夜の垂れ絹が下がり、森は真っ暗闇に浸された。耳鳴りのような虫の声を聞きながら、り以子は集団の最後尾についていた。廃病院を根城にしていた生存者のグループだ。老人、病人、怪我人、幼い子供や母親、彼らを守る逞しい男たち……。
この国が死者に食い潰されてからというもの、り以子はこれほどたくさんの生きた人間を見たことがなかった。行列は気が遠くなるほど長く、先頭は既に暗闇の彼方へ吸い込まれてしまっている。
もうかなりの時間休まずに歩き続けてきた。まだ果ては分からない。体が重い。きつい。苦しい……心臓と呼吸の荒れた音が、鼓膜のすぐ裏で鳴っているようだった。何日ものあいだ昼夜ぶっ通しで眠りこけていたせいで、り以子の体はちっとも使い物にならなくなっていた。けれども進む道は登り坂だし、足場はぬかるんでいる。ところどころ罠のように張り出している木の根に注意していると、何もないところで膝がガクッと抜け、湿った土の地面に投げ出された。
「皆、足を止めるな!追いつかれるぞ。歩き続けるんだ。そう……」
武装した男性陣が、不安げに闇を進む人々をしきりに励ましている。
「そんなこと言われたって……」
り以子は土に向かって呻くように弱音を吐いた。腰や膝がじんじん痺れるように痛み、歩けそうになかった。もう嫌だ。『群れ』は充分引き離しただろう。今はここに座って休みたい……。
さっきまでり以子の前を歩いていた背中の縦列は、気づけばかなり小さくなっていた。り以子は重たい体に鞭を打ってやっとのことで立ち上がり、傍に立つ木の幹に肩を預けて息をついた。気持ちを落ち着かせてゆっくり深呼吸をする。吸い込んだ空気はひんやりと瑞々しくて、疲弊して火照った体に心地よく染み込んでいくようだ。
頑張らなくちゃ……弱気になっちゃダメだ……徐々に冷静で前向きな気持ちが蘇ってくる。あと少しでいいんだ……頑張ろう。
り以子は腕にぶら下げた千羽鶴を見下ろした。さっき転んだ時に少し泥がついてしまった。それを拭おうとした指がまた泥にまみれていて、余計なことをされた鶴はいっそう汚くなった。り以子は不憫なその鶴を糸から引き抜くと、頭を折り込んで嘴を出し、両翼をつまんで横に広げた。そして、自分を支えてくれている木の麓に、忍ばせるようにそっと置いた。
その時、り以子のすぐ真横で小枝の折れる音がした。息を飲んで振り返ったり以子は、暗闇に浮かぶ二つの目玉と目が合った瞬間、あらん限りの声を上げて絶叫した。
しかし、り以子の口はすぐに塞がれてしまった。ごつごつした大きな硬い手だ。り以子は慌てて引き剥がそうとしたけれど、じたばた暴れる体を丸ごと抱き込まれては、思うように身動きができない。しまった!──り以子は蛇のように胴体を波打たせて抵抗し続けた。
「勘弁してくれ!」誰かが耳元で呻いた。「俺だよ。カーティスだ!」
渾身のひと暴れを最後に、体の拘束はあっけなく外れた。ゼエゼエ喘ぐり以子の目の前には、両腕を広げ、体全体で敵意がないことを表明している男性の姿があった。
「──生きてるよ。噛みゃしない」
「ああ……」
り以子はたちまち大騒ぎした自分が恥ずかしくなった。
「何の騒ぎだ?」
遥か前方から、男性が首を伸ばしてこちらを見ている。彼の手にした懐中電灯の明かりに、不機嫌そうな仏頂面がぼんやり浮かび上がっていた。
「何でもない」カーティスが声を張り上げた。「俺がビビらせた」
「無駄に大声を出すな。連中に聞きつけられたら全員死ぬぞ」
「分かってる」
「いいな?」
「ああ、悪かったって」
カーティスと言葉を交わしている男のことを、り以子はよく知らなかった。前のキャンプにはいなかった人だ。がっしりとした体に、黒光りのする物々しいライフルを担いでいて、タッカーという名前で呼ばれている。カーティスとこの男は、このグループの人々にとってリーダーの存在なのだとり以子には分かった。誰もが無理を押して二人のペースについていこうとしているからだ。なるべくそばに居続けることで、恩恵を受けたがっている。そう、リックとシェーンのような……。
「だいぶ遅れてる。行こう」
カーティスの腕が当然のように伸びてきて、り以子の肩に回された。きっと善意で支えようとしてくれているのだろうが、実のところ、これでは歩きづらくて適わない。り以子は愛想笑いを浮かべ、さり気ない風を装って距離をとった。
相変わらず体は鉛みたいに重いし、関節は痺れるように痛んだが、り以子は隣に並んだカーティスに合わせて再び歩き出した。
無骨な泥まみれの指が、木の陰に潜む折り鶴をヒョイと拾い上げた。地面には複数の足跡が何重にもなって塗り固められている。ダリルはしゃがんで痕跡を読み取りながら、ちょうど背後に立ったリックに折り鶴を回した。
「間違いない。この集団について行ってる」
「追いかけて合流する?」
Tドッグが周囲を気にしながら訊いた。リックはすぐに首を振って答えた。
「いや……り以子を回収したら俺たちは車に戻ろう。連中とは行動を共にしない。俺たちはここを離れるんだ」
「マギーとグレンは?」ベスが割って入った。
「この先にいるんじゃない?」と、キャロル。
「それか、沢に戻ったかだ。再会のチャンスがある場所は他にないだろう」
続けてリックが言った。ベスはあまり得心がいったようには見えなかったが、それ以上は追求しなかった。
「とにかく進もう。ウォーカーが追ってくるかもしれん。話は歩きながらでも出来る」
ハーシェルに急かされ、一同は重い空気と共に動き出した。
先頭を歩きながら、ダリルは少し歩調を落としてリックの横に並んだ。リックは特にダリルを見ることもなく、ダリルが切り出すのを無言で待っていた。
「……さっき、あそこで何を見た」
ダリルの言葉は少々足りなかった。リックはここで初めてダリルに目を向けた。
「あそこ?」
「備品庫だ。名簿を見てたろ。何を見つけた?」
リックはすぐには答えなかった。何を勿体ぶっているのか分からないダリルには、その態度が焦れったくて仕方なかった。
「……り以子の名前だ」
ようやっと口を開いたリックに、ダリルはつい鋭い視線を向けた。
「だろうな」
「ああ。だが、違う。なかった」
ダリルは右の眉と左の眉を思い切り寄せた。
「どっちだよ」
「俺たちのグループにり以子の名前はなかった」
「何を言ってる?」
「り以子の名前は──カーティスのグループに入ってた」
呆れるあまり、ダリルは一瞬歩くのがなおざりになった。
「どういうことだよ」
「あの男は俺たちを歓迎したんじゃない。目的はり以子を手に入れることだった。俺たちのことは消す気だったんだ──お手の物だろう、これまで彼らがやってきたようにやればよかったんだから」
ダリルは背筋が寒くなった。脳裏にカーティスの胡散臭い笑顔が浮かんだ。
「ウォーカーの群れに襲撃されたのは幸運だった──俺たちにとっても、カーティスにとっても。面倒な小細工を使わずに俺たちを撒くことができたんだ。だが俺たちが鶴を辿ってり以子に追いついたら……」
「……抵抗するかもな」
ダリルはリックの言葉の先に繋げて言った。
「相手は大所帯だ、明け方までどこか開けた場所に滞在してるだろう。まずはこっそり近づいて様子を窺おう。女子供と老人は離れた場所で待機させる」
「ああ」
リックは一度頷いたが、それから参ったように首を振り出した。
「カーティスは異常なまでにり以子に執着してる。前のキャンプで、二人は一体……?」
一瞬、ダリルはリックが何をそんなに狼狽えているのかピンとこなかった。
「その……いわゆる……り以子とカーティスは……あー、そういう関係だった?だから、要するにその……」
そこまで聞いてようやく、リックの言わんとしていることを理解したダリルは、ばかばかしいとばかりに首を振った。
「大方英語が分からないからニコニコして誤魔化してたんだろ。それで、男が勘違いした」
リックは突然長年の謎が解けたような顔をして、「あぁ……」と呻きを漏らした。ダリルはフンと鼻を鳴らし、
「あの子を捕まえたら覆面を付けて鍵かけてやる」と吐き捨てた。
「やめてくれ」リックがまた呻いた。
長い長い行進のあと、り以子たちはついに森を抜け、開けた場所に出た。そこは丘の上だった。だだっ広い大地が視界いっぱいに広がり、その真ん中に古ぼけた木造の家が一軒だけ、ぽつんと放置されている。牧場だ──皆がすぐに分かった。そして、ここの主はもうこの世にいないことも。土地は痩せ、雑草すらろくに生えていない。畜舎は崩れかかり、屋根の残骸が壁の内側に積み上がっている。木の柵で出来た大きな囲いが二、三あったが、中には何も飼われていなかった。
「うん、まあ充分だな」ショットガンを担いだ男が、囲いの杭に拳を置いて強度を確かめている。「『イーター』が来ても耐えるだろう。三秒は」
「最悪だよ。テントを置いて来ちまった」
着の身着のまま飛び出してきたらしい男が頭を抱えて呻いた。
「解体してる余裕がなかった。今頃『イーター』が使ってる」
「バカ言え。奴らがテントの中で寝るもんか」
「そうだな。上で寝てるさ」
「俺たちの緊急避難所なんだ」
敷地の入り口に突っ立ってぽかんとしているり以子に、カーティスが言った。
「何かあったらここへって決まってたんだ。これほどの辺境ならイーターも滅多に寄り付かないからね。まあ、めちゃくちゃ荒れてるけど……一晩休憩するくらいなら問題ないだろう」
男たちが囲いの中に手際よく人々を誘導し始めた。明らかに牛か何かを放牧するための場所に困惑しない人はいなかったが、誰もが不満を呑み込んでいた。
割り当てられたスペースに落ち着いていく人々を眺めていると、り以子はふと違和感に気づいた。病院を出た時よりも、人数が減っているような気がしたのだ。およそ五十人ほどいたはずなのに、今ここには三十人ほどしかいない。道中どこかで逸れてしまったのだろうか?
「り以子」
しばらくきょろきょろしていると、不意にカーティスに名前を呼ばれて手招きされた。カーティスはタッカーと共に、唯一の住居の玄関口に立っていた。木製のドアには、無理矢理こじ開けられたような跡がある。
「この家は何ですか?」
り以子が訊くと、カーティスはさらりと答えた。「俺たちの寝床だよ」
り以子は思わず眉根を寄せた。だって、お年寄りや重病人でさえ屋外で雑魚寝なのに、ほとんど健康体のカーティスたちや、ちょっとおでこの横に手術跡があるだけのり以子がぬくぬくと屋根の下に入るなんて──だが、カーティスとタッカーは何食わぬ顔で、家の中へ入って行ってしまった。
「り以子、おいで」
家の中から促す声がする。り以子はとりあえず後を追い、自分は皆と同じように外で構わないと伝えようと思った。
しかし、中に入ったり以子は、眼前に広がるリビングの様子を見て、用意した英語が吹っ飛んでしまった。『
「一体何ですか……これらは?」
「俺たちの財産だ」
カーティスが腕を広げて得意げに言った。
「俺たちが集めた。外にいる、何もしない役立たずの連中じゃない。俺たちのものだ」
「この避難所だって、俺たちがイーターどもの手から奪還したんだ」
タッカーの鼻に寄せられた皺を見るに、彼はり以子のことも『外の連中』のうちに数えているに違いなかった。カーティスは気づいていないようだが。
「あー……なるほど」
り以子は一歩玄関の方へ下がった。
「それでは……案内をどうもありがとう。私は外へ戻ります」
「何言ってるんだ?二階に二つ部屋がある。リビングは男たちが雑魚寝するから、上の個室を俺とタッカーと君とで分けよう」
「いやー……でもー……」
り以子はタッカーの鼻の穴がまん丸く膨らんでいるのをこれ以上無視できなかった。カーティスは相棒の不機嫌な態度に気づいていないのか、階段に片足をかけ、腕を振ってり以子についてくるよう促してくる。
「私は外へ行きます」
思い切って、り以子はきっぱりと断った。くるりと踵を返して家の外へ出ると、冷たい風に体が震えた。これだけの夜風から自分だけ逃れるわけにはいかない。
「り以子!どうしたんだ?」
カーティスが駆け足で追いかけてきた。り以子は聞こえないふりをして、誰も寄りつきたがらない森のほとりに手荷物を下ろしていた。
「そんなところで寝たら危ないだろう。体だってまだ本調子じゃないんだ。家に入ろう」
「それは皆同じです」
り以子は顔を上げ、カーティスに向かってまっすぐと言った。
「ここにはとても傷ついた人たちが何人もいます。私よりも。彼らは家の中で休むべきです」
「……ここにはルールがあるんだ」
「どんなルール?」り以子は即座に噛みついた。「銃を持つ人が偉いですか?」
「そうだ」
はっきり肯定したカーティスに、り以子は唖然とした。
「あいつらが、」カーティスは地面に座り込む人々を指差した。「何に貢献した?イーターを退けたか?必要物資を運び出したか?命がけで食糧を調達に行ったか?」
「私は知りません。私もまた何もしていません」
「君はいいんだよ」
カーティスがムッとした表情で言った。り以子は思い切り顔を顰めた。
「は?」
「君は何もしなくていい。俺がいるんだから」
その言葉に薄ら寒い何かを感じて、り以子は気づかぬうちに一歩後退りしていた。追い詰めるかのように一歩踏み出したカーティスの顔が黒い影にぬっと塗り潰され、表情が消えた。
「さあ、おいで」
どうしよう。行きたくない。けれど、有無を言わさない迫力の前にり以子は反抗することもできなかった。どうしよう。どうしたらいいんだろう。どうして、こんな不安な時に皆はいないんだろう……。
「ちょっと」
割り込んできた声に、二人はハッとなった。り以子の知らない、赤ちゃんを背負った女性が少し苛立たしげにこちらを見ていた。
「手伝ってよ。あなた、手が空いてるみたいだから」
絶好のタイミングで指名され、り以子は飛びつくように「はいっ」と返事をした後で、今のは流石に露骨だったかもしれないと横目でカーティスを盗み見た。カーティスは不満げに女性を睨みつけていたが、ブンッと頭を振ってり以子たちに背を向けた。
「周辺の見回りに行ってくる」
さっきまでの緊張感は、霧が晴れるように散っていった。り以子が救世主を拝む目で女性を見上げると、女性はぶっきらぼうに「来て」と顎をしゃくった。
「焚き火をつけるのに薪がいるの。あなたじゃなくても良かったんだけど、困った顔が偶然目についたから」
「あー……すみません、ゆっくり話してください」
気遣いのない英語をうまく捉えきれず、り以子はすまなそうに申し出た。
「私は外国人ですから、私は英語が乏しいです」
「あら、そうだったの」
女性はちょっと驚いた様子だった。
「ローリとキャロルの仲間よね?」
思いがけず馴染み深い名前が飛び出してきて、り以子は飛び上がりそうになった。
「は、はい!私は彼らを見失っています!」
「それはお気の毒ね。私はクロエ。それと、娘のライラよ」
クロエは少し体を傾けて、背中で眠る赤ちゃんを示した。ライラと紹介された女の子は、おんぶ紐に支えられてぐったりしていた。
「彼女はとても疲れているように見えます」
「……泣き疲れたのよ。恐ろしい夜だったから」
クロエはチラリとキャンプの方を振り返ると、そそくさとかがんで小枝を拾い出した。立ち話する二人を、男たちが怪訝そうに窺っているのが見えた。り以子もクロエに合わせて作業をしながら、一緒に森のほとりを周回した。
「あっ、これ。私たちは食べることができます」
少し進んで、り以子は木の実を指差して声を上げた。クロエはポケットから小さなペンライトを取り出して、り以子の示した先を照らした。
これまでは暗がりであまりよく見えていなかったけれど、クロエはずいぶん酷い格好をしていた。体じゅう血だらけだ。とっくに乾いてパリパリになってはいたが、ウォーカーの腐った血には見えなかった。生きた人間の血だ。り以子が真っ赤な両手をまじまじと凝視していると、クロエはパッとペンライトの明かりを消してしまった。
「あなたは傷ついているんですか?」
り以子が訊ねると、クロエは視線をよそへ逸らして答えた。
「別に何ともないわ」
「だけど、ここには大量の血があります」
「私のじゃない」
クロエは早口で否定した。
「……父が死んだのよ」
り以子はそれ以上追求できなかった。暗がりに浮かび上がるクロエの横顔は、冷たく、どんよりとした闇を孕んでいた。