虫が鳴いている。

 伽耶はそっと目を開いた。あれ、真っ黒。目がかすんでいるせいか。二度、三度とまばたきをしてみるが、やっぱり真っ黒のままだ。いや、待て——伽耶は一度ギュッと目をつぶり、もう一度開けてみた。星だ。星空が見える。だけど、空以外何も見えてこないというのは一体何事か。
 体が重い。痛みと倦怠で地面に縛りつけられているようだ。それをなんとか動かして、ゆっくりと体を起こしてみる。
「——った…」
 体重をかけた右腕が悲鳴を上げた。
 一度静止し、今度は限界を確かめるようにゆっくりと動かしてみる。大丈夫、そこまで重い痛みではない。
 伽耶はぐっと力を入れ、二本の足で立ち上がった。と、革靴の先が何かに当たるのを感じた。なんだ、と眉を寄せて拾い上げてみる。細長い包み。めくって手を差し込んでみれば、指先に触れたのは冷たくて硬い感触——おそらく例の黒い女から奪い返した【影山】の頭の刀だ。
「暗いな…」
 あたりを見渡してみるが、一寸先も見えやしない。明かりと言ったら空に瞬く無数の星くらいしかないのだ。街灯も、看板やネオンも、窓から漏れる光もない。しかも、そもそもおかしいではないか。地面が土だ。自分は雑居ビルのてっぺんから降ってきたのではなかったか。だがこれでは記憶と一致しない。
(そうだ)
 思い立ち、伽耶はポケットから携帯電話を取り出した。開くと、画面から放たれる強い光が目を刺した。それに顔をしかめながら機能をいじり、LEDライトを点灯させる。小さな円形の光が現れ、伽耶の目を助けてくれた。
 が、それはさらに伽耶を困惑させることとなる。
「——な…に、ここ……」
 木、木、木…——。見渡す限りの雑木林。ビルらしきものは近くには見当たらない。
「……あァ…?」
 思いきり顔をしかめる。「…どうなってんの…?」
 とりあえずここに立ち尽くしていても埒が明かない。どうせ東京のど真ん中だ、少し歩けばすぐに見知ったところに出るだろう。伽耶は刀の包みを肩に担ぎ直すと、携帯電話のライトを頼りにおっかなびっくり歩き出した。
 ところが、だ。行けども行けども、人の気配はしてこない。携帯の画面を覗いてみるが、電波状況は【圏外】と言い張っている。
「ざっけんなよ……」
 苦し紛れに悪態をつく声は弱り切っていた。ちょっと歩いたらすぐ、なんて思っていたが、出口は見えず焦りばかりが募っていく。加えて、夜の森の中とは存外恐ろしく不気味なものだ。携帯電話のライトが照らす光の円より外は何も見えない。聴覚が過敏になり、自分の靴が小枝を踏む音や、通り抜ける風の音にさえいちいち反応してしまう。
「だーーー、もう…!」
 何度目か知れぬ「パキ…」に飛び上がってしまった後で、伽耶はとうとう探索を諦めた。
 最初からじっとしていればよかったのだ。森の中で迷子になって、あてもなくフラフラ彷徨うなど馬鹿のすることだ。その馬鹿のお陰で、目を覚ました時よりもうんと深い迷宮の奥へと迷い込んでしまったような気がした。
 考えなしの自分が嫌になる。
 伽耶はじっとりと重い溜め息をつき、手近な木の幹に背中で寄りかかった。

 ——と。

「天誅ーっ!」
 少し離れたところから、時代錯誤の咆哮が聞こえた。

 伽耶はビクッと肩を揺らし、声のした方を素早く振り返った。ここからさほど離れていないところに、オレンジ色の光の玉が浮いているのが見える。
 ——人…!
 心臓が躍り上がった。寄りかかっていた木から離れ、光に向かって無我夢中で呼びかけた。
「おい!誰か!いんだろ!?」
 その声量は結構なものだったが、彼らは内輪の揉め事に大忙しで伽耶の声には気づかない。伽耶は刀の包みを抱え直すと、もう一度「おい!」と叫びながら駆け出した。
 が、ろくに進みもしないうちに、伽耶は背筋の凍りつくような異変を感じ取って足を止めた。

 人が、倒れている。
 それも、二人。

 どちらも男だった。一人はうつ伏せに倒れ、背中からおびただしい量の血を流している。もう一人は仰向けで、首に深手を負い、無造作に投げ出された手足がびくびくと痙攣している。むせ返るような血の臭い。伽耶は咄嗟にジャケットの袖で鼻と口を覆った。
「何奴!」
 吠え立てるような声と共に、誰かが伽耶を振り返った。
 それは三人組の男だった。全員もれなく和服を装い、頭は髷、左の腰に大小を差している。先ほど見えたオレンジ色の光る玉は、彼らの持つ提灯だったらしい。このご時世に、提灯…?それも、揺らめく明かりから察するに、あれは電球でも何でもなく、火だ。
 古めかしい風体に困惑していた伽耶だが、相手の身形を不審に感じたのはお互い様だったようだ。
「な、なんだ貴様は!」
 頼りのない提灯で伽耶の全身を照らし、男が警戒を深めた。
「奇妙なナリをしおって!」
「あァ!?」
 伽耶は思いきり顔をしかめた。奇妙?何がだ。
「さては異人か!」
 何が何やらサッパリわからず、伽耶は先の「あァ!?」の口の形のままポカンと男たちを凝視した。
「何か答えぬか!こちらは【何奴か】と問うておるのだぞ!」
 三人組の一人が一歩踏み出して来た。その手には抜き身の刀——白い鋼の刃に、赤黒い汚れがこびりついている。伽耶は無意識に後退りしていた。
「もうよい。貴様が何者であろうと、見られたとあっては生かしておけぬ!」
「この場で斬り捨てる!覚悟せよ!」
 このままでは宣言通りバッサリやられてしまうだろうというのに、伽耶は頭の中が真っ白で、言葉を発するどころではなかった。男は刀を両手に構え、じりじりと近寄ってくる。後退りを続けていた伽耶だが、いよいよその退路も断たれてしまった。背中がどんと堅いものにぶつかる。ハッとして振り向くと、木の幹だった。
「……っ…」
 伽耶は青ざめた顔で男達に向き直った。あとの二人も鞘を払い、伽耶に切っ先を向けてくる。
 待って、と。言おうと開いた口からは、震える吐息しか出てこない。終わった——伽耶は完全に呑まれていた。振り上げられた刀身に向かって目を見開き、成す術もなく、ただそこに立ちすくむ。血を吸った刀は月光を受けて不気味に輝き、新たな獲物めがけて勢いよく振り下ろされた……。

「——何をしている!」
 新たな参入者の声で、刀の軌道が緩んだ。

 伽耶は僅かなその隙を見逃さなかった。後方へ転げるようにして木の裏へ回り込む。男はすぐさま追撃を仕掛けようとしたが、意外なことに、仲間内から制止の声がかけられた。
「よせ。そいつはもういい。我々はずらかるぞ」
「…しかし!」
 男は未練がましく木陰を睨みつけている。伽耶は木の幹に背中を押しつけ、暴れ回る自分の心音を聞いていた。
「早くせぬか!」仲間が急かした。「この場に捨て置くぞ」
 迷ったような足踏みの音がしたが、やがて、三人の気配は遠ざかっていった。だが、依然として気は抜けない。入れ替わりになって近付いてくる人の気配。先ほどよりも少し多い。
「こ、これは…!」
 駆けつけてきた四、五人分の足音が、伽耶から少し離れたところでためらいがちに止まった。
「いったい何が…」
「こちらの者は……手遅れだ、死んでいる」
「こちらもだ」
 地面に伏していた者達のことだろう。首に傷を負っていた男は先ほどまで生きていたようにも見えたが、とうとう事切れてしまったらしい。縁もなければ情もまったく湧いてこなかったが、血に溺れビクビクと痙攣する様を思い起こした途端、伽耶は口を覆ってその場にうずくまった。これまで【死ね】だの【殺す】だの散々物騒な口を叩いてきたが、あんなの所詮口だけだ。本物の死体を直接見たのは初めてだった。それも、あそこまで凄惨な手口でやられたものなんて……。
「そこにおる者は誰か!」
 男の一人が木の裏に潜む気配に気づき、鋭く吠え立てた。スラリ、と刃が鞘を滑る音。伽耶は口を抑えたまま息を殺し、軋む手足に鞭打って体を起こした。
「ん…?」
 提灯の光が淡く伽耶を照らし出す。
女子か……なぜこのような刻限に…」
 そう言って、男は無防備にも刀を納めた。
「そなたはここで何を?」
 先ほどより幾分か落ち着きを得た声であった。伽耶はやっぱり答える余裕がないままで、だんまりを突き返すことしかできなかった。しかし、先ほどの悪漢たちと比べると、こちらの者はずいぶんと理性的なように思えた。
「どうした?……気分でも悪いのか?」
 動けないままの伽耶を気遣って、男は遠慮がちに踏みよってくる。伽耶は反射的に体を縮めたが、その拍子に腹部の痛みがぶり返し、呻きながら体を折った。
「——傷だらけではないか!」
 男が息を呑み、ガサガサと慌ただしく葉を蹴散らしながら駆け寄って来た。地面に這いつくばっていた伽耶の肩に、男の無骨な指が触れる。伽耶はびくりと体を強張らせたが、手はお構いなしに伽耶の背へと回された。
「案ずるな」しっかりとした腕が、伽耶の体を力強く抱きとめた。「私は何もせぬから」
 どくん、と、心臓が一度大きく鳴った。
 数秒前までの警戒心が嘘のようだ。体を抱く腕は確かにあたたかく、伽耶は胸の中に凝り固まっていたものがじわじわと溶けてなくなっていくのを感じた。
「……っ…、」
 途端に、封じ込めていた痛みと疲弊感が蘇る。男の逞しい腕に支えられて、伽耶は崩れ落ちるように脱力し、そのまま途切れる糸の如くぷつりと意識を手放した。