲りだ。命がいくつあっても足りない。

 生き残った十一人は、二つの車とバイク、そしてネリーに乗って、ハイウェイを発った。置き去りにされた車のフロントガラスに残されたメッセージが、白む空を寂しく見上げていた。

ソフィア、ここにいて……。
***

 ダリルとキャロルの二人乗りバイクを先頭に、一行は寂れた山道さんどうを進んだ。グレンが最後尾に馬をつけて走り、り以子は代わりに乗用車に乗り込んで傷口の手当てを受けていた。と言っても、清潔なタオルで傷口を拭うといった程度の処置のみだ。治療器具も救急道具も何もかも農場に置いてきてしまい、それ以上はどうしようもなかった。深刻な物資不足だった。

 さらに間の悪いことに、リックが運転していた車のガソリンが切れた。一同は路上で立ち往生する羽目になった。

「ここにはいられないわ」
「全員一つの車に乗るわけにもいかない」

 マギーとグレンが木々の合間を監視しながら言った。そんなことは分かっていた。

「明日の朝、ガソリンを取りに行こう」
「ここで一晩明かす?」

 キャロルは難色を示し、寒々しい細腕を抱き込みながら眉を寄せた。カールも今に凍えそうで、ローリが懸命に体をさすってやっていた。

「火を起こしましょう」
「薪を拾いに行くなら近くにいろよ」

 ダリルが忠告した。

「矢は数が限られてる。弾の数はどうだ」
「少ない」

 リックは上着を脱ぎ、ローリに渡してカールに着せてやった。マギーは不満げにその様子を睨んでいる。

「こんなところにバカみたいにたむろしてらんないわ」
「口が悪いぞ」ハーシェルが注意した。「皆、落ち着いてリックに従おう」
「よし、防衛線を張ろう。朝になったらガソリンと物資の調達だ。前進し続ける」
「グレンと私で今行けるわ。ガソリンを漁ってみる」
「ダメだ、一緒にいろ。万一の時に車がないと立ち往生してしまう」

 リックはチラッとシルバーグリーンの乗用車に目を走らせた。ドアを開け放ち、ステップに腰かけてしんどそうにしているり以子の姿が少しだけ見えていた。

「リック、今も立ち往生だ」

 グレンが青ざめた顔で言った。リックは何とか分かってもらおうと必死な思いだった。

「不安だろうが、俺たちは地獄を抜け出し、お互いを見つけることが出来た。信じられないが……本当に信じられないが、確かに会えた。こうして一緒にいる。離れちゃいけない。どこかに避難できそうな場所を見つける。どこかにあるはずだ」

 だが、誰もリックの言葉に納得出来ていないのが明白だった。不安定な沈黙が続き、どうにかしてという目がグレンに集まっている。

「……リック、よく考えろよ。な?そこら中にウォーカーがいる。あいつら、回遊するんだ──」
「隠れるだけの場所じゃダメだ、要塞化して、腰を据えて、協力して、共に生きていく場所だ!どこかにある。見つけなくては!」
「安全と思える場所を見つけたとしても……」

 マギーが沈んだ声で言った。

「いつまで保つか分からない。農場で起こったことを思い出してよ。安全だって思って勘違いした」
「同じ過ちは繰り返さない」

 ハーシェルが語調を荒げ、マギーは渋々引き下がった。

 リックは素早く周囲を目で探った。ガードレールを越えて林に入れば、小さく開けた場所がある。沢も近いし、道路からも遠からずで、最悪の中で唯一マシと思える選択肢だろうと思われた。

「今夜はあそこでキャンプする。夜明けと共に出発だ」
「あなたはこれでいいの?」

 キャロルがダリルに詰め寄っている。

「ウォーカーが来たらどうするの?それか、ランダルたちみたいなグループが来たら……」

 と、ベス。皆、リックの知らない脅威について怯えているようだった。

「ランダルを見つけた」ダリルが静かに告げた。「なあ。奴は転化してた。噛まれてないのに」

 その時、リックの脳裏に一つの記憶が甦った。あの日、CDCで別れ際にジェンナーに囁かれた呪いの言葉を、リックは思い出していた。ウォーカーとなって甦ったシェーンのことも。そして、重苦しい確信が生まれた。全てのことが繋がって一本の線になり、リックに最悪の真実をもたらした。

「どうして?」
「リック、一体何があったの?」

 皆が口々に問い詰めている。リックは完全に参った。

「──シェーンがランダルを殺した」

 ダリルがリックを先回りして、確認するように言った。

「あいつはずっとそうしたがってた」
「その後、群れに捕まった?」

 ローリはそう言いながら、それでは時制が合わないと訴えていた。

 誤魔化しは効かないとリックは思った。全員が真実を知りたがっている。これ以上は隠し通せないのだ。しかし、これを言ってしまったら……。葛藤のうちに、乗用車に目を向けた。まるで不吉な予感に呼び寄せられたかのように、り以子がふらふらとこちらへ歩み寄って来ている。

 リックは小さく口を開いた。そして、碌に決意も固まらないうちに、無感情に告げた。

「みんな感染してる」

 しばらくの間、誰もが言葉を失っていた。愕然とリックを見つめたまま、凍りついてしまったかのように動かなくなった。

「……何だと?」

 ダリルがかろうじて聞き返した。

「CDCでジェンナーが俺に言った。俺たち全員、感染してる」

 リックは、呆れてものも言えなくなったダリルが自分に向けた背中を見ていた。放心状態の呪縛が解け、皆の非難めいた目が次々にリックへ集中した。

「なぜ黙ってたの?」キャロルが責め立てた。
「言っても変わらない」
「ずっと知ってたのか?」次はグレンだ。
「確信を得てたと思うか?お前だってあの狂った──」
「──そんなの理由にならない!」

 グレンは爆発寸前だった。

「いいか?俺が納屋にいるウォーカーのことを知った時、俺は言った。皆のために!」
「知らない方がいいと思った」

 リックは挑むように言った。グレンは軽蔑の目でリックを見つめ返している。

「それって──」

 ガシャンと金属が落ちる音がして、全員が振り返った。り以子がうつけたように立ち尽くしていた。手から刀が滑り落ち、足元に転がっていたが、全く気になっていないようだった。

「それって……どういう意味ですか?」

 リックは自分に向けられた褐色の瞳を見ることが出来なかった。後悔と罪悪感で心臓の奥がギュッと締めつけられた。

「皆って……?そんな……そんなことって……私も?……それって、じゃあ──」

 誰でも死ねばウォーカーになる。噛まれたかも引っ掻かれたかも関係なく、誰でもだ。全ての人は皆、ウォーカーになる。たとえば国を閉じてウォーカーを閉め出したところで、何の意味もない。

「り以子……」

 ベスが気遣わしげに近づいたが、り以子は彼女を振り払って車の中に逆戻りした。り以子はたった今、安全で無事だと盲信してきた自分の故郷が、恐らくはこの国と同じ末路を辿ったことを確信したのだ。約束する、絶対に君を一人にしない──かつて自分が語った言葉が、無責任なその場しのぎ慰めが、リックの内臓をギリギリと締め上げた。リックはこれ以上この場に留まっていることが出来なくなり、逃げるように皆の前から立ち去った。