「……ん…」

 気づくと、ベッドの中にいた。
「夢……か…」
 ふかふかの掛け布団を剥がし、マットに片腕をついて上半身を起こす。見慣れた自室だった。少し古びて変色してしまった壁紙、子供っぽい色使いのカーテン、物置と化した勉強机、CDラックに、漫画だらけの本棚、床に積み上げられた中学時代の教科書……。開けっ放しのクローゼットは洋服が溢れ返っている。
 ——よかった…。私の、家だ……。
 そう、だよね。当たり前だ。ビルから落ちて、きっと救急車かなにかで運ばれて、その後実家に連れ戻されたんだろう。暗い森の中で侍に襲われた…なんて、有り得ない。夢に決まってる。
 ほっと溜め息をひとつついたとき、フローリングの廊下を進む朗らかな足音が近付いてきた。
「伽耶ー?目が覚めたの?」
 遠慮がちに開いたドアの隙間から、見慣れた顔がひょいと覗く。
「……お、母さん…」
 呼びかけようと出した声は、みっともないほど掠れていた。少しばかり驚いて喉に手をやる。指先に布の感触——包帯が巻かれているらしい。しかもそれは首に限ったことではなかった。全身が包帯やらガーゼやらでぐるぐる巻きにされている。
「ああ、無理しなくていいのよ」
 母はやさしい声音で言った。
「あんなひどい怪我をした後なんだから。お説教は後にしてあげるから、今はゆっくり休みなさい」
「怪我……」
「あなた、ちゃーんと足を洗ったのね。お母さん嬉しくって……よく戻ってきてくれたわ…」
 ——足を、洗う。
 何の話だ。伽耶は強張った目で母親を見上げた。母親は慈愛に満ちた表情を浮かべていたが、それは伽耶の知らない顔だった。自分などには一度も向けられたことのないものだ。ひやりと背筋が寒くなる。掛け布団を握り締める手にギュッと力が篭った。
「怪我が治って何もかも元通りになったら、縁談もちゃーんと進めましょうね」
「——縁…談……?」
 伽耶はゾッとして後退りした。背中がベッドのフレームにぶつかる。
「お母さん……私、」伽耶の声は相変わらずカサカサだ。「【結婚は嫌だ】って——」
「相手の方はねぇ、とーっても素敵な方なのよ。家柄ももちろんだけど、収入だってね……」
 母親は伽耶の声など聞こえていないかのように振る舞い、好き勝手に話を進めている。
「お母さん!」伽耶は声を荒げた。「私、まだ16だよ!【もっと遊びたい】って、そう言っ——」
 その瞬間、空気が止まった。まるで、凍りついてしまったかのように。
「 あ そ ぶ ? 」
 地を這うような、恐ろしい声。母親は依然として口元に笑みを浮かべていたが、その目は大きく見開かれ、明らかに血走っていた。
「 なにをいってるの? 」
 ゆっくりと、責め立てるような口調だった。伽耶は息ができなくなっていた。

「 極道風情が 」
 伽耶は息を呑んで飛び起きた。

 まるで何百キロも走った後のように、息は切れ切れで、体も汗だくだった。ゼェゼェ言いながら胸を撫で下ろし、ほっと安堵を噛みしめる。
「……夢、か…」
 そうだ。この痛み、倦怠感。こっちが現実だ。
 確信してからゆっくりと顔を上げ、伽耶はもう一度凍りついた。
 ——襖。
 まさか……冷たい感覚に脳を支配される。伽耶は勢いよく自分の体を見下ろした。怪我に巻かれたサラシ、汚れ切ったブランドもののスーツ。そこまではまだいい。薄っぺらい布団、堅い箱枕、畳……。恐る恐る見回せば、掛け軸、ガラスのない障子の窓、天井に照明はなく、部屋の隅に行灯が置かれている。
「………は……」
 重い体に鞭を打ち、二本足で立ち上がる。
 これはやばい。伽耶は悟った。何か、とんでもないことが起きている。
「ざっけんなって…」
 伽耶は飛び出した。障子にかじりつき、力任せに跳ね開ける。すると、飛び込んできたのは美しく整えられた和風庭園。鹿威しが鳴り、金色の朝日を受けて松の葉が煌めく。いやいやいや、伽耶は声を出さずに笑った。笑うしかなかった。しかしそれもすぐに衰え凍りつく。どたどたとやかましく廊下を走り、玄関を越え、裸足のまま門の外へ飛び出した。
 絶句。
 映画でしか見たことのないような、日本家屋がズラリと連なっている。地面は舗装されておらず、土のまま。そして——ちょうど目の前を通り過ぎた人の姿に、目眩を覚えた。和装。頭は丁髷、腰に大小、靴ではなく、足袋と草履を履いている。女性は日本髪、子供は裸足、笠をかぶって歩く者もいれば、天秤棒を担いで走る者もいる。そして、誰もそれに突っ込まず、ごく自然に受け流している。
「……あァ…?」
 数十秒待って、ようやく出てきた言葉がそれであった。

 ——これはいったい、どういうことなんだろう…。
 ここはどこだ?
 何が起きている?
 分からない。何もかもサッパリ、分からない——…。

 フラフラと魂を失ってしまったかのような足取りで屋敷に引き返していると、伽耶の姿を見つけて声をかける者があった。
「あ、お嬢ちゃん」
 顔を上げてそちらを見やると、やっぱり髷を結った侍で、柄にもなく泣きたくなった。
「気がついたのかい」
 人懐っこく笑う侍。それは、昨日意識を失う直前に聞いた声とは別のものだ。知らない男。そう意識するとつい身構えてしまう。
「そう警戒しなさんなって」
 男はじりじりと後退りした伽耶を見て笑うと、少し身を引いて背後にある部屋を示した。
「ちょいと上がってくれねぇか。何、別に取って食やしねぇよ。少しばかり話が聞きてぇだけさ」
 話……伽耶はスッと目を細めた。それならばこちらも聞きたいことが山ほどある。刀は怖いが、腹をくくろう。いつまでもビビってばかりでは、【影山會】の名が廃るというものだ。キュッと唇を引き締めると、伽耶は一つ頷き、男に向かって足を進めた。
 少し歩き、ある部屋へ通された。伽耶は部屋の中をくるりと見回した。二間続きのこれまた和室で、伽耶が一晩明かした部屋よりどことなく品があった。金を張られた襖には豪奢な鶴の絵が描かれている。部屋の奥に円形の窓があり、その下には文机。男は裾をさばいて文机の前に座ると、正面に腰を下ろすよう伽耶に促した。
「…失礼します」
 極道じみた、乱暴なイントネーションの敬語で頭を下げてから、言われた通りの場所に座る。一応正座の形をとってはいるが、足は開いているし、両手は肘を外側に向かって折り曲げるようにして足の付け根に置かれている。どう見てもカタギのふるまいではない。
 しかし、男はさして気にも留めていないようだった。
「体はどうだ?」一言目は、伽耶の怪我を気遣うものだった。「まだ痛むか?」
「少し」伽耶はぶっきらぼうに答えた。
「痩せ我慢すんなよ。あんた、ひでぇ怪我だって聞いたぜ」
「昔から怪我の治りが早いもんで」
 それより、そんなことが聞きたいんじゃないだろう、と。本題を促すような目を向ける。男はしばらく伽耶を見定めるような目をしていたが、やがて、フッと気を緩めて笑った。
「おれぁ勝。かつ 麟太郎りんたろうってんだ。お嬢ちゃん、名は?」
「——襟苑 伽耶」
「……へぇ。カヤさんってのかい。随分立派な名じゃねぇか」
 そうだろうか。伽耶は曖昧に首を傾げて流した。
「で、伽耶さんは、なんだってそんな格好であんなところに倒れてたんだ?」
 聞き捨てならない。伽耶は目を細め、ぴくりと片眉を吊り上げた。
「……そんな格好…」
「あんな夜半に、お嬢ちゃんみたいな若い娘が洋装なんぞで出歩いてたら、攘夷の過激派連中に目ぇつけられたっておかしかねぇだろうよ」
 えっ——伽耶は目を剥いて固まった。【攘夷】…?
「それと、悪ぃけど荷を改めさせてもらったよ……女子が刀とはなぁ。何か訳ありかい?」
 伽耶は咄嗟に胸を押さえた。そこにある堅い感触を確かめてから、背中に手を回した。こちらも、ある。【荷】…というのは、あの時持っていた細長い包みのことを指しているらしい。細かい身体検査をされなかったのは幸いだった。怪我人だったからか。それとも、彼らが女を軽く見ている…ということか。
 ともあれ、嫌な予感がした。
 伽耶は鋭い目つきで勝を見た。勝は伽耶が口を開くのを気長に待ってくれている。ここは適当に話を合わせるべきかと考えたが、状況が意味不明すぎて、何が【適当】なのか分からない。
 伽耶は意を決し、おかしな目を向けられることを覚悟で【それ】を尋ねることにした。
「あの……今って、何年ですか」
「………」勝は笑顔のまま、その目に不審の色を灯す。「なんだってそんな事を聞くんだい」
「——や、ちょっと思い出せなくて。すいません」
 勝は不思議そうに伽耶の顔をじろじろ見ていたが、やがて何かに勘づいたように目元を和らげ、答えを教えてくれた。
「文久元年だよ」
 ——文、久…。
 伽耶は畳の目を見ながら硬直した。いつだ、それは。せっかく答えをもらったのに、これでは何も分からないのと一緒だ。【文久】って、何だ。【平成】とか【昭和】とかのような、元号のひとつだろうか。平成の前はもちろん昭和、その前は確か大正で、その前が明治。【文久】が元号のひとつなら、それよりも前という事になる。
「……江戸時代…?」
 伽耶は恐る恐る聞いた。うっかりそんな言い回しをしてしまったが、どうやら相手には通じなかったらしい。
「ここ、江戸だけど?」
 そうか【江戸時代】って後からつけられた呼び名か。しくじった、と伽耶は顔をしかめた。何と…何と聞けば今日がいつか確認できるのだろう。
 伽耶はニコニコ顔の勝を前に、口を開けたり結んだりして、慎重に言葉を探した。
「……黒船…」
 探るように言葉を出してみると、勝の顔が怪訝そうに歪んだ。
「が、どうかしたかい?」
 どうやらもう来た後らしい。
「……って、いつ頃…」
「十年ほど前だな」
 最近すぎる。伽耶からすれば、10年前は【おっはー】とかそのあたりの年代だ。
 伽耶の頭の中は、あるひとつの【もしや】に占領されていた。だが、それこそありえないことだ。心臓が激しく脈打ち、脳みそがカッカと熱を持っている。汗ばむ手をギュッと握り締め、伽耶は最後にもう一つ、決定的な事を尋ねた。
「西暦……?」
「確かー、」勝の両眼が考え込むように天井を見上げた。2009!——伽耶はその顔に向かって必死で念じた——頼む、2009と言ってくれ……。
「一八六一…だったかな」
 とたんに、全身から全ての感覚が抜け落ちていった。
 ——1861年…って……。
 「ざっけんな」と叫び散らす気も起きなかった。「あァ?」と顔をしかめる余裕もない。だって、「今何年?」と聞いて返ってきた答えが「1861年」?意味分からなすぎる。だって、それじゃまだ親どころか、祖父母も曽祖父母も生まれていない時代じゃないか。戦前・戦後どころの話じゃない。あまりにも途方がない。電気は?懐中電灯は?ベッドは?靴は?洋服は?パーマは?銃刀法は?背の高いビル、煌煌と輝く看板やディスプレイ——【当たり前】のものが何もないのに、なんでみんなそんな普通でいられるんだ。なんでみんな「おかしいのはお前の方だ」なんて態度を取るんだ。
 きっとこの時の伽耶はとんでもなく惨めな顔をしていたに違いなかった。
「どうやら訳ありみてぇだな」
 茫然とする伽耶の前で、勝の目元に憐れむような表情が浮かんだ。
「まぁ話してぇことがあんなら言ってみろよ。力になれっかは分からねぇけどよ」
 伽耶は弱々しく「すいません」と呟いた。
 夢なら、今すぐ醒めてほしかった。勝の声色は優しく同情的だったが、伽耶には惨い尋問を受けているようにしか感じられなかった。だって、本当のことを相談するわけにはいかない。「私の頭の中では、【今】は2009年のはずなんです」なんて口走ったら、「そうかい。俺の知り合いにいい医者がいてよ…」なんて話になりかねない。16年かけて築き上げてきた世の常識を、一言「ありえない」と切り捨てられるのが恐ろしかった。今までのすべてを、伽耶の頭の中だけの幻想にすぎないと言われてしまったら、自分は壊れてしまう。
「——頭…打ったみたいで」
 伽耶は俯いた。俯いて、膝の上で震える傷だらけの拳をじっと睨みつけた。
「何も、思い出せなくて……すいません」
「……そうかい」
 勝がふっと息を緩めた。今の伽耶にはもう、目の前の男を頼る以外方法がなかった。

 知人も親も親戚も生まれていない、148年前の江戸へタイムスリップしてしまったのだから。