Hematoma

血の塊

 こんなことが起きていいのだろうか。こんなにも悲しく、虚しいことがまかり通るのか。リックは頭の中が溷濁した。不安定で不明瞭な感覚の世界に、やっとのことで立っていた。命の恩人なのに──たったさっき、無事を喜び合ったばかりなのに──。

 リックたちは、ハーシェルがり以子の頭部を抱えて隅々まで診察しているところを、一歩下がった場所からハラハラして見守った。リックの隣で、ダリルが爪をかじっている。ベスはマギーにしがみつき、蒼白な顔で肩を震わせていた。誰も何も出来なかった。見守ると言えば聞こえはいいが、結局は、じっと見ている以外に出来ることがないのだ。

「『殴られた』と言ってたな」

 しばらくして、ハーシェルはり以子を手放してリックを振り向いた。

「そうだ」リックは頷いた。喉がカラカラだった。「シェーンが──銃のグリップで殴ったと」
「ああ、なんてこと……」

 キャロルが両手で口を覆ったが、痛ましそうに呻く声は完全には隠れていなかった。ハーシェルは「そうか」と呟くと、再び背中を丸めてり以子に覆い被さった。

「恐らくそのせいだろう。頭部に強い衝撃があった」
「何か必要なものはあるか?」

 そう訊ねながら、リックは自分がいかに無力で役立たずなのかに気づいた。ハーシェルが何を要求しても、リックはそれに応えてやれないのだ。

「リック、り以子の荷物があるわ」

 ベスが壁際に放置されていた淡いピンク色のリュックを持って来た。リックは唾を飲んだ──これが、今のこのグループの全財産だった。

「……ここにあるもので代用しなくては」
「いや、その必要はない」

 ハーシェルは長々と溜め息を吐き出し、そして、リックたちに背を向けたまま言った。

「──銃を取ってくれ」

 リックは一瞬、聞き間違いだと思った。

「……何だと?」

 ダリルが腕組みをしてハーシェルに詰め寄った。ハーシェルは顔を上げずに、もう一度「銃を」と繰り返した。

「誰が武装しろと言った?治療をしろと言ってんだ」
「分かってる。だが、無理だ」

 ここにきてようやく、ハーシェルが顔を上げた。その表情を見て、リックはハーシェルの言葉が聞き間違いでも冗談でもないと思い知らされた。

「多分、血腫がある──血の塊だ。打撃時に出血したのが、頭蓋骨と硬膜の間に溜まってしまった可能性が高い。脳が圧迫され、意識障害が出たんだろう」
「シェーンに殴られたって話か?」

 ダリルは彼なりにハーシェルの言葉を必死に理解しようとして、難しそうに目元をしかめている。

「なら、違う。もっと別の……病気か何かだ。さっきまで意識はあった」
「いいや、そういうものだ」ハーシェルが静かに告げた。「一時的に意識が清明になる」

 説き伏せられ、反論の術を失ったダリルは、光を失ったようにそこに立ち尽くした。

「この環境では手の施しようがない……残念だが、受け入れろ」
「……手があるはずだ」

 リックはすがる思いで訊ねた。望まない答えが返ってくることは、心のどこかで覚悟していた。

「今すぐ開頭手術を行い、血腫を除去せねば。脳幹が侵されたら助からない」
「だからそれをしろよ!」ダリルが怒鳴った。
「頭部を切開し、頭蓋骨に穴を開ける手術だぞ。ここには充分な設備も、道具もない。例えそれらが揃ったとしても、人の脳だ。私には難しい──リック、残念だが、打つ手はない」

 沈黙が走った。リックは、自分とダリル以外の人々が皆して諦めの表情を浮かべているのを、信じられない気持ちで見回した。

「助からないのか……?」リックの声は自分でも驚くほど掠れていた。「彼女は、その──」
「──死ぬの?」

 リックは息子を振り返った。カールはローリの腕の中で、まるでウォーカーを見るような目つきをして、横たわるり以子を凝視していた。

「ウォーカーになる?」
「カール、やめるんだ」
「でも、一理ある」

 マギーが言った。グレンが即座に「マギー」と注意したが、彼女は疑心暗鬼になっていた。

「噛まれてなくても、誰でも転化するんでしょ」
「死んでない!」ダリルが抵抗した。
「けど、助からない。時間の問題よ!そうなる前に──」
「マギー!」

 その先は言わせないというように、グレンが声を張った。マギーはぐっと言葉を吞み込み、ばつが悪そうに顔を背けた。

「……彼らの言う通りだ」

 リックは「ハーシェル!」と激しい語調でたしなめた。

「彼女はまだ生きてる。命あるうちは手を下さない!」
「ああ。しかし、私と娘が言いたいのは、覚悟を決めておけということだ。時間の問題なのは確かだ。大切な人なら、ウォーカーなんかにさせてはいけない」

 リックは恐々とり以子に目を向けた。り以子がウォーカーに……?冗談じゃない。

「……分かってる」
「ここで銃は使えないぞ」Tドッグが急いで言った。「群れを呼んじまう」
「それも分かってる!ナイフか──」
「おい、何言ってんだ!ふざけんな!」

 リックは突然横から押し入ってきたダリルに胸を突き飛ばされてよろめいた。ダリルは失望したような目で仲間を睨んだ。

「あの子は生きてる。死人じゃない。そんな話をする暇があったら、どうやって助けるか考えろ」
「ダリル……」

 ハーシェルがゆっくりとダリルに歩み寄り、肩にそっと手を置いた。

「……何も出来ない。何も。無理だ」

 ダリルの顔が、こみ上げる何かを堪えてくしゃっと歪んだ。リックは、メルルが右手を残して失踪した時の彼を思い出した。もしも焚き火の明かりがもう少し強かったら、ダリルの瞳に浮かんだ涙の膜が見えていたかもしれない。

「クソが!」

 ダリルはハーシェルの手を鬱陶しそうに振り払い、落葉を蹴散らしながら、荒々しくり以子に近づいていった。しゃがみ込み、昏倒しているり以子の顔を見て「ああ……」と嘆きの息を漏らして、徐ろに彼女の首と膝の裏に腕を差し込んで抱き上げようとし出した。

「おい!何する気だ」

 リックは慌てて手を突き出してダリルを引き止めた。ダリルは平然と言った。

「あんたらには助ける気なんてないんだろ。俺が他の方法を探す」
「待て──俺たちは決して分かれないと言ったはずだ。君も賛成した」
「それはあんたらがこの子を見捨てる前の話だ」
「見捨ててなどいない!」
「どうだか」

 ダリルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ダリル、待て。不用意に動かすな」

 グレンが慌てて忠告した。ダリルは聞く耳を持たず、とうとうり以子を抱えて立ち上がり、道路を目指して歩き始めた。

「ダリル!止まれ!」
「ダリル!待ってちょうだい。行かないで!」

 キャロルが身を切られたような声で呼んだけれど、ダリルは歩みを止めなかった。完全に自分を見失ってしまっている。どんどん遠ざかっていく背中に、どうするべきなのか案が浮かばず、リックは激しい苛立ちに悪態をついた。

「クソッ……ダリル!待つんだ!ダリ──」

 その時だった。ダリルの背中の向こうに、目の眩むような白い光が現れた。

 それが何なのかを理解する前に、リックは反射的に頭を庇って腕を掲げた。ダリルも即座にその場にしゃがみ、リックと同じように腕を上げている。

「伏せろ!」

 リックは急いで言った。言われるまでもなく、皆が地面に伏せていた。Tドッグが焚き火を踏み潰したが、手遅れのような気がした。

「そこに誰かいるのか?」

 男の声だ。全員の顔に緊張が走った。

「答えろ。誰だ?──人間か?」

 暗闇の中、謎の白い光を浴びて、ダリルたちの輪郭がはっきりと浮かび上がっている。隠れきれていない。だが、下手に移動して攻撃されたら最悪だ。リックは強張った表情のダリルと目が合った。今までの混乱が嘘のように、二人の思考はクリアになっていた。リックが動くなとジェスチャーで指示を出すと、ダリルはゆっくり小さく頷いた。

 光が接近してくる。リックはそっとホルスターに手を伸ばした。そして、意を決して愛銃を引き抜こうとした時──リックは自分の背後で撃鉄を起こす音を聞いた。

「動くな」
「銃を捨てろ」

 背後から音も気配もなく忍び寄っていたのは、リックのグループの人数を優に超える男たちの集団だった。ハーシェルがベスを、ローリがカールを抱き寄せ、グレンとマギーが身を寄せ合う様を眺めながら、リックはこめかみに突きつけられた冷たい金属の感触に奥歯を噛み締めた。