千鶴とて、まったくの考えなしというわけではなかった。

 男性に囲まれるなか、年若い娘が恥を忍んでまで【お手洗いに行きたい】と申し出たのは、本当に尿意を催したからではなかった。部屋を出て屋敷内を探り、新八と神楽の無事を確認したい。あわよくば取り返しのつかないことになる前に逃がしてやりたい。これは2人のうち、千鶴にしかできない仕事なのだ。暢気そうな表情の裏で、千鶴はそれを自覚していた。

 応接間の襖が閉められると、涼気はぱたりと遮られた。途端にムッと纏わりつく蒸し暑さに、千鶴の白い肌を一筋の汗が滑る。

 …いや、汗というか、冷や汗だ。
 千鶴とて、まったくの考えなしというわけではない。
 考えてはいるのだ。ただ、切なくなるほどに詰めが甘いだけで。

「では千鶴様、厠までご案内致します」
 芦田が言った。

(どうしよう!芦田さんがついてきたらお屋敷の中を探れないィィイイ!!

 千鶴は頭を抱えて心の中で絶叫した。

 いやでも、よくよく考えたらコレめちゃくちゃ自然な流れだ。こんな広い家で、初めて来た客に向かって【あ、厠ならそこの廊下出て2つめの角曲がったあと向かって右に曲がって…】なんてクチで説明するわきゃないんだ。やってしまった。完ッ全に見落としてた。もう完ッ璧寺子屋の友達のお家に遊びに来てる感覚だった。

「千鶴様?どうかなされましたか?」

 ショックで立ち尽くすしかない千鶴に、芦田が怪訝そうに声をかけてくる。

「あっ、いえ!何でもありません……」

 千鶴は慌てて平静を装った。【では、】と歩き出した芦田を追って、とたとたとついていく。

(どうしよう……何か、芦田さんをうまく撒く方法ないかな…)

 眼前の揺れる髷頭を見上げながら、こっそりと溜め息をつく。

 銀時は今回の計画の要だ。ちょっとでも怪しまれる行動は絶対に取って欲しくない。ここは自分が動かなきゃ…!——強い使命感に駆られた千鶴は、ぐっと表情を引き締め、必死に頭を働かせた。

 それからしばらく経たないうちに、芦田が立ち止まった。

「こちらです」

 軽く頭を下げながら示した先には、厠らしき引き戸。千鶴はお礼を言ったあと、頭を下げたままの芦田のつむじに向かって話しかけた。

「あっ、あの、芦田さん!」
「はい」
「そ…その……えっと、私、1人でさっきのお部屋まで戻れますから、その、帰りは案内していただかなくて結構です」

 思い切って言ってみると、芦田は不審そうに片方だけ眉を吊り上げた。

「……そうですか?」

「ええ!」千鶴は力いっぱい頷いた後、気まずそうに目を背ける。「それに、待ってていただくのも申し訳ないですし…」

 芦田は数秒の間考え込むようなそぶりを見せたが、やがて愛想笑いを浮かべて【分かりました】とうなずいた。

 ——やった!
 千鶴は目をきらきら輝かせた。これで屋敷内を調べることが出来る…!

「では先ほどの応接間で」

 恭しく頭を下げた芦田が踵を返すのを見送ってから、千鶴は一旦厠に引っ込み扉を閉めた。

 応接間へ引き返す道の途中、芦田は前方から歩いてくる人影を認めて足を止めた。源之介だ。芦田が壁際に寄ってスッと頭を下げる。源之介は芦田を少し通り過ぎたところで立ち止まった。

「…芦田。お前1人か」
「はい。千鶴さまをご案内しましたので、一度応接間へ戻ろうかと」
「そうか」
「源之介さまはどちらへ…?」

 源之介はちらりと目玉を動かし、芦田の顔を一瞥した。それは応接間では見せることのなかった、感情の見当たらぬ冷たい表情だった。

「……例のガキ共は、【あの部屋】を見たのか?」
「はい」芦田は顔を曇らせて頷く。「だから景の字に子供達を捕らえるよう命じたのですよ」
「そうか…」

 源之介が再び歩き出した。そして、立ち止まったままの芦田に向かって、声を投げかけてくる。

「芦田、お前も来い」
「…は」
「【あの部屋】を見られちゃァ、二度とここから出すワケにいかない。かわいそうだが——」

 源之介は袖の中に手を突っ込んで、黒光りする何かをそっと引っぱり出した。

「——ガキ共にゃ死んでもらう」

 それは、サイレンサーを取りつけた拳銃だった。

「……さむ」
 銀時は引きつった顔で男を見た。

 芦田は千鶴に付き添って厠に行ってしまった。源之介とかいういけ好かない男も、新八と神楽——と思しき2人組——の様子を見ると言って部屋を出て行ってしまった。今この部屋にいるのは、銀時と、奇妙な風体をした用心棒の青年のふたりきり。完全に身動きが取れなくなってしまった。ここはおとなしく、千鶴あたりが戻ってくるのを待っているしかないだろう。

 とはいったものの……。

(超気まずいんですけど)

 ちょっと肌寒さを感じるのはクーラーが効きすぎているせいではない。この用心棒から発せられる冷たい空気。それが原因だ。

(千鶴ゥウウ!お願いだから早く帰ってきてェェエ!気まずい!気まずすぎんだよこの空間ンンン!何この子!? 目合ってないのにめっちゃ睨まれてる感じすんですけど!なんか殺気的なモンくるんですけど!すんげェ【俺お前嫌い。早く帰れ】オーラ出てんですけど!俺だって早く帰りてェっつーの!つーかそんなに気に食わねェならお前が出てきゃァいいじゃんかよォ!!

 銀時は拳を口に当てて【ォホン】と咳払いをした。用心棒は部屋の入口に正座し、まっすぐと前を向いている。銀時の方には目もくれない。

「………」

 千鶴はまだ来ない。というか、さっき出て行ったばかりだ。この家は広いし、女は一度席を立つと長いし、まだしばらくは帰って来ないだろう。

「……ゴホン…」

 銀時はこの重くて居心地の悪い空気を打壊すべく、もう一度咳払いをして、勇気を振り絞って話しかけてみることにした。

「……い、いやァ〜、いい天気っすねェ!」
「そっすね」

 ………。

(そっすねェェエエエ!!

 チーン。会話終了だ。銀時は石化した。
 いやいや、まだだ!銀時はブンブンと首を振って石化を解除した。

「あ、なんか聞いたんだけどォ、おたく、用心棒やってんだって?」

 硬直気味の表情筋を必死に働かせ、なんとか笑顔を繕う。

「………」返答はない。しかし銀時はめげなかった。
「こんなでっけェ屋敷の警備丸々任されてるみてェだし、あんた結構できる子?」
「………」
「まだ若いのによくやるねェおたく。ここって結構大企業なんじゃねェの?はーっ、羨ましー。え、月収いくらくらい貰ってる?貯金いくら?やべ、すんげー気になってきた。大体でいいから教えてくんない?あ、もちろん秘密にすっからァー」

 溜め息をつかれた。畜生。それでも銀さん負けない。

「その刀さー、竹光ってマジ?えっ、ホントに竹光なの?すっげ、やっべ、クオリティたっけ!なにコレ?映画の撮影かなんかで使う用?ちょ、銀さん触ってもいい?抜いてみてもいい?何なら素振りさせてもらえない?」

 どうだ!この押し付けがましいテンション!流石にこれくらいグイグイいけば、向こうのペースも崩せるだろう……。

「やだ」
(やだァァアアア!!

 カンカンカンカーン。試合終了だ。銀時は真っ白に燃え尽きた。

 あーもうマジで誰か早く帰ってきて。この人キャッチボールできなさすぎ。人が意気揚揚と投げたボールを、グローブもつけずにひょいとかわしやがって。感じ悪い通り越して怖いんですけど…。

 がっくり項垂れ、畳の目に向かってブツブツ呟いていると、十数秒後、意外なことが起こった。

「……あんた」

 不意にかけられた言葉が誰のものなのか、銀時はすぐに合点がいかなかった。

「へ」

 つい間抜けな声を洩らしてしまう。用心棒は依然として正面を向いたままだったが、目深に被った笠の下から僅かに視線を感じた。

「あんた、俺がさっき捕まえた万事屋のガキ共の仲間か」

 それは【質問】というより【確認】だった。やはりこの男は、銀時たちが何を企んでいるのか勘づいているらしい。だからといって認めるわけにはいかないが。銀時は表情筋一つ動かさず、気の抜けた顔のまましらばっくれる。

「あー?何?何の話?」
「………」
「ガキ共なんざ知らねェっつーの。つーか、何?ガキの悪戯も見逃せねェなんて、随分と器の小せェ旦那だなァ、源之介さまってーのは。人様に見せられねェマズい部屋でもあんのかよ」

 用心棒からは何のリアクションもない。妙だな——銀時は悟られぬ程度に眉根を寄せた。こいつ、恩返しのために仕えてるという割に、テメーのご主人皮肉られて何ともねェのか?

 用心棒はやっぱり正面を向いたまま背筋よく正座していた。腹の底で何を考えているのかサッパリ読めない。笠の下が底なしの暗闇のようで、銀時は少し寒気がした。

 とたとた…。
 軽やかな足音が鳴り渡る。

 千鶴は何もせずに厠を飛び出した後、早足で屋敷中を探し回っていた。何枚も襖を開けては閉じ、開けては閉じを繰り返し、人の気配のする部屋は耳をくっつけて、新八達の声がしないかどうか確かめた。だが、どこにもいない。結局、千鶴と銀時が招かれた母屋にはそれらしい気配を見つけることは出来なかった。

「新八くん…神楽ちゃん……」

 胸に不安が溢れ出す。千鶴はぽつりと呟いた。

「ううん……二人の方がきっともっと不安なはず。私が見つけてあげなくちゃ…」

 まだ見ていない箇所がある。同じ敷地内にある、離れだ。

 結果から言うと、新八と神楽は見つかった。

 千鶴が睨んだ通り、母屋ではなく離れの一室に閉じ込められていたのである。しかし、残念なことに、そこは千鶴が足を踏み入れていいところではなかった。

「ち、千鶴…さん……」
「……新八…、くん…?」

 ——二人の声がする!
 意気揚揚と襖を開けた千鶴は、今まさに源之介の手で射殺されようとしている、真っ青な顔の新八と目が合った。

「千鶴ーッ!逃げるアル!」

 新八と背中合わせになっていた神楽が、血相を変えて叫んだ。

「え…?」

 千鶴は状況がうまく呑み込めず、ぽかんとした表情で源之介を見上げた。源之介は銃口を子供達に向けたまま、どんよりとした暗い目をゆっくりと千鶴へ向けた。

「源之介…さん……?」

 千鶴は、源之介がそんな色の目をしたところを見たことがなかった。いつでもやさしく、紳士的な源之介。だが、そこにいるのはまるで別人だ。

「ど、して——」
「……なぜお前がここにいる」

 叩きつけるような問いかけに、千鶴の言葉は遮られた。

「やはりこのガキ共はお前の仲間だったか」
「…え」
「残念だ、千鶴。お前の事は結構気に入ってたんだがなァ」

 その手に握られた銃がゆっくりと鎌首をもたげて、千鶴の眉間にピタリと宛てがえられた。新八と神楽が口々に何かを叫んだのが聞こえたが、頭の中が真っ白で、言葉の意味まで理解することは出来なかった。

「もはやお前らを生かしておけなくなった。芦田、景の字に連絡をとれ——」

 源之介の目がぎらりと狂気を帯びた。

「——坂田銀時を殺せ、とな」

 ——ピリリリリリッ。

 空気を切り裂くように鳴り響いた音に、銀時はびくりと肩を強張らせた。銀時は携帯電話を持っていない。となると、持ち主は——銀時は部屋の入口へ目を滑らせた。ビンゴ。用心棒は袖の中に手を突っ込むと、けたたましく着信を告げる携帯電話を引っぱり出した。

「はい」

 用心棒がボタンを押して耳に当てると、やかましい音はピタリと鳴り止んだ。

「オイオイ仕事中だろ?携帯の電源切っとけよ」

 銀時の茶々は無視された。

「……了解」

 それだけ言うと、用心棒はもう電話を切ってしまった。なんだ、業務連絡か。銀時は携帯電話を仕舞う用心棒から興味なさそうに目を逸らし、茶の残りを啜ろうとした。湯呑みを口元へ持っていったところで、そういえばとっくに飲み干してしまったことを思い出す。

「坂田銀時」

 視界の端で、青年が刀を手に立ち上がった。銀時は空っぽの湯呑みを掲げて振り返る。

「……あのォー、すいませーん」


「悪いがてめぇには消えてもらうことになった」
「悪いんだけど茶のおかわりもらえませんかね」