「宝生さん…!」
 千鶴がその名を呼んだ時、宝生景時の周りには、無数の敗者が転がっていた。

「え……イヤ…、………誰だし…」

 誰もが口を挟みづらい雰囲気の中、果敢に斬り込んでいったのは掠れた声の新八であった。

「……え…、いやホント何この感じ…。なんかスゲーいい雰囲気のとこ水差すようで悪いですけど、【誰おま感】スゴすぎてこっちは全然納得できないっていうか……」
「………」
「そもそもその人僕らのこと叩っ斬ろうとしてましたよね?…いやいいんですけど。千鶴さん守ってくれてホント助かりましたけど。え、でも、もしかしなくてもこの人千鶴さんだけ助けて僕らのことは見殺しにするどころか直接手下す気満々でしたよね?」

「新八……」

 銀時は血だらけの手で口を覆い、感心したようにメガネを見つめた。

「お前スゲーな…。よくそこまで正直に言えたな。何その空気の読めなさ。銀さんビビったわ」
「さすがメガネアル」
「やかましいわ。そっくりそのままのし付けてお返しすんぞその言葉」

 新八がズバッと切り返した。
 それから、ゴホンと咳払いをして件の2人に目を戻す。千鶴と、彼女に【宝生】と呼ばれた男は、自分達と銀時達との温度差にようやく気づいたところのようで、十数秒前の決めきっていた己を酷く恥じていた。

「千鶴さん、ホント誰なんですかこの人。時空を超えた感動の再会みたいな雰囲気でしたけど」
「うっ…」

 千鶴は青ざめた表情で目を逸らす。まるで【そこは突っ込まないでくれ】と言わんばかりの様子に、新八達は首を傾げるしかなかった。

「……数年間、同じ人に仕えていた。それだけの仲だ」

 宝生景時は流れるような手つきで刀を収め、さらりと告げた。

「あ、職場が一緒だったんスね」

 それにしては、気軽に踏み込めないような2人だけの世界があった気がしたが——いま食い下がるのは野暮に思えて、新八もそれ以上の追及はしなかった。

「そんなところだ」景時は涼しげな目でちらりと銀時を見やった。「ところで、まぁもう知ってるとは思うが、俺は源之介さんに一宿一飯の恩があってな。あいつの命には逆らえん」
「まだ言うか!」新八は呆れた。

 源之介は、そこら中に転がっている意識のない男達の真ん中で腰を抜かし、唖然とした表情で景時を見上げていた。

「う、裏切り者が…!」
「ホラ。あなたがどういうつもりかは知りませんけど、しっかり裏切り者認定されちゃってますよ」

 新八が言う。景時は【参ったな】といわんばかりの弱りようで、さらさらとした指通りのよさそうな黒髪をぐしゃりと掻いた。

「源之介さんよ。俺は雪村の身の安全さえ保障してくれりゃあ、一応あんたがたの味方を——」
「信用できるかァ!」

 源之介のツッコミはもっともだった。

「こりゃちょうどいいや」

 気の抜けた声を上げたのは銀時だった。肩からは相変わらずとめどなく出血していたが、さっきまでの虚脱っぷりが嘘のようにものともしていなかった。

「おい兄ちゃんよ。千鶴守っといてくれや。ここまで片付けてくれりゃ、後は楽なモンだ。俺達の身は俺達自身で守るさ」
「銀さん…!」

 立ち上がろうとした銀時の袖に、千鶴はハッとしてしがみついた。

「無茶です!こんなに血が出てるんですよ」
「これぐらい大したことねェって。ハンデだ、ハンデ」
「なんですか、それ」

 銀時はうざったそうにヒラヒラと手を振って千鶴を払おうとするが、千鶴には通用しなかった。

「とにかく、ここは宝生さんに任せてじっとしていましょう」
「いやアイツ俺らのこと助けてくれる気ゼロだからね。俺だってあのヤローに借り作る気ゼロだし」
「大丈夫です!宝生さんはお強いですから」
「アレ?千鶴俺の話聞いてる?」

 聞いてない。

「宝生さん!お願いです——手を貸していただけませんか?」

 澄んだ瞳にじいっと見つめられ、景時は僅かに怯んだ。

「……雪村、あのな…俺は——」
「お願いします!」

 千鶴が駄目押しでたたみかける。

「………」

 景時は苦そうな顔をして千鶴から顔を背けた。その甘酸っぱい反応を、銀時も新八も神楽も決して見逃さなかった。

「おやおやァ?」
「お兄さんもしかしてェ…」
「千鶴にホ——」

 の字、と続ける前に、銀時の額に脇差しの鞘が直撃した。銀時は衝撃でのけ反った。

「おいィィィ!! 何すんだテメー!男前の顔が台無しになったらどうしてくれんだクラァ!!
「心配するな。そのくらいでダメになるようなら元々大したツラじゃねえ」

 真っ赤に腫れ上がった額をさすりながら銀時は詰め寄ったが、景時は涼しげな顔をしてかわした。こいつ——!銀時は口元をヒクつかせた。

 銀時の嫌いなもの。それはズバリ、すかした野郎である。ついでに言うと、イケメンの。

「アッタマきた!」

 銀時は脇差しをブンと振り下ろし、新八と神楽の拘束を断ち切った。ハラリとロープが落ち、2人が自由になった手をホッと見下ろした。

「オメーの手なんざ誰が借りるか!半額レンタルやってたってお断りだね!」
「は?」
「これしきの怪我、なんてことねェっつーの!テメーはそこで女のお守りでもしてやがれ!——オイ新八ィ!神楽!」

 銀時は投げつけられた鞘をベルトに差し、抜き身の脇差しをザッと構えた。

「行くぞ!」
「はいっ」
「おうヨ!」

 万事屋3人が飛び出す。源之介は【ヒッ…】と引きつった声を上げて後退りした。

「やっ、野郎ども!かかれェ!」

 源之介の掛け声で、彼を庇うように何人もの大男が躍り出た。それでも万事屋は怯まない。銀時が身体を捻って脇差しを振り回し、新八は攻撃をかわして武器を奪おうと木刀に掴みかかり、神楽は高らかに声を上げながら男達を蹴散らしていく。

「す、すごい…!」

 千鶴は圧倒的な3人の力を前にあっけにとられていた。

「あーあ…。俺の職場が…」

 景時の台詞は、言葉こそ悲しげなものだったが、その口ぶりはというと、現状をちょっぴり楽しんでいるようでもあった。

 新八は大男の鳩尾にドスッと足の裏を叩き込むと、その手から木刀をもぎ取った。そして振り向きざまに背後にいた別の男に斬りかかる。その側で、銀時が脇差しで3人の男を一太刀で薙ぎ払った。神楽は、気絶した男の腕を掴んでグルングルンとぶん回し、全周囲にいる男達を力任せに吹っ飛ばしている。

 総崩れだ。

「…新しく探すしかないみたいですね」
 千鶴が苦笑した。

「くっ…クソォ!」

 源之介は目に見えて狼狽していた。無理もない。自分の部下が次々と倒されていくのだ。そんなさまを見せつけられて、平静でいろというほうがおかしな話だ。彼は地面に落ちていた拳銃を拾い上げると、芦田を乱暴に呼びつけた。

「オイ芦田ァ!何ボサッとしてやがる!ここは引くぞ!!
「は」

「あっ…」——千鶴が小さく息を呑んだ。このままでは、源之介と芦田が逃げてしまう。

 だが、どうすべきなのか千鶴には判断がつかなかった。あの2人が逃げ出したところで、こちらには追いかける理由も目的もない。この社会において【悪】とされる事をしでかしている男だ。捕まえて罰するべきなのかもしれないが、それは千鶴達や万事屋の仕事ではない。まして相手は銃を持っている。深追いすればきっと痛い目を見る。こちらに害がないのなら、放って置けばいいのだ。

 ただ、イマイチ釈然としないだけ。
 ——なのだが、どういうわけか、そこが一番問題のような気がした。

「仕方ねえな…」

 曇った千鶴の顔を見て苦笑まじりに溜め息をついた景時は、腰の刀に手を伸ばし、その柄をガシッと掴んだ。

「宝生さん…?」千鶴は景時を見上げて首を傾げる。
「お前はそこで待ってろ」

 ザッ…——景時の黒いブーツが前へ一歩踏み出した。親指でかちりと鯉口を切り、鈍い銀色が顔を覗かせる。

「なに、心配すんな」

 すらりと鞘を払う景時。彼の周囲を取り巻く空気が、ぴりぴりと殺気立つ。千鶴は無意識のうちに後退りをしていた。

「退職届 叩きつけてくるだけだ」

「クソッ、何なんだアイツら!あのだらしねェ浪士どころかガキどもまで…バケモノじみてやがる!——あのクソアマ…、とんでもねェ連中よこしやがって…!何もかもメチャクチャじゃねェか!! もうおしまいだ…!アイツらにチクられたら、これまでの商売全部明るみに晒されちまう!」
「源之介様。どうされますか」
「体制を立て直す。金はあるんだ…!もっと腕の確かな連中を雇って、ヤツらに報復してやる!もちろんあのバカな田舎娘もだ!目に物見せてやる!——」


「——そりゃあ聞き捨てならねぇな」

 ばさりと羽織の裾を靡かせ、源之介達の前に黒い影が降り立った。

「退職させてもらおうと思ったんだが…どうやらそれだけじゃ済まなさそうだ」


!!

 源之介と芦田が急ブレーキをかけて止まった。景時は腰のものを見せつけながら、整った顔に挑発的な笑みを浮かべた。

「俺ぁさっき確かに言ったはずだ。雪村千鶴に手を出すなら、誰であろうと斬り捨てる——ってな」

 ぞわりと空気が震える。もしもこの場にいたのがもっと賢い男だったならば、それが危険の兆候だと分かったはずだ。大人しく屈服していただろう。しかし、残念ながらここにいたのはそう褒められた人間ではなかった。

「テメェは…!」

 源之介が咄嗟に銃をかざした。銃口はしっかりと景時の眉間を狙っている。

「バカが。1人でノコノコ追いかけて来やがったのか」源之介は目が血走っていた。「残念だなァ、景時ィ。テメーはそこそこ使える奴だったが、こうなっちまった以上は捨てる他あるめェ」
「残念なのはこっちだ」
 景時は静かに言った。「もう少し利口な男だと思ってたんだが……この程度の連中に救われたなんざ、恥ずかしくてに顔向けできねぇな」
「何グダグダ抜かしてやがる!」

 源之介が声を荒げた。自分の方が明らかに優勢だというのに、景時の態度は銃を向けられた人間のそれとは思えないほど冷静で堂々としていた。

「こっちは2人、それも銃を持ってるんだ…!刀持った時代遅れの侍1人どうってことねェ!テメェのその軽そうな頭なんざ簡単に吹っ飛ばせる!」
「そりゃ困ったな」

 全く気持ちの篭っていない声で景時が言った。

「バカにしやがって…!」
 源之介が悔しげに歯噛みした。引き金に指がかけられる。
「このっ…裏切りモンが!」

 景時のまなざしが鋭さを帯びた。

「裏切ったのはあんたの方だろう」
「何…?」

 景時はすっと瞼を下ろした。黒く塗りつぶされた視界の中に浮かび上がるのは、源之介のやさしげなほほ笑み。

 景時には寄る辺がなかった。


 うっそうとした木々の合間。それが、【この世界】に来て最初に見たものだ。

 明治2年5月12日——腹を切って、死んだはずの自分。だが、生きている。息をして、身体を動かす事もできる。腹には潔い最期を物語る傷痕が確かに残っていたが、それはまるで何年も前の古傷のように、完全に塞がっていた。

 生き返ってしまったのだろうか。だとしたら、何故自分が——。

 戦の跡はどこにも見つからなかった。景時は木々の中を彷徨って、ますます混乱した。見た目には蝦夷に違いないのだ。だけども、敵も味方も侍など1人も見当たらない。

 森を抜けた景時を待っていたのは、見た事もない風景だった。目を疑うほどの高層ビルがひしめき合う、灰色の町。硬く平坦に舗装された歩道を、見た事もない生物が我が物顔で闊歩している。人間と思しき者もいたが、どいつもこいつも景時の常識では考えられないような格好をして、耳慣れない言葉を当たり前のように口にしている。

 ——廃刀令。
 ——天人。
 ——攘夷戦争。

 ここはきっと【死後の世界】。そう理解した景時は、途方もない絶望に暮れた。死は、景時を自由にはしてくれなかった。死は、新たな生の苦しみを生み出したのである。

 誰もいない、独りぼっちの世界に。

 蝦夷から何ヶ月もかけて、本州へ渡った。特に目的があったわけではない。だが、ひとつの場所に留まる気が起こらなかったのだ。時折日雇いの仕事を受けて金を稼ぎ、それでなんとか食い繋いだ。ある程度貯金が貯まったら、宿を引き払って、また旅に出た。それを延々とくり返した。ところが、仕事は、都心へ近付けば近付くほどなくなっていく。この世界の常識を持ち合わせない景時は、忙しない都会では【頭の悪い役立たず】でしかなかったのだ。

 ——君、どうした?

 気づけば、右も左も分からない見知らぬ江戸の地に倒れていた。食べ物を買う金もなく、腹を空かせて、動くこともままならなくなっていた。冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、やつれた身体から悉く熱を奪っていく。道行く人々はめいめいの事情で手一杯で、行き倒れの怪しい浪人などにかまける余裕もない。

 【生きるな】と言われているように感じた。【罪深き人斬りに生きる資格はない】と、通り過ぎる人々の目が冷たく吐き捨てているようだった。

 職がない。縁がなければ、仕事にありつけない。だから、金がない。施しを受けなければ、食べ物も服も買えない。家がない。情けがなければ、雨風もしのげない。それらを与えてくれそうな人間は、ここにはいない。景時は生まれて初めて、人は誰かの【許し】がなければ、生きていくこともできないのだと思い知った。

 ——腹が減っているのか?

 そんな中、この源之介という男は手を差し伸べてくれた。

 自分でも【怪しい】と思うほどのいでたちだった。それでも、手を取って、あたたかい屋根の下に連れていってくれた。炊きたての飯を食わせてくれた。

 ——【行く宛てがない】?…なら、ウチにくるといい。

 居場所をくれた。仕事をくれた。生きることを赦してくれた、唯一の男だった。

「俺はあんたに命を救ってもらった恩を返そうと、これまで刀を振るってきた。あんたの役に立とうと、あんたを護ろうと…そのためなら何だって斬り捨てる——それ程の覚悟があった。だが、あんたは変わっちまったな」
「黙れ——」

 源之介が震える声で言った。景時は構わず続けた。

「俺は元々綺麗な人間じゃねぇからよ…偉そうにてめぇに説教垂れる気はねぇよ。けどよ——」
「黙れ…!」
「——金のためか何だか知らねぇが、犯罪の片棒担いで、こうも薄汚ぇ野郎になっちまって。それこそが何よりの裏切りじゃねぇか」

「黙れ!!
 銃口が弾けた。

 空気が揺れる。芦田の息を呑む音が、妙に響いて聞こえた。
 ところが、炸裂した銃の先に、青年はいなかった。

「へっ…?」

 間抜けな声を洩らす源之介の背後に、黒い風が吹く。風は言った。

「もうあんたにはついていけねぇよ。ついでに雪村も嫁にはやらねぇ」

 そして、景時は、源之介に振り返る間も与えず、その手に握った竹光を一気に振り抜いた。ごうっと空気がうなる。隙だらけの首の後ろに強烈な一撃が下った。

「ぐあっ…——」
「げっ、源之介様ァ!!

 崩れ落ちる主を見て、芦田が慌てて駆け出した。景時は強かに踏み込んだ脚を軸に身体を回転させながら、たった今振り切ったばかりの刀を返す方向へ振るい直した。

「がっ…!」

 入った。芦田は背後の壁まで吹っ飛ばされ、まともに身体を打ち付けてその場に倒れ込んだ。

「これでしまいだ」

 景時は竹光を鋭く振るって血を払い落とすような動作をした後、刀身を鞘に納めた。そして、足元に倒れる2人の男を、顔は下げずに目だけで見下ろした。

「世話んなったな」