事務所に戻ってすぐ、伽耶は異常に気がついた。
 部屋の明かりは落ちていた。もう日は沈み、夜の帳が落ちている頃だというのに、電気が点いていないのだ。伽耶は入口のところで立ち止まったまま、右手を壁に這わせ、指先でスイッチを見つけるとパチリと押した。一瞬のラグの後、チチッ…と音を立てて蛍光灯が光り出す。
「……?」
 伽耶は眉根を寄せた。
 部屋が荒らされている。伽耶のデスクはなぎ倒され、床に分厚い灰皿が転がっている。正面の壁には見覚えのない穴が空いていた。植木鉢は転がって土を蒔いているし、神棚は崩壊、部屋の奥にある【影山會】の看板は粉々に叩き割られている。昨日の【暁連合】の惨状を思い出させる。これも、敵の報復…だろうか。
 ——やってくれる…。
 とりあえず倒れていた自分のデスクを起こし、灰皿はソファの前のテーブルに戻した。
 おそらく、【暁連合】との戦争はこれからどんどん深刻化していくはずだ。まぁ、もともとは影山こっちから吹っかけたケンカだ。後悔も恐れも特にはない。——が。
(……面倒臭いな…)
 暴れるのは好きだ。それなのに、なんだろう、この倦怠感は。深く考えようとすると、とてもくだらない、馬鹿げた事のように見えてしまう。世話になってる組に何てことを——伽耶は頭を振って、無駄な考えを払いのけた。
 それより今はこの状況だ。みんなを追うべきか、ここで待機すべきか、二つの選択肢で迷っているうちに、あろうことかもうひとつの案が浮かぶ。もう帰っちゃえば。三つ目の案はとても魅力的な響きだったが、さすがにこれを取るわけにはいかないと、なけなしの責任感を持って押し込める。そうして数分ほど迷ったのち、伽耶はデスクの引き出しから【アレ】を引っぱり出し、ズボンの後ろに忍ばせた。

 しかし、伽耶の選択は間違っていた。
 追う事も、待つ事も、本当はしてはいけなかったのだ。伽耶は、家に帰るべきだった。

「——あ?」

 部屋を出てすぐ、伽耶は暗がりの廊下の奥にぼんやりと浮かび上がる人影を見つけた。こちらに顔を向けて突っ立っている。手に何か持っているようだ。
「誰…?」
 伽耶は目を細め、もっと良く見ようとした。
「……アネキ…」
 その声でピンと来た。あの舎弟だ。だが、どこか様子がおかしい。
「おい、」伽耶は乱暴に問いかけながら一歩踏み出した。「一体何があった。事務所がメチャ——」
 言葉が不自然に途切れる。無理もなかった。カラ…と危険な音を響かせ、舎弟が歩き出す。それは、彼が引きずる鉄パイプの端が、床をこする音だった。
「お、まえ……」
 向けられる殺気に声が震える。舎弟の顔が光に差し掛かり、その目が今ハッキリと見えた。
 ギラギラと血走った両眼。明らかな殺意を浮かべている……。
「いたぞォ!!
 舎弟が怒号を上げた。その直後、彼の向こうから大勢の怒声と足音が押し寄せてきた。
「——っ!?」
 伽耶は咄嗟に後ずさりをした。舎弟が鉄パイプを振り上げ、雄叫びを上げながら突進してくる。
 なぜ。なに。なにを…?——突然の展開を伽耶はまったく理解できていなかったが、それでもこれだけは分かった。
 ——殺される。
 伽耶はくるりと方向転換し、無我夢中で逃げ出した。当然男達は追いかけてくる。地響きのような足音と、獣のような咆哮、武器を叩き付けて威嚇する音、それらがすべて伽耶に向けられている。
「ざっけんな!!」伽耶は無意識のうちに叫んでいた。「んだよ!ふざけんなよ!——」
 突き当たりの角を曲がり、踊り場に飛び込む。そこで下り階段に向かおうとしたところ、階下から信じられない音を聞いた。サイレンだ。ビルの前で止まり、勇ましい雄叫びが一斉に突入してくる。警察サツだ…!!——「クッソ…!」伽耶は手すりを掴んで勢いよく体をひねり、一段飛ばしで上りの階段を駆けあがった。
 次の階で窓から脱出しよう。ところが、踊り場を飛び出そうとしたところで、物陰から飛び出してきた誰かと接触してしまった。それは黒い闇の中で一際黒かった。正体を把握する前に横面を殴りつけられ、背後の壁に勢いよく叩きつけられた。いきなり飛び出してきてぶん殴るとは何事だ。頭に来たが、階下から押し寄せてくる轟音を聞いてハッとする。この階はムリだ。諦めよう——。
「っの野郎…!」
 覚えてろ、と心の中で悪態をつく。伽耶は転びそうになりながら階段を駆け上がった。
 ここまで上ってしまうと、もう行く先は一つしかない。伽耶は階段を上って正面にあったドアに体当たりし、冷たい空気の張りつめる屋上へとなだれ込んだ。
「襟苑ォ!!
 息をつく間もなく、背中に飛び蹴りが命中した。伽耶は呻き声を上げて緑色の地面に転がった。
 慌てて立ち上がったところ、その頭を横からサッカーボールのように蹴りつけられ、結局地面に伏す事になる。腹をドッと踏み抜かれ、意識が飛びかけた。反撃に出ようにも、隙なく降り続く暴力の雨。手足でやられているのか、武器でやられているのか、それすら分からない。ただめちゃくちゃに痛めつけられ、喉が張り裂けそうになるほど悲鳴を上げていた。
「——ッ、」
 急に胸倉を掴んで引き起こされる。一瞬暴力がやみ、伽耶は自分の鼻と口から大量に血が流れ出ていくのを感じた。
「オラ伽耶ちゃんよぉ」
 重たい瞼をこじ開けると、ぼやけた視界いっぱいに金髪の男の顔が映り込んだ。
「キッチリ落とし前つけてもらうからな」
 ——落とし前…?何の?
 疑問は言葉にはならなかった。ドスッと腹に衝撃を感じ、伽耶は目を見開いて息を呑んだ。
 ダメだ。このままじゃ本当に殺される。そんなの嫌だ——こんな意味の分からない裏切りで殺されてたまるか…!
 伽耶は右手を持ち上げた。重たくて、緩慢な動きしかとれない。指先がぶるぶると痙攣している。その手で金髪の胸倉を掴み返す。金髪の目が怪訝そうに自分の胸元を見下ろした。そして——、
 ドスッ——。
 間抜けな額に思いきり頭突きをかましてやった。
「ゔっ——」
 金髪が呻き声を上げてもんどりうった——伽耶の襟から手が離れる——チャンスだ!——伽耶は既に限界を迎えている体に鞭を打ち、急いで二本の足で立ち上がった——金髪が仰向けに倒れ込む——呆気にとられていた構成員達が我に返り、怒りの咆哮を上げる——。
 伽耶は大きく腕を振るい、手近にいた男を殴りつけた。その隣にいた男の両肩を掴み、真後ろの男に投げつける。前方に退路確保——伽耶は横薙ぎに襲いかかってきたバットを屈んでかわしながら、地面を蹴って走り出した。
 伽耶が向かっていたのは階段を囲う建家の裏側だった。人ひとりが入れる程度のスペースがある。そこからなら、隣のビルの屋上に飛び移る事ができるのだ。もはや他に逃げ場はなく、懸けられるところはそこしかない。伽耶は全速力で走りながら、肩越しに後方を見た。怒り狂った男達が追いかけてくる。だが、建家に回り込んでしまえばこちらのものだ——。
 前に向き直ったその時、伽耶の視界が暗転した。
「——ッ!」
 蹴られた。
 不意打ちだったが、それはすぐに理解した。
 伽耶は背中から欄干にぶち当たった。が、何とか転倒は免れた。欄干を支えにして体勢を整える。見ると、あの、黒い女がいた。背の高い男といる。どちらもニット帽を目深にかぶっているので顔はよくわからない。それより伽耶の目は、女が抱きしめている細長い包みに釘付けになっていた。
 ひょっとして、これが原因で自分は追われているんじゃないだろうか。刀を盗んだという濡れ衣を着せられているんじゃないだろうか。こいつを捕まえて突き出せば、疑いは晴れるんじゃないだろうか……。
「早く!」
 男の方が叫んだ。女は聞く耳も持たず、欄干を背にしてふらついている伽耶に追撃の拳を叩き込んできた。
「冷静になるんだ!そっちに構うな!」
 その声には聞き覚えがあった。先ほど、女を取り逃がした時にぶつかった男だ。なるほど、こいつもグルだったというわけか。
「——戻るんだ!!
 追い打ちをかけようとしていた女がピタリと止まった。男は更に声を荒げる。
「戻るんだ!【あの世界】へ——」
 ——何だ…?
 おかしな言い回しと、女の只ならぬリアクション。伽耶は眉根を寄せたが、その直後、またとない好機を見つけ、余計な思考は中断させた。
 女が伽耶に背を向けたのだ。伽耶はそのがら空きの隙を見逃さなかった。
「——っ、!」
 伽耶は女の背中に飛びついて、彼女が前抱きにしている細長い包みを掴んだ。女が身をよじり、伽耶を振り払おうとする——男が手を伸ばし、女から伽耶を引き剥がしにかかった——。
「待て襟苑ォ!!
 あいつらだ!——伽耶がハッとして顔を上げると、女の肩越しに恐ろしいものが見えた。冷たく黒光りする、鉄の銃口……。伽耶は頭が真っ白になった。それは女の方も同じだった。だが、勝負に勝ったのは伽耶の方だった。火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか、伽耶は普段では有り得ないくらいの腕力を発揮し、思いきり包みを引き寄せた。そして、伽耶が包みを抱いて女を突き飛ばしたその時、
 銃声が鳴り響き、女の体がビクッと強張った。その左胸には、赤い穴があいていた。
 女の体が崩れ落ちていく。男が何かを叫びながら女のもとへ駆け寄っていく。けれど、その様子を最後まで見届ける事はできなかった。伽耶は勢い余って背中で欄干に乗り上げ、そのまま空中に放り出された。
 内臓がふわっと浮くような感覚がして、それから伽耶の体は急速に落下し始めた。目の前の景色がものすごいスピードで通り過ぎていく——…。

 地面に叩きつけられる直前、襟苑伽耶の体は歪みに巻き込まれるようにして消えた。