男はキャンプのリーダー的存在だった。それは誰が決めたわけでもなく、まるでそうなるのが当然というような自然の流れで、皆の信頼の寄せどころとなっていった。人一倍責任感の強い人物だったからかもしれないし、銃の扱いに最も長けていたからかもしれない。もしかしたら、目鼻の整った顔をしているというだけの理由だったのかもしれない。何にせよ、彼がリーダーシップを取ることに異論を唱える者は一人もいなかった。
焚き火の傍で、少女が友人と夕食の支度を手伝っている。彼は遠巻きにそれを見ていた。
二人はここへ来たばかりの頃、何もできない無力な女の子たちだった。英語はろくに話せないし、ウォーカーの倒し方も知らず、自然の食べ物の見分け方も分からない。けれど、ここの人々は誰も、彼女たちを爪弾きにしたり、見捨てたりはしなかった。今や二人はウォーカーの手をかい潜って物資を調達し、森から食べ物を採ってきて、川で洗濯まで出来るようになった。
悲惨な世界でも、ここだけは和やかで居心地がいい。全てがバランス良く回っているのだ。全員が協力し合い、助け合い、感謝し合っている。
「り以子」
男が呼ぶと、彼女は茸を裂く手を休めて、体ごとこちらを向いた。ペットの子ウサギみたいだった。そして男と目が合うと、奥ゆかしく微笑みを浮かべるのだ。
「カーティスさん」
ここは完璧だ。完璧な世界だ──カーティスは愛していた。この小さな世界を、グループの皆を──そしてとりわけ、異国人の少女を。
ライフルや拳銃を乱射する音がしている。薬品の臭いが混じったかび臭い空気が満ち、起き抜けの目にじりじりと沁みた。り以子はパジャマ姿で、無骨なベッドの硬いマットレスの上に仰向けになっていた。高さの合わない枕のせいで、首の付け根が酷く凝っている。そればかりか、全身が、寝過ごした日曜日の寝起きのように鈍り、節々が軋んで怠かった。
ベッドは頭側の壁以外の三方向を、薄汚れた分厚いカーテンを閉めて遮られていた。枕元には作りかけの真っ白な千羽鶴と、清潔な高校の制服がきちんと畳んで置かれていた。この丁寧さは、きっとキャロルだろう。サイドテーブルには、アメリカらしい味がしそうな豆料理の空き缶がちょこんと置かれ、素朴な花が生けてある。ささやかな花弁はまだ瑞々しい。見舞いはつい最近のことのはずだ。
しかし、り以子の見える範囲に仲間は誰もいなかった。仲間どころではない。全く生者の気配がしないのだ。
「誰か?」
り以子は恐る恐る声を上げた。誰も答えない。もしかして無人なのだろうか?──り以子は枕元をまさぐってナースコールを探したが、折り鶴が指先に触れただけだった。
仕方なくり以子は自力で動き出したが、腕を使い、ヘッドボードにすがって上半身を起こすのに、一年分の体力を使い果たした気がした。動くと側頭部に引きつったような違和感が蘇る。
「すいません、誰か……?」
二度目の呼びかけは途中で切れた。どこかから、女の人の鋭い叫びが上がったからだ。くぐもっていて上手く聞き取れないが、「助けて」と言っているのは確かだと思った。
それよりもさらに遠くで、攻撃的に怒鳴り散らす声が複数聞こえた。り以子は思わずビクッとして声を漏らしてしまった。どうやらこの建物のすぐ裏で、激しい戦いが起きているみたいだ。
り以子は体にかかっていた薄いタオルケットを剥ぎ、パジャマを脱いで制服に着替えた。頭に巻かれた大げさな包帯は、外してもいいのか分からなかったのでそのままだ。空き缶から花を引き抜いてジャケットの胸ポケットに差し、千羽鶴は腕にかけた。ローファーは綺麗に磨かれ、左右揃ってベッドの下に備えてあった。
身支度を整えたら、カーテンの隙間をほんの少しだけ指で広げて、そっと外の様子を窺った。想像だにしなかった、ごちゃっとした場所だった。秩序なく窮屈に押し込まれたベッドが、あり合わせのカーテンや衝立でかろうじて隔てられている。しかし、そのほとんどが無人の状態だ。部屋の向こう側に一枚だけ扉があり、そこについた小さな窓から、うっすらと廊下らしき薄暗がりが覘いていた。
り以子は一旦カーテンの内側に向き直り、なるべく音を立てないよう心がけながら、何か武器になるものはないか探した。ベッドの下やサイドテーブルの陰まで隈なく見たが、目ぼしいものは何もなかった。り以子の刀もない。
仕方なく丸腰のまま、り以子はするりとカーテンの外へ滑り出た。腰が軽くて落ち着かず、つい手をやってしまう。
誰もいないと思ったが、まだ残っている人たちがいた。年寄りや、意識のない怪我人、病人たちだ。避難を手伝ってくれる身寄りがいなかったのだろう。弱り果て、蚊の鳴くような声で呻きながら、僅かに動いている人々を複雑な思いで見つめていると、その時、外で激しい大音が響き渡った。何か巨大なものが倒れたみたいだ。
「退け!逃げろ!」
大勢の悲鳴に混じって、そんな風に叫ぶ声が聞こえた。地鳴りのような音が急速に建物に近づいてきているのが分かる。
よからぬ事態になっていると、直感で分かった。音の聞こえる方向を扉越しに見つめながら、努めて冷静に考える。一刻も早く、このよく分からない部屋から脱出しなくては……。
り以子は足音を立てずに窓際へ向かい、ガラスから外を覗き込んだ。幸い、部屋は二階だった。上手く綱を伝えば、無理なく地上へ降りられるかもしれない。だけど──り以子はもう一度病室の人々を顧みた──この人たちにそれは出来ないだろう。とはいえ、り以子が彼らを連れて窓から脱出するのも厳しいことだ。
り以子は雑然とした室内をギザギザに縫って突っ切り、薄汚れた壁に恐る恐る耳を寄せた。女性の叫び声がしたのは、この壁のすぐ裏のはずだ。けれど、今は何も聞こえなかった。既に逃げ出したのだろうか。それとも……?確認する方法は一つしかないが、その選択をする踏ん切りはなかなかつかない。この部屋の外に何があるか分からないのだ。一寸先が闇のように感じられた。もしかしたら、『奴ら』がいるかも。それか、物凄い音を上げている銃の持ち主と鉢合わせてしまうかも……。
ところが、意外にも早くり以子の躊躇を吹き飛ばす出来事が訪れた。
何かが急接近している。慌ただしい靴の音が廊下を渡っているのだ。そしてその人物は、り以子にどこかへ身を隠す隙も与えず、勢いよく扉を開け放った──。
リックが開け放った扉は、勢いに乗ってレールを滑り、枠に当たって激しい音を立てた。不躾な登場を咎める者はいない。リックは跳ね返って少し戻った扉に肩をぶつけながら、崩れるように中へ押し入った。
──誰もいない。
リックはその一瞬、頭が真っ白になった。全てのベッドが空になっている。そこに眠っていたはずなのに──り以子のベッドはもぬけの殻だった。カーテンは全開で、見落とすはずがない。
ベッドの脚や衝立、あちこち蹴り飛ばしながらよろよろと病室を横切り、膝をついてり以子のベッドにかじりついた。そして、皺の寄ったシーツをべたべたと触った。冷たくなっている。
「……り以子!」
ひっ迫したリックの怒鳴り声が、無人の部屋にワンワンと反響した。
「り以子!」
もう一度呼んだ。返事はない。
リックは大きな掌で口元を覆うように拭った。そうしないと、こみ上げる不安と混乱を吐き戻してしまいそうだった。
階下で巨大な破壊音がしたのが分かった。とうとう建物内までウォーカーに踏み込まれたのかもしれない。きっとここも長くは保たないだろう。リックはふらふらと危なげな足取りで立ち上がり、一度大きく深呼吸をした。冷静に……落ち着いて──何か手がかりを探すんだ。きっと何か残されているはずだ……。
リックはベッドの上をもう一度探った。なくなったものを数えていく。着替えの制服、見舞いの花と千羽鶴、それから──リックは瞬間的に動きを止めた──靴がない。
リックの頭の中に、一つの可能性が浮かび上がった。念のため、屈んでベッドの下も確認したが、やはりどこにもない。着替えと靴がなくなっている。それに気づいたリックの心臓は、早鐘のように激しく鼓動し始めた。
「──り以子!」
部屋を見渡す。廊下に飛び出す。その果てへ目を凝らす……。
「り以子ー!」
そこでふと、リックは足元に小さなものが落ちているのに気づいた。ここへ来る時は見落としていたものだ。屈んで拾い上げると、真白のささやかな折り鶴だった。千羽鶴の一つに違いなかったが、その鶴は翼を揚々と水平に広げ、胴体をぷっくり膨らませていた。
「いなかった?いなかったってのはどういうことだ!──必ず連れて来ると言ったろ!」
恐らくそうなるだろうと覚悟はしていたが、り以子を連れずに待ち合わせ場所へ現れたリックを、ダリルは激しい声色でこっ酷くなじった。パンチやナイフが飛んでこなかっただけましだったかもしれない。Tドッグとハーシェルに宥められながら声を荒げるダリルに、リックは呻くように弁解しなければならなかった。
「俺だってそのつもりだった──カーティスに先を越されたんだ。病室に辿り着いた頃には、ベッドはもぬけの殻だった」
「最悪だ」
嘆くTドッグを乱暴に払いのけながら、ダリルは宙空に向かって「クソったれ!」と吐き捨てた。
「あんたに任せるんじゃなかった。俺が行けば間に合った!」
「ダリル、落ち着いてくれ──」
「……見舞いには来なかったくせにね」
ベスのぼやきはごくささやかなものだったが、言葉の切れ目にタイミングよく嵌まり込み、不運にもダリルのもとへばっちり届いてしまった。ダリルが鋭く睥睨すると、ベスはばつが悪そうに目を逸らした。
険悪なムードが漂っていた。数日間のストレスが沸点を超えてしまったのかもしれない。誰もが誰かに不満を抱き、それをぶちまけないよう糸一本ほどの理性で堪えていた。
無言の睨み合いの後、ダリルが急にバイクへ向かって動き出した。
「俺は戻る」
「……ダリル」
リックがわがままな子供をたしなめるように呼び止めても、ダリルは聞きやしなかった。
「私も行く」
今度はベスだった。バイクに跨るダリルには目もくれず、徒歩で来た道を引き返そうとしている。当然、ハーシェルが許さなかった。
「ベス、お前は残れ」
「二人ともだ」と、リックがダリルにも釘を刺した。
「なぜ?」ベスが息巻いた。「カーティスが病院にいたなら、マギーとグレンも戻ってたかも。きっと私たちを捜してる」
「仮にそうだとしても、もういない。敷地中ウォーカーだらけだった──あの二人なら命を優先したはずだ」
リックの説得にベスが完全に納得したかどうかは怪しかったが、少なくとも、引き返すことは断念したようだった。問題は、ダリルの方だ。ダリルはキャロルの懸命な制止を振り切り、今にバイクを発進させようとしていた。
「ダリル。よせ」
「今度こそ止めても無駄だ」
それでも、リックはしつこく繰り返した。「よすんだ」
その時、リックはダリルの理性の糸がブツリと途切れる瞬間を目撃した。
「人殺しに連れてかれたんだぞ!あの子は抵抗もできない!奴はペテン師だ!クソったれどもの餌にされるかも──」
「奴はり以子には手を出さないはずだ」
「気休めだ!保証はあるのかよ!」
リックは瞬間的に押し黙った。確信を持って反論することが出来なかった。
それよりも、ずっと気にかかっていたことがあった。リックは、ダリルの激昂した鋭い視線を浴びながら、ズボンのポケットに片手を突っ込み、しまい込んだ折り紙の折り目をなぞっていた。頭の整理がまだついていないせいで、どう切り出したらいいか分からない。
「──靴がなかった」
ダリルは一瞬、何かを言い返そうとして、少し遅れたタイミングで顔をしかめた。
「……何だ?」
「り以子の靴だ。履いて逃げた」
全員が黙り込んだ。リックの言葉の意味するところを、いまいち測りかねていたのだ。
「カーティスが持って逃げたんじゃない?」カールが横槍を入れた。
「制服がなかった。花と……千羽鶴も。寝てる少女を連れて逃げるのに必要ないはずだ。彼女は自分で服を着替え、見舞いの品を持って、靴を履いて逃げた」
キャロルがあんぐりと口を開けっ放しにしてリックを凝視している。リックは逸る気持ちを生唾と一緒に飲みくだし、口早に続けた。
「目を覚ましたんだ」
そうだ──リックは頭の中でもう一度繰り返した──り以子は目を覚ました。間の悪いことに、誰の目もないところで。そして、自分たちはまた彼女を置き去りにした。みんな雷に打たれたような顔をしていた。中でも、ダリルの愕然とした表情がやたらに目についたが、リックは構わず、病院で回収した手がかりをポケットから取り出した。
「敷地にはこれが」
「折り鶴?」ベスが八の字を寄せた。
「千羽鶴の一部だ。病室の廊下と階段、駐車場にも落ちてた。森の中に続いてる」
「その先を辿れば、り以子がいるかもしれないってこと?」
キャロルが期待を込めて訊いたが、ローリは浮かない顔をした。
「誰かの罠かも」
「そりゃないさ」と、Tドッグ。「この状況で、誰が何のために俺たちを嵌めるってんだ?」
「辿ってみる価値はある」
言うが早いか、ダリルはクロスボウのベルトを背中に回した。いつの間にかり以子の刀もベルトに差していて、いつでも探索出来る態勢が整っていた。
「安全圏に逃げたなら、俺たちもそこへ行くべきだ──ここは廃病院から近すぎる」
「どうして安全だって断言できるの?」
ローリが食い下がった。すると、ダリルはさっきまでの苛立ちが嘘のように軽い調子で肩をすくめ、事も無げに言い放った。
「鶴が無傷だろ」
腑に落ちたような、落ちないような微妙な心情の女性陣を残し、ダリルは森へと歩き出した。