台盤に載った【朝餉あさげ】とやらを一目見て、伽耶はさっそく元いた時代に帰りたくなった。

 漬け物、海苔、質素なみそ汁に、茶碗に山のようによそわれた白米。ほくほくと湯気を上げているが、残念ながらまったく食欲をそそられない。何が悲しくて朝っぱらからこんなに米ばかり食べねばならないんだ。大したおかずもないのに、茶碗一杯に二人分くらいの量がどっさり積まれている。
「……朝はパンだろ…」
 白い山に向かってボソボソ文句を垂れていると、食事を運んできた女中——お松が鋭い顔をした。
「…は?」
「や、」伽耶は慌てて顔を上げ、妙な空気をごまかすように勢いよく箸を取った。「い、頂きます」
 白米をわしっと箸で掴み、ろくに冷ますこともせず口へ運ぶ。熱い。はふはふと見苦しく息を出し入れしながら咀嚼する。あ、香りがいい。ふわふわだし、適度にもちもちしていて旨味もある。
「うんま」
 思わず漏らした一言に、お松は「さようでございますか」と冷たく返してきた。
 だが、いくら白米がふっくらしていようが、量には限度というものがある。現代で言う茶碗一杯分ほど食べ進めたところで、伽耶の箸はついに止まった。合間にお味噌汁や漬け物にも箸をつけていたのに、それでも白米の量は多すぎて飽きがきてしまったのだ。
 ——もう食えねぇ……こんな米ばっかり…。
 パチンと箸を揃えて台盤に戻すと、お松が目をぱちくりさせた。
「もう……よろしいのでございますか?」
 伽耶は柄の悪い目つきで「もう無理」と訴えた。
「あー夜はこの半分でいいから」
 不思議そうな顔をするお松の視線から逃げるように、伽耶は縁側に体を向けた。
「……随分と、尊大でいらっしゃいますこと…」
 呆れたようなお松の声。伽耶は「あァ?」と顔をしかめて振り返る。お松は台盤の傍らに正座したまま、片眉をつり上げて伽耶を見ていた。
「今宵からは、あなたにも夕餉の支度を手伝って頂く所存にございます。量に文句がおありならば、ご自分で用意なさるがよろしいかと」
 伽耶は目をしばたいた。今、このババァなんつった?
「てめぇふざけてんのか」
 声を低くして凄む。静かだが冷たい響きを持ったその声音は、室内の温度を一気に下げた。
「なぁバアさん、あんた、あんま舐めた口きいてっと——」
「言葉遣いが」お松が遮るように声を張り上げた。「少々、お悪うございます」
 怯みもせず、それどころか先程以上にきびきびとした態度だ。伽耶は目を見開き、その後不快そのものの顔をしてお松を睨みつけた。
「——あァ…?」
「先ほどから黙って聞いていれば【うまい】だの【てめぇ】だの……かように品のないお言葉遣いをなさっておられるようでは…失礼ながら田舎者と思われても致し方ないかと。それと——いかなる時も女子は愛嬌!そのように仏頂面をなさっていては嫁の貰い手もつきませんよ」
 ただでさえ冷え冷えとしている部屋が、さらに冷えて凍りつく。今度は伽耶のせいではない。お松の発する空気が悪いのだ。
「何より」
 お松の目尻がキッと吊り上がった。伽耶は思わずびくりと尻込みした。
「女子が胡座をかくとは何事ですか!姿勢を正しなさい!」
 雷が落ちた。伽耶はそう思った。
 一時間後、伽耶はげっそりとやつれて廊下に立っていた。
 あれからお松は伽耶を畳の上に正座するよう言いつけ、女子として好ましい振る舞いだとか、あるべき心構えだとか、伽耶からすれば【クソどうでもいいこと】をねちねち説いて聞かせた。たっぷり一時間もかけて。
「……あんのクソババァ…」
 いつか泣かしてやる。
 悪態をついた後で、ハッとしてあたりをきょろきょろ見渡す。【クソババァ】なんて、またお松に聞かれていたら厄介になりそうな単語だ。
 あたりに誰もいないことを確認して胸を撫で下ろすと、伽耶は軋む体をいたわりながら、ゆっくりと縁側に腰を下ろした。
 手入れの行き届いた庭園をぼうっと眺めながら、ふと思い立つ。そうだ、お松のことなんてどうでもいい。そろそろ、頭の中を整理する必要がある。【ここ】に来て初めて、ひとりでゆっくりと考え事をする時間ができたのだから。
 1861年。【現代】から148年前の、東京。
 ——【タイムスリップ】。
 そうした非現実的な現象を取り上げた物語なら、ドラマや映画で何度か見た事がある。とはいえ、それはあくまでも作り物のお話で、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもいなかった。だって、己の身はそのままに、周りの環境だけがすべて退化してしまうなんて……現実にしては奇妙すぎる。でも、夢にしては長過ぎる。最悪、周りでなく自分がイカれているのかもしれない。何にせよ、こうなってしまった今、伽耶にはもう流れに身を任せるしかないだろう。
 ——にしても。
「……幕末か…」
 昨晩、勝は今の年号を【1861年】だと言っていた。伽耶の記憶が正しければ、大政奉還は【1867年】……のはず。実をいうと、伽耶は中卒の身であり、在学中もろくに勉強をしなかったため歴史には疎い。だから、いやむなしく大政奉還、そのあと明治、くらいの知識しか持ち合わせていないのだ。
 まぁ、大政奉還は6年後。そんなに長い事このファンタジーなできごとの中に身を置いているとは当然思わない。
「戦争……巻き込まれちゃったりして…」
 詳しくはさっぱりだが、確か幕末から明治にかけては【戊辰戦争】とかいうのがあったはず。それに巻き込まれるのだけはご免被りたい。
「その前に帰んねぇとな…」
 だが、どうやって帰る。
 そもそもここへはどうやってやって来たんだったか。あぁ、そうだ、この全身の痣。なんか【黒い女】に嵌められて……ビルから落ちた。【チッ】と舌打ちして顔をしかめる。
「また落ちろってか?ビルねぇぞ…」
 いや、落ちることが重要なのか。もしかしたら……。

「——そなたは…」
 不意に、背後から声がかかった。

 振り向くと、勝に連れ立って二人の男が伽耶を見下ろしていた。そのうちの一人に見覚えがあり、伽耶はつい「あ…」と間抜けな声を洩らしていた。
「昨晩の女子ではないか」
 伽耶を保護した侍だった。伽耶は軽く頭を下げた。
「昨晩?」連れの男が眉をひそめる。「——と申しますと、例の斬り合いに巻き込まれたという娘でございますか?」
「ああ」侍は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに穏やかな表情を取り繕い、伽耶の顔を覗き込んだ。
「ひどい怪我を負っていたので案じておったのだが……存外顔色もよく安心した」
「彼女、身寄りがねぇんだってさ」
 勝が言うと、二人の侍は「なんと!」と同情の色をその目に浮かべた。
「だから、しばらくうちに泊める事にした」
「そうなのですか……良かったな。勝先生のもとならば、不自由な思いをすることもあるまい」
 侍がやさしげに目を細めた。今になって気づいたが、この侍、かなり端正な顔立ちだ。伽耶は胸の中がほっこりとあたたまるのを感じたが、それがなんだか逆に居心地が悪くなり、思わず俯いた。
「私は橘 恭太郎と申す者。この者は共の忠兵衛。よろしければそなたの名を教えてくれないか?」
「……伽耶」と、か細い声で答える。「襟苑伽耶」
「伽耶さん…か。よい名だ」
 恭太郎がふんわりと微笑むので、伽耶はますます恥ずかしくなって顔を背けた。
「なんだい。いっちょまえに照れやがってよ」
 勝がからかって笑ったが、聞かなかったことにした。
「ところで、伽耶さんは、随分と変わった格好をしておられるが…」
 きた。伽耶はひくりと口元を引きつらせた。絶対突っ込まれると思っていた。
「——西洋のものか?」
「えー……まぁ…」
 伽耶は曖昧に首を傾げてお茶を濁した。
「あー、そうだった」と、勝が口を挟む。「その格好じゃ目立っていけねぇからな。後でお松に普通の着物を用意するよう言っといてやるよ」
 お松の名につい身構えてしまう。どうにもあの女中に対して苦手意識が芽生えてしまったようだ。
「しかし、なんとも惨いものですな」
 忠兵衛と紹介された付きの者が、憐れむような目を再び伽耶に向けて言った。
「女子に乱暴を働くとは……全く、許しがたい連中です」
「ああ、さぞや恐ろしい思いをされたことだろう」
「…別に——」
 何てことねーよ、と返しかけて、口を噤む。
「——襲われたっつっても、ちょっと殴ったり蹴られたりしたくらいですから」
「痛ましい話だ……」
 恭太郎が歯噛みした。あ、そうか。女は普通男と殴り合いのケンカはしない。この時代でも、あの時代でも、だ。
 空気が重苦しくなってしまった。勝も恭太郎も忠兵衛も、なんだって殆ど見ず知らずの関係の女にここまで同情してくれるのだろう。この時代の人間はみんなお人好しなのだろうか。そりゃ確かに、比較的色白の肌にくっきりと刻み込まれた傷や痣は、一見痛ましく思えるのかもしれないが、だがこの程度の怪我なら普段から——。
「……あ…」
 そこまで思考を巡らせてから、伽耶は根本的なところに気がついてしまった。
「ん?」勝が伽耶を見やる。「どうした?」
「あ、いや——」
 そういえば、だ。記憶が時代を挟んだせいか少し錯乱していた。この怪我は、そもそも、恭太郎達の言う【連中】につけられたものではなかった。ヤクザ同士のいざこざで負ったものだ。堅気の彼らに胸を痛めてもらえるような代物ではない。何より、無意識とはいえ、伽耶は彼らを騙していたことになるのだ。きまりの悪い心地になるのは道理である。
 伽耶はふいっと三人に背を向けると、そそくさとその場を後にしようとした。
「ど、どこへ行かれるので?」
 挨拶もなく突然歩き出した伽耶に、忠兵衛はたいそう面食らった様子だ。
「町」
 ぶっきらぼうに答えると、恭太郎と忠兵衛が慌てふためき、どたばたと駆け寄ってきた。
「いいいいかん、早まるでない!そなたは昨夜襲われたばかりであろう!」
「は!?」
「そそそうですよ、伽耶様!そのお体で町へお出かけになるなど、危険です!」
「ちょっ……放——」
 後ろから腕を掴まれ、バランスを崩した伽耶は無様に反り返ってしまう。その隙に乗じて、恭太郎と忠兵衛は二人掛かりで伽耶を押さえ込んだ。——が、そんな事で伽耶が大人しくなるはずもなく、伽耶とその背中にひっついた二人はフーフー言いながら不格好な揉み合いに突入した。
「部屋にお戻りくださいませ!」腹の横で忠兵衛が叫ぶ。
「てめっ…!」伽耶は必死で身体をよじった。「このやろ——」
「大人しくしろ!傷が開く!」耳元で叫ぶのは恭太郎だ。「今外へ出ても危険を呼ぶだけだ!」
 しかし伽耶は聞き入れない。腕にまとわりつく拘束を振りほどこうと躍起になっている。恭太郎はしまいに困り果て、背後の人物に助けを求めた。「——勝先生!」
 勝は三人の後ろで心底おもしろそうに見物していたが、すがりつくような恭太郎の視線を受けて、仕方なしに口を挟んだ。
「恭太郎。忠兵衛も、そいつを放してやれ」
「……しかし!」
 恭太郎は不服の意を示したが、勝が真剣な目つきでゆっくりと首を振ったのを見て、しぶしぶ伽耶を解放した。諦めの悪い忠兵衛の片腕がまだ伽耶のジャケットの裾にかけられていたが、伽耶はそれをひったくるような乱暴な手つきで振りほどいた。
「行きてぇなら行かしてやれ」続けて勝が言い放つ。「何もここに監禁しようってんじゃねぇんだ。それに、何か思い出すきっかけになっかもしれねぇしな」
 意味深な物言いに、恭太郎は何かを悟ったらしかった。ハッとしたような顔で伽耶を見やった。
「けどよ、恭太郎の言う通り、【昨日の今日】だ。どうしても出かけてぇってんなら、こいつを用心棒につける。それが嫌なら許可は下ろせねぇよ」
 伽耶はじと目を恭太郎に向けた。一人になりたかったのに、それではどうしようもない。恭太郎も伽耶と同じくその沙汰を不服に思っているようだった。だが、どうもこの勝という男の言葉には有無を言わせぬ力があるようだ。伽耶と恭太郎は観念して諦めの溜め息をついた。二人して全く同じタイミングだった。