「待ちやがれ、小僧!!
 今にして思えば、あの夜の出来事こそが、彼らの運命を大きく変えた瞬間であった。

 はらはらと小雪の舞う京の夜空。文久三年、十二月——少年は華奢な腰に差した小太刀の鞘を左手で握り締めながら、息を切らせて走り続けていた。の背後には二人組の浪人——一人は刀を抜き、もう一人もすぐに抜刀できる体勢をとって、意地の悪い笑みを浮かべて少年を追っていた。

 このまま追いかけっこを続けていても勝ち目はない。少年の体力は既に尽きかけていた。どこか身を隠せる場所はないか……角を曲がった先できょろきょろ辺りを見渡したのち、少年は建物と建物の間の影にするりと身体を滑り込ませた。壁にぴったりと身体を押しつける。休むことも許されず走り続けていたため、恐怖も相俟って、胸が苦しい。荒い息を押さえ込もうと必死になっていると、すぐ傍で浪士達の声がした。

「くそっ…どこに行きやがった」

 少年は気配を殺し、浪士達のやりとりに聞き耳を立てた。

「逃げ足の速い小僧だ」
「そう遠くへは行っちゃいまい。探せ!」

 すらり、と鋼の刀身が鞘を払う音が聞こえた。そして——まずい。少年の心臓が大きく揺れて警鐘を鳴らした。足音がだんだん大きくなってくる。

「…っ!」

 向かいの白壁に、浪士の影が浮かび上がった。それは確実に少年の方へと向かって来ていた。ここが見つかるのも時間の問題だ。指先が、息が、みっともなく震え出した。もうだめ、逃げ切れない…!少年は覚悟を決めた。腰に佩いた小太刀に手を添え、その柄をぐっと掴んだ——。

 ——その時、だった。

「うわぁっ…!」
 何かを切り裂くような音と共に、苦しげな呻き声が飛び込んできた。

「与一!」

 浪士の意識が、自分が隠れる物陰とは別の場所に向けられたのを、少年は壁の影を見て気づいた。さきほどの声は、もう一方の浪士が上げたものだった。

「何なんだっ、てめぇは…!?——あああああっ!!
「ひゃはははは!」

 何か異常なことが起きている。少年の側にいた浪士が、血相を変えて駆け戻って行った。

「何…?」
 少年はそっと外の様子を覗き見た。

 斬り合いになっていた。浪士達が相手をしていたのは、異様な風体をした連中だった——だんだら模様を染め抜いた浅葱色の羽織、白髪に、暗闇で煌煌と光る赤い瞳。不意打ちで既に血に濡れている浪士に対して、情け容赦もなく、にわかには信じがたいほどの力で圧倒している。

 白髪の武士は、なんと浪士が振り下ろした刀を歯で受け止め、そのまま噛み砕いてしまったのだ。

「あっ…!」

 浪士は刀を投げ捨てた。奇声を上げながら、白髪の男が全力で斬りかかってくる。浪士はすかさず脇差しを抜き、白髪の刀を受けた。

「なんだ…!?」

 なんとか受け止めたものの、それがやっとだった。力が強すぎて、押しのけることもできない。

「ひゃははは、ひゃはは…!」

 浪士はちらりと仲間の方へ目を走らせた。そしてすぐに、見なければ良かったと後悔した。

 もう一人の白髪の男が、狂ったように笑いながら浪士の腹の上に馬乗りになり、頭部を滅多刺しにしていた。もうとっくに動かなくなっているというのに、噴き出す血をおもしろがるように、何度も、何度も…——。

 浪士は眼前の敵に視線を戻した。こちらの赤い瞳も、ぞっとするような狂気を孕んでいる。浪士の脳裏に最悪の事態がよぎった。

「…うああああっ!」
 それだけはご免だとばかりに、浪士は渾身の力で、相手の刀を一気に押し払った。そして奴が体勢を取り直す間も与えず、袈裟懸けに斬りつけた。

 浅葱色の布地から、どす黒い血が勢いよく噴き出す。男は一瞬、傷口を押さえて痛みに悶えるような仕草を見せた——が。

「ひゃーっはっはっはっは!血!ひゃはははは!」

 いっそう耳障りな、かん高い声を上げて笑い始めた。【血!血ぃ!】と、うれしそうに。しかも、たった今刻まれたばかりだというのにも関わらず、肩の傷はみるみるうちに塞がり始めている。

「な、何なんだこいつ…!」

 浪士が脇差しを構え直した。そこから先はもはや目も当てられなかった。

「うわああああああああああっ——」

 少年は口を押さえた。出鱈目に斬りつける音が、激痛と恐怖の絶叫が、狂気に飲まれた高笑いが、ひっきりなしに響き渡る。

 それらが止んだのは、少年の目の前で、浪士の眉間を刀が貫いた時だった。目を見開き、真後ろに倒れ込む浪士。確かめるまでもない。死んでいた。
 浪士は死してなお解放される事はなかった。男は真っ赤に染まった刀をぶら下げ、怪しげな足取りで死体に向かって行く。まだ斬るつもりだ。もう相手は死んでいるのに、正気の沙汰じゃない。

「ひひ、ひ…」

 男は、しかし、死体の足元まできたところで、はたと立ち止まった。

 新しい獲物を見つけたのだ。まだ息のある、新鮮な、そして弱々しい獲物を——。
 ぐりんと動いた顔が、狂った赤い目が、物陰でがたがた震える少年の姿をとらえた。

「あ…」

 少年は腰が抜けて立ち上がる事もできず、まして逃げ出す事など到底無理だった。背中を壁に押しつけて、にじり寄ってくる男を怯えた目で見上げるので精一杯だった。男の影が少年を覆い隠す。血と脂で汚れた刀が高々と振り上げられたのを見て、少年は咄嗟に目をつぶった。

 ところが、予想していた衝撃は別の場所に起こった。

「………?」

 少年は無意識に掲げていた両腕を下ろし、左から順にそっと目を開けた。

 白髪の男の心臓から、白い刀身が突き出している。小柄な青年が、男の背後から心臓を貫いていたのだ。

 男が崩れ落ちる。青年は鮮やかな手捌きで刀を引き抜き、刀身にこびりついた血を払った。少年がずっと見つめていた向かいの白壁に、赤い飛沫がびしゃりと叩きつけられた。再び白銀のきらめきを取り戻した刀は、きんと冷たい金属音を立てて、青年の右腰の鞘に納められた。

 少年は茫然と青年を見上げた。肩口でゆるやかにひとまとめにされた髪。黒い着流しの上に、白髪の男達と同じ浅葱色の羽織——しかし、先ほどの連中のように、我を失った様子はない。いたく冷静だった。

「あーあ。残念だなぁ」

 また新たな人の気配。言葉とは裏腹に、声の調子は弾んでいた。

「僕一人で始末しちゃうつもりだったのに」

 茶色がかった髪をした、長身の男。翡翠の色をした目を笑むように細めている。こちらも着崩した着物の上から浅葱色の羽織を纏っていた。

「斎藤君、こんな時に限って仕事早いよね」
「——俺は務めを果たすべく動いたまでだ」

 もう一人いたはずの白髪の男も、いつの間にか急所を突かれて絶命していた。これも、【斎藤】と呼ばれていた男の仕業なのだろうか。だとしたら、とんでもないことだ。あれだけの力を持っていた化け物を、たった一瞬で…。

 少年は早くも自分が新たな危機に面していることを自覚した。のんびりと歩いてきた茶髪の男は、腰を抜かしたままの少年を見下ろすと、ふっと表情を緩めた。それは笑顔のかたちをとってはいたが、やわらかさなど微塵も感じられず、むしろ敵意が剥き出しだった。

 二人の若い男達に警戒していた少年だったが、警戒すべきは彼らだけではなかったことを、手遅れになってから気づくことになる。

 冷たく鳴る金属音。突き刺すような殺気と共に、少年の前に新たな人影が差し込んだ。

「あ……」

 隙もなく突きつけられた剣先が、少年の鼻先で白く鋭い光を放つ。

「いいか、逃げるなよ——背を向ければ斬る」

 長い漆黒の髪が靡く。少年は息を飲んで男の姿を見つめた。ひらりひらりと舞い散る雪は月明かりに照らされ、まるで狂い咲きの桜のようであった。