──海って、冬じゃなくても雪が降るんだ⋯。

 甲板はすっかり分厚い積雪で白くなってしまった。男の子たちが薄着のまま雪だるまや雪像を作って大はしゃぎしている。

 楽しげな声につられて、り以子はそろそろ外へ出てみようという気持ちになった。毛布を肩から被って扉を開けると、芯から冷える湿った寒さがり以子を出迎えた。

「り以子ちゃん!?──どうしたんだい、そんな格好で!寒いだろ!」

 遠くからサンジの慌てたような声がした。サンジは黒地の洒落たムートンコートを着込み、マフラーと手袋まで装備していた。雪かきをしていたのか、スコップで雪の塊をすくっていたが、それを無造作にその辺に突き刺して、コートの金ボタンに手をかけながらバタバタと駆け寄って来た。

「ほら、これ!」
「えっ⋯⋯わっ!」
「手通して」

 サンジは脱いだコートをバサッと広げてり以子の背中に回し、そのまま手際よくボタンを留めてしまった。

「えっ、あの──これじゃサンジさんが⋯⋯」
「いいよ、これくらいで応えるほどヤワじゃねェって。女性が体冷やしちゃダメだよ」

 ぽん、と両肩に手を置かれたので見上げると、思ったよりも近くにサンジの顔があって、り以子は心臓がドキッと飛び上がった。慌てて俯くと、コートの白い襟から、嗅ぎ慣れない洗剤と微かな煙草の苦い匂いがした。

「サンジー!」

 麦わら帽子を被った黒髪の男の子が走って来た。手いっぱいにかき集めた雪の塊をよく見えるように高々と掲げている。

「これにシロップかけてかき氷にしよう!」
「んなモン食ったらハラこわすぞ」

 初めて雪を見た小学一年生みたいな提案をした男の子を、サンジは呆れた顔で一蹴した。男の子は不貞腐れてブーイングしていたが、偶然サンジの隣に立つり以子の存在に気づいてキョトンとした。

「あれ?誰だお前」

 無邪気な顔立ちから真っ直ぐ向かってくる視線にり以子はたじろいだ。

「だーかーら、さっき説明したろーが!」と、サンジが気色ばんだ。
「あー。サンジが拾ったって奴か」
「失礼な言い方すんな!犬猫じゃねェんだぞ!──いいか、おれと彼女はな、運命の導きによって出逢っちまったんだ⋯⋯」
「なんでもいいよ。おれ、ルフィ。この船の船長だ!」

 ハキハキとした態度の男の子に、確かにグループのリーダーを決める段階で、真っ先に手を挙げそうなタイプだなとり以子は分類した。

「あ、私、り以子です⋯⋯間明り以子⋯⋯」
「ふーん。んで、なんで海に浮いてたんだ?」

 その質問に、一同はそういえば初めて思い立ったというようにハッとしてり以子に注目した。

「言われてみりゃ確かに妙だな」長鼻の男の子が顎を触り眉を顰めた。
「ここってもう“偉大なる航路グランドライン”の上だろ?──まさか、あの不思議山をボロ板1枚で超えて⋯⋯!?」

「山?海ですよね⋯⋯?」り以子は眉をひそめたが、誰の耳にも届かなかった。サンジが高らかに演説していたからだ。

「バッカお前、り以子ちゃんを見ろ。この華奢で可憐な姿、同じ人間のわけがねェ。きっとおれに会いたくて氷の中から生まれてきた妖精だ。その証拠に一目見て迷うことなくおれに飛びついて来たんだ」
「あっはっは。何言ってんだ?バカだなァサンジは」
「てめェに言われたかねェよ!!!」

 怒涛のテンポに口を挟む暇もなかった。結局その後、雪かきをサボっていることがバレたサンジがナミに叱られて仕事場に戻ってしまい、り以子の漂流の件は有耶無耶になっていた。

Hungarian Rhapsody

 そこからは、息もつけないほどに目まぐるしく色んなことが起きた。ルフィがウソップ──鼻の長い男の子はそう呼ばれていた──の渾身の力作だという雪像を壊したとかで掴み合いの喧嘩が始まり、かと思えば船の逆走が発覚し、慌てて四人がかりで船を旋回させなければならなかった。しかし、三角帆を操作しかけた段階で突如として風向きが変わり、春一番が吹いた。それからも、高波に煽られたり、濃霧に巻かれ、氷山を避け損ねて船底から水が漏れたり、強風に帆が裂けかけたりもして、上を下への大騒ぎだった。

 皆が──なんとり以子でさえも──ナミの指示の元に働いた。穴の空いた船底に板を張り付け、言われるがままにロープを引き、船中を風のように駆けずり回った。

「みんな食え!!!力つけろ!!!」

 途中、サンジが握った特大のおにぎりで腹ごしらえをした。これは、ルフィが頬袋をゴムのように膨らませて、凄まじい勢いで食べてしまうので、激しい取り合いになった。

「わっ!」

 り以子は、ウソップが新たに見つけた別の穴を塞ぐのに必要な工具箱を渡しに行く途中で、何かに足を取られて転びそうになった。見下ろすと、この緊急事態にも関わらず、緑髪の男の人がガーガーとアヒルみたいないびきをかいてひっくり返っていた。

「何よ、も〜!手伝わないの?この人!」

 り以子は信じられない気持ちで、フンッと軽蔑の鼻息を吐き捨て、行きも帰りも跨いでやった。

 数時間後──ようやく機嫌を取り直した海上を走る船の甲板には、完全にダウンした船乗り達が転がっていた。

「あの⋯⋯み、皆さん、大丈夫⋯?」

 り以子が恐る恐る話しかけると、仰向けに倒れて動かなくなっていたサンジが、答える代わりにかろうじてといった様子で立てていた脚をパタンと倒した。

「あんた元気ね⋯⋯。スタミナどうなってんの⋯⋯?」欄干に引っかかって垂れていたナミが信じられないものを見る目でり以子を見つめた。
「あ、はは。昔からスタミナお化けで⋯⋯」

「ん〜〜〜〜〜〜〜⋯⋯」

 気の抜ける唸り声が上がり、皆が意識だけをそちらに向けた。あの渦中で堂々と居眠りをしていた緑髪の男が、立派な図体を伸びに伸ばしながら起き上がったところだった。

「くはっ、あー寝た。⋯ん?」
 男は死屍累々を見回して険しい顔をした。
「おいおい、いくら気候がいいからって全員ダラけすぎだぜ?ちゃんと進路はとれてんだろうな」

 ──お前⋯!!!
 バラバラの身分の人々の心が今、一つになった。

 ふと、男の鋭い目がり以子の姿を捉えた。今更そんな目を向けられたって、呑気な寝顔に散々苛立った後ではちっとも怖くない。

「ウチにこんなチビいたか?」
「そこのコックが途中で引っかけたんだよ」王様の格好の男が面倒臭そうにあしらった。
「はァ?なんだそりゃ?⋯⋯つか何でお前らがこの船に?」
「おそーっ!!!」

「今そいつらの町へ向かってるんだ」

 欄干に腰掛けていたルフィが説明した。

「まさか送ってやってんのか?何の義理があるわけでもなし」
「うん、ねェよ」

 ルフィは草履の裏を叩き合わせてあっけらかんと頷いた。男は二人組の目の前にしゃがみ、あくどい笑みを浮かべて顔を覗き込んだ。

「おーおー。悪ィこと考えてる顔だ⋯⋯名前⋯何つったかなお前ら⋯!!」
 二人組は露骨に図星ですという態度で背筋を伸ばした。
「ミ⋯、Mr.9と申します」
「ミス・ウェンズデーと申します⋯⋯」

「そう⋯、どうもその名を初めて聞いた時からひっかかってたんだ、おれは。どこかで聞いたことがある様な⋯ない様な⋯⋯まァいずれにしろ」

 最後の最後で、男の後頭部がナミの鉄拳に沈んだ。

「⋯⋯あんた、今までよくものんびりと寝てたわね。遭難者ですら手伝ったっつーのに、起こしても起こしてもグーグーと⋯⋯!!」
「あァ?」

 謝罪どころか張り合ってメンチを切った男は、ナミの追加制裁によって、3段アイスクリームのような見事なたんこぶを拵え、訳が分からないまま悶絶した。

Hungarian Rhapsody

「島だァ!!!でっけーサボテンがあるぞ!!!」

 船の前方に現れたのは、り以子が見たこともないような不思議な島だった。山のような巨大サボテンがいくつも身を寄せ合ったような姿をしている。水平線の上にポツンと一つだけ浮かび、端から端が見渡せるくらい小さい。

「ここがウイスキーピーク!!」

 誰もが新しい景色に目を奪われていると、仮装二人組が素早い身のこなしで欄干に飛び乗った。

「それでは我らはこの辺でおいとまさせて頂くよ!!」
「送ってくれてありがとうハニー達!」
「縁があったならいずれまた!!」

「「バイバイベイビー」」

 そう言って二人は足元を蹴り、呆気に取られる船乗り達を置き去りにして、海に飛び込んでしまった。

「行っちゃった⋯⋯」
「一体何だったんだあいつらは」
「ほっとけ!!上陸だーっ!!!」

 船は正面の川に入り、そのまま内陸へ向かった。その道中、何やら込み入った話をしているナミ達を尻目に、り以子はラウンジから荷物を回収して下船の準備を進めた。借りていた上着や毛布は丁寧に畳んでベンチに揃えて置いておいた。財布は中に千円札が何枚かあるのを確認すると、取られないよう着替えの袋の中に隠し、スマホと充電コードはすぐに使うだろうとリュックから取り出してボトムスのポケットに突っ込んだ。

 外に出て、深呼吸がてら体を伸ばして空を見上げると、天を突き上げるメインマストと、誇らしげに張られた帆が目についた。そういえば、何か大きく絵が描いてある。一体何のマークだろう?
 気になったり以子は横歩きでマークがよく見える位置を探った。白いバツ印⋯⋯うーん、違うな。顔がついている。麦わら帽子を被った⋯⋯ガイコツ⋯⋯⋯⋯。

「り以子ちゃん!ここにいたのか」

 後頭部が背中にくっつきそうなほど上を見上げているり以子に、サンジが声をかけながら走って来た。

「え!?荷物全部持って降りるのかい?重いだろ?貴重品以外は置いといて平気だよ」
「あ、あのサンジ⋯⋯さん」
「サンジでいいよホォ♡」
「これって、⋯⋯何ですか?」

 り以子がガイコツを指差して訊ねると、サンジは一瞬だけ「何を今さら」という顔をして、事もなげに答えた。

「ありゃウチの海賊旗さ」

「みんなに伝えろ!!海賊だ!!」
「海賊が来たぞォ!!!」

 霧の向こうからぼんやりと町の人々の騒ぐ声が聞こえている。ポカンとするり以子をサンジは不思議がり、目の前で「おーい」と手を振って見せているが、り以子はそれどころじゃなかった。
 もしかしなくても、とんでもない船に乗ってしまったんじゃないだろうか?この騒ぎ、島の人たちは完全に海賊の襲来に気がついている。このままり以子が船を降りて、「この人たちとは海の真ん中でばったり会っただけです」と説明したところで、誰が信じてくれるだろう⋯⋯?

「詰んだ」
「?」

 残酷にも、船はゆっくりと内陸を目指し川を進んでいく。そしてとうとう、沿岸に群がる島民たちの前に、り以子たちの姿が晒された⋯⋯。

「ようこそ!!!歓迎の町ウイスキーピークへ!!!」
「海賊だぁ!!!」
「ようこそ我が町へ!!」
「“偉大なる航路グランドライン”へようこそ!!」
「海の勇者達に万歳!!!」

 ──なんでよ!?

ハンガリアン・ラプソディ(エドウィン・マートン)