Hematoma

血の塊

 リックは二つの選択肢の狭間で揺れていた。背後の男の隙を突き、銃を抜いて撃ち殺すか、それとも、銃を捨てて男たちに従うか──馬鹿な迷いだ。愛する家族や大事な仲間の命を思えば、問題は一択だ。リックは邪念を振り払うように首を振り、ゆっくりと両手を上げて、こめかみの銃に促されるまま立ち上がった。

「銃を預かる」

 背後の手がホルスターから拳銃を抜き去り、落ち葉の上に放り投げた。リックからも、ダリルからも、誰からも届かない絶妙な位置だ。焦燥に唇を噛みながら拳銃を見つめる間、手は素早く身体検査をして、ベルトのナイフも取り上げた。

「全部か?」
「……ああ」
「お前もだ、ほら……」

 Tドッグやグレン、マギー、ローリ、カールからも銃を奪うと、続いて男たちは孤立しているダリルにもショットガンを向けた。

「……武器を捨てろ」

 ダリルは片腕で器用にショルダーベルトを脱ぎ、クロスボウを銃の山に放った。それからズボンに隠し持っていた拳銃とナイフ、り以子の大小も引き抜いて捨てた。

「立て。立って、両手を頭の上に」
「何が望みだ」

 ショットガンの銃口で小突かれる妻を屈辱的な思いで見つめながら、リックは唸った。

「何事も起きないことだ」

 男たちは意外に冷静だった。

「お前たちが何もしないなら、このまま通り過ぎる」
「いいから立て。立つんだ──お前もだ」

 ガシャッと不吉な銃の音がした。ダリルは動かなかった。地面に寝かせたり以子に上半身で覆い被さり、男たちの目に晒すまいとしている。明らかに不自然な体勢なので、リックは肝が冷えた。

「何を隠してる?」

 敵のうちの何人かが、警戒してダリルに向かってじりじり動き出した。リックは咄嗟に銃との距離を目で測った。瞬時に飛びついて早撃ちすれば、一人くらいは倒せるかもしれない。だが、次の瞬間には十を超えるショットガンがリックを撃ち殺すだろう。無謀すぎるし、意味がない。

「見せろ。何を隠してる」男が繰り返した。
「断る」
「何だと?」

 男がもう一度銃をガチャつかせた。リックはダリルに敵を刺激しないでくれと目配せしたが、ダリルにそれを確認する余裕はなさそうだった。

「いいか?教えてやろう。お前に断る権利なんか──」
「待て、タッカー」リックの後ろにいた人物が仲間を止めて言った。「──人か?」

 男たちの間に緊張が走り、警戒心が跳ね上がったのが分かった。

「動かないぞ。死んでるのか?」
「『イーター』じゃないだろうな」
「武器を隠し持ってるんじゃないか?」
「おい、お前。立て」

 タッカーと呼ばれた男が、つかつかとダリルに近づいていった。リックはどうかダリルが短気を起こしませんようにと願った。だが、傷ついて追い詰められた獣のようなダリルの反抗的な目を見て、その願いは絶望的かもしれないと覚悟した。

「タッカー!止まれ!」

 リックの背後で再び男が叫んだ。この男がグループのリーダー格なのかもしれない。

「……少女だ。ここから見える。気絶してる」
「そうだとしても、その少女の下に武器を隠し持ってるかも」
「いや、待ってくれ……」

 男はリックに銃を向けることも忘れ、暗闇に目を凝らしながら、吸い寄せられるようにダリルへ向かっていった。ダリルが身じろぎして、いつでも飛びかかれるように構えている。

「その制服……知ってる。俺の仲間だ」

 リックは耳を疑い、次に男が錯乱したのだと思った。ダリルもリックとまったく似たような反応を見せた。

「そうだ──彼女だ。間違いない!俺の仲間だ!皆、撃たないでくれ!」
「勘違いだ」ダリルが唸った。「俺たちの仲間だ」
「多分、今はな。でも、り以子だろう?日本人のり以子だ──前のキャンプで一緒にいた」

 その場にいた全員が──敵のグループも含めた皆が──唖然として男を見ていた。

「絶対にそうだ。蓮水という子と一緒にいて……何があった?まるで──死んでるみたいに見える」
「死んでない」

 ダリルが即座に言った。

「頭を強く打っただけだ。まだ生きてる」
 タッカーは嘲笑した。「瀕死だな」
「黙れ!」ダリルが怒鳴った。

 リーダー格の男は、瞬間的に躊躇うような様子を見せ、そして、ゆっくりと言った。

「……この道を少し行った先に俺たちの住処がある」
「カーティス!」

 タッカーが正気を疑う目でリーダーをたしなめた。

「聞いてくれ。そこは元は廃病院で、イーターが少ない上、医者もいるし、道具も揃ってる。そこは外科手術も可能だ──急いで彼女を運ぼう」

 カーティスはショットガンを下ろすと、皆の後ろにいた男たちに合図をして、武装を解いた。

 とんとん拍子に急展開する現実を、リックは未だにうまく飲み込めないでいた。あまりにも話が上手すぎる。本当に信じていいのだろうか──次々に返される武器を手に取り、戸惑いの表情でダリルと顔を見合わせた。

「おい、何のつもりだ」

 タッカーはまだ納得出来ない様子でカーティスの行く手を塞いだ。

「十人はいるぞ。俺たちだって食料が足りてないのに、慈善活動か?」
「タッカー。頼む──仲間を見捨てられない」
「昔のだろ」タッカーがイライラと言った。「今の仲間じゃない」
「それでもだ」

 二人はしばらく睨み合っていたが、そのうち埒があかないと諦めたのか、タッカーの方から目を逸らして離れていった。リックがじっと様子を窺っていると、カーティスが部下の不始末を恥じるように苦笑いをして見せた。

「で、そこの道路に停めてある車は君たちのか?」
「ああ」リックが急いで答えた。「だが、一台はガソリン切れで動かない」
「まあいい。俺たちの車には空きがある。一台は救急車だ。担架にり以子を乗せる。手伝ってくれ」

***

 リックは警戒していた。悪道に揺れる救急車の中で、見知らぬ男と睨み合い、互いに少しでも妙な仕草があれば刹那のうちに撃ち殺してやろうと探り合っていた。ローリとカールはすぐ手の届く位置に座っている。ちらっと窓から外を覗くと、バイクを唸らせながら、気遣わしげにリックを見上げるダリルと視線が交わった。彼のクロスボウと一緒にバイクに括りつけられたり以子の大小が、ガタガタと危なげに揺れている。

 ここまで来てしまった以上、今リックに出来ることは、この連中を信じてり以子の治療をしてもらうことだけだ。もしもこれが騙し討ちだったとしたら、このグループはおしまいだ。銃弾もないし、人数でも負けている。尤も、奪う物資もないので、その場合は相手も無駄骨に終わるだろうが。

「なあ」

 話しかけてきたのはカーティスという男だ。リックは一番警戒心の強そうなタッカーという男に目を向けたまま、言葉だけで「何だ」と返した。

「俺はカーティス。タッカーに、イーサン。君たちは?」
「……リックだ」

 リックは短く答えた。カーティスは続きを待っている。

「……ローリと、カールだ」

 カーティスは「よろしく」と微笑み、身を屈めてカールに視線を合わせたが、カールはリックそっくりの仏頂面を貫き通した。

「君たちはこの辺りにキャンプを?」
「いいや」
「り以子とはどこで?──もう一人いただろ?その子は?」
「……会ってない」

 リックの返答は不親切で不充分に違いなかったが、真意を汲み取れないほど能天気な人間はこの世界にはもういないだろう。少し沈黙があって、カーティスは呻くように「そうか」とだけ言った。