ルフィがサンジとウソップを連れて戻るのを待って、船は威勢よく帆を張り、川上の支流を目指して走り出した。肝心な場面を寝過ごした二人は事の重大さを全く理解しておらず、勝手に出発したことを随分根に持ち、いまだにギャーギャーゴネている。

「おいっ何でだ!?何でもう船出してんだ!!?待ってくれよもう一晩くらい泊まってこうぜ。楽しい町だし女の子はかわいいしよォ!!!」
「そうだぞ!!!こんないい思い今度はいつできるかわかんねェぞ!!?ゆったりいこうぜおれ達は海賊だろ!?まだ朝にもなってねェしよ!!!戻ろうぜおい聞いてんのか!!」

 二人はナミの拳で黙らされた。

 やがて空が白み、霧が出始めた。り以子がこの海で目を覚ましてから、二度目となる朝がやってくる──。

「船を岩場にぶつけないように気をつけなきゃね。あー追手から逃げられてよかった♡」

 り以子は飛び上がるほど驚愕した。いつの間にか、見たことのない背の高い女の人が、階段上の欄干に腰掛け、り以子たちを悠々と見下ろしていた。

「な!!!」
「誰だ!!!?」

 ギョッとして身構える一味を前にして、女の人はのんびりと船を褒めた後、冷徹な笑みでビビに視線をやった。

「さっきそこで、Mr.8に会ったわよ?ミス・ウェンズデー⋯」
「まさか⋯⋯あんたがイガラムを⋯!!!」
「どうでもいいけど、何でお前はおれ達の船にのってんだ!!」

「何であんたがこんな所にいるの!!?ミス・オールサンデー!!!」

 ビビが震える声で叫んだ。り以子は心臓がドクンと一つ嫌な鳴り方をしたのを合図に、恐怖と緊張でその場に硬直した。

「ミ、“ミス”⋯⋯、また⋯⋯」
「今度は何!?“Mr.何番”のパートナーなの!!?」
Mr.0ボスのパートナーよ⋯!!!実際に社長の正体を知っていたのはこの女だけ。だから私達はこいつを尾行することで、社長の正体を知った⋯!!!」

 ミス・オールサンデーはクスリと吐息を揺らめかせ、妖艶な口元に冷たい弧を描いた。

「正確に言えば、私が尾行させてあげたの⋯⋯」
「何だいい奴じゃん」ルフィが唇を尖らせた。
「そんなこと知ってたわよ!!!そして私達が正体を知ったことを社長に告げたのもあんたでしょ!!?」
「何だ悪ィ奴だな!!」
「あんたの目的は一体何なの!!?」
「さァね⋯⋯あなた達が真剣だったから⋯つい協力しちゃったのよ⋯。本気でB・Wを敵に回して国を救おうとしてる王女様が⋯あまりにもバカバカしくてね⋯⋯!!!」

「ナメんじゃないわよ!!!!──」

 ビビが吼えた。ところが、その時にはもう、り以子とルフィ以外の全員が、女に武器を向けていた。ゾロは刀を抜き、ナミは長棒を構え、さっきまでそこの床で伸びていたはずのウソップは今にも女の頭を吹き飛ばせる距離からパチンコで狙いを定めている。サンジでさえ、ウソップの反対側から、女のこめかみ目がけて拳銃を突きつけていた。

 船の上の全員が、この女を敵と認識したのだ。

「おい、お前⋯⋯意味わかってやってんのか⋯⋯!?」女から目を離さないようにしながら、ウソップがサンジに質問を投げた。
「いや⋯何となく⋯愛しのミス・ウェンズデーの身の危険かと⋯!」サンジが白状した。

「⋯⋯そういう物騒なもの、私に向けないでくれる?」

 女がうんざりとため息をついた次の瞬間、ウソップとサンジが武器を取り落とし、欄干の向こうに投げ飛ばされた。
 二人が甲板の床板に叩きつけられたと同時に、ゾロとナミの手からも、刀と長棒が何かに弾かれるようにして地面に転がった。

「悪魔の実か!!?何の能力だ⋯⋯!!?」

 ゾロは武器を弾かれた際に違和感を伴ったようで、片腕を押さえて警戒した。『悪魔の実』──酒場で人々が口にしていた言葉だ。り以子は女に目を走らせたが、一体何をしたのか、タネも仕掛けも見破れない。

 り以子の脳裏に、ウイスキーピークで目にした数々の現実離れした光景が蘇った。硝煙を上げる銃口、目の前の家具を貫通して通り過ぎた銃弾、身体中が蜂の巣になり、ピクリとも動かなくなった男の人、あちこちを自在に爆破し、Mr.9を吹き飛ばしたサングラスの男、噴き上げる炎の中に消えてしまったイガラム⋯⋯。

 り以子はミス・オールサンデーに釘付けになったまま、よろけるように後ずさりした。

「⋯⋯あら、怖がらせちゃったかしら。お嬢さん」

 名前を呼ばれたわけでも、視線を向けられたわけでもないのに、なぜか自分のことだとはっきり分かってしまい、り以子は体の震えが止まらなくなった。得体の知れない何かが、今にり以子を木っ端微塵にしてしまうかもしれない⋯⋯夢なら今すぐに覚めてくれないと困るのに、世界は一向に中断する気配を見せない。体に上手く力が入らなくなり、ガクッと膝が抜けた。

「おっと」

 緊張感のない声がすぐ耳元で聞こえたかと思うと、り以子の体は、細くて硬い腕に後ろから抱き留められていた。

「うちの妖精をあんまり怖がらせないでやってくれ」

 軽い調子のふざけたセリフが耳元に聞こえた途端、安心感が押し寄せ、り以子は泣きそうになった。サンジはそれに勘づいたように、り以子のお腹のあたりを抱えていた腕を動かして、り以子の頭を力強い手つきで自分の胸元に押しつけた。

 片腕だけで身動きが出来ないくらいにきつく抱きしめられ、り以子はまるで、怖いものばかりのこの世界から切り離されたかのように感じた。きっと今なら、どんな謎の力が襲いかかってきても、り以子は傷一つつかないだろうとさえ思えた。

「サ⋯──」
「うおっ、よく見りゃキレーなお姉さんじゃねェかっ!!」

 突然何を言い出すのだろうと、り以子は言葉を失った。

「ほーらり以子ちゃん、怖くないよー♡ ステキなお姉様だ♡♡」

 サンジは、お化け屋敷で泣きじゃくる子供をあやすように、り以子の背中をさすって歌うように言い聞かせた。相手が美女だからと言って、危険人物ではないという証拠にはならない⋯⋯り以子は困惑してサンジを見上げたが、サンジはり以子が疑うことを許さないというように押しの強い笑顔を浮かべていた。

「ね?」

 どう考えても納得出来る箇所がない主張だったが、サンジがあまりに堂々としているせいで、馬鹿正直に恐怖を煽られることに何の価値もないような気がしてきていた。

「フフフッ⋯そうアセらないでよ。私は別に何の指令も受けてないわ。あなた達と戦う理由はない」

 ルフィの頭から麦わら帽子が弾かれ、フリスビーのように空を切って、一直線にミス・オールサンデーの手に収まった。

「あなたが麦わらの船長ね。モンキー・D・ルフィ」
「あ!!お前帽子返せケンカ売ってんじゃねェかコノヤロー!!!」
「おれはお前を敵だと見切ったぞ出ていけコラァ!!!」

 ウソップがマストの裏からどさくさに紛れて野次っている。ミス・オールサンデーは華麗に無視して、黒いテンガロンハットの上に戯れに麦わら帽子を被せた。

「不運ね⋯B・Wに命を狙われる王女を拾ったあなた達も、こんな少数海賊に護衛される王女も⋯⋯!!そして何よりの不運は、あなた達の“記録指針ログポース”が示す進路⋯!!!その先にある土地の名は“リトルガーデン”。あなた達はおそらく私達が手を下さなくても、アラバスタへもたどりつけず⋯!!そしてクロコダイルの姿を見ることすらなく全滅するわ」

「するかアホーッ!!!帽子返せコノヤロー!!」
「コノヤローがお前はーっ!!!アホーッ」
「ガキか⋯」ゾロが呆れた。

「遠吠えは結構。虚勢をはることなんて誰にでもできるわ。困難を知ってつっこんで行くのもバカな話」

 ミス・オールサンデーは麦わら帽子を軽く弾いてルフィの頭に投げ返した。そして、ビビの手元には砂時計のようなものが投げ渡された。木製の支柱の中心に大きなガラス球が嵌め込まれ、その中に方位を示すコンパスの針が糸一本で吊り下がっている。

「“永久指針エターナルポース”⋯⋯!?」
「それで困難を飛び越えられるわ。その指針がしめすのはアラバスタの一つ手前の“何もない島”。ウチの社員も知らない航路だから、追手も来ない」

「なに?あいついい奴なの⋯⋯!?」
「な⋯何でこんな物を⋯⋯!!」
「⋯⋯どうせワナだろ」

 降って沸いた虫のいい話に、一味は色めき立った。乗るべきか、無視するべきか、無視したとして、追手がかかっているのは事実なのに、どうやって先へ進むのか──り以子はちらっとビビを横目に見た。決断しかね、混乱と葛藤に翻弄されていた。

「そんなのどっちだっていい⋯!!」

 ルフィはビビの手から“永久指針”をひったくると、誰かが止める間もなく、その手の中で握り潰してしまった。「アホかお前ーっ!!」とナミの怒りの蹴りが飛んでいったのは言うまでもない。高いヒールがルフィの頬に思いっきりめり込んでいた。

「せっかく楽に行ける航路教えてくれたんじゃないっ!!!あの女がいい奴だったらどうすんのよーっ!!」

 しかし、ルフィは頑なで、自分のしでかした行動の結末について、後悔する素振りなど微塵もなかった。

「この船の進路を、お前が決めるなよ!!!」

「⋯⋯そう。残念⋯」

「もうっ!!」
「あいつはちくわのおっさんを爆破したから、おれはきらいだ!!」
「⋯私は威勢のいい奴はキライじゃないわ⋯⋯生きてたらまた逢いましょう」

 ミス・オールサンデーはそう言うと、軽い身のこなしで船を降りて行った。

「行っちまったか。謎多き美女って魅力的だな⋯⋯♡」
「⋯⋯」

 張り詰めていた体の力が抜けていくと、り以子を支えていたサンジの腕も自然と外れた。船は余裕を取り戻し、欄干から身を乗り出して海を見渡すルフィの声が軽やかに響いている。

「うおおカメだ!!!でけーカメだな」

 り以子は何となくルフィの視線の先を追いかけた。ミス・オールサンデーが、屋根付きソファを括りつけたカメに乗って遠ざかっていく後ろ姿が見えた。
 カメだ。ちょっとした漁船くらいの大きさの、巨大ガメ。り以子は、もし手に何か持っていたら、盛大に取り落としていたに違いなかった。あんぐりと顎が外れかかった顔で、不思議の世界の巨大生物を穴が開くほど見つめるばかりだった。

From My First Moment

 船はさっきまでの緊張が嘘のように陽気だった。り以子は船体の壁に背中を預けて座り、甲板の上をやかましく転げ回っている麦わらの一味の声を聞いていた。犯罪組織に追手をかけられているという陰謀論じみた一大事だというのに、そのことについては、ビビとり以子くらいしか気にしていないかのようだ。

 ボトムスのポケットから少しだけスマホを引き出したり以子は、依然として真っ黒の画面を確認してため息をついた。スリープボタンをいくら長押ししようが、うんともすんとも言わない。けれど、り以子の落胆はそこまでではなかった。もしスマホが息を吹き返しても、それが現状を打開する手段になり得る気がしないからだ。スマホは“現実”と繋がることが出来るが──ここに現実味を帯びたものなんて、一つでもあるだろうか⋯⋯?

「それ、使えねェの?」

 唐突に声をかけられ、り以子は肩を正直にビクッとさせた。知らぬ間に、サンジがり以子の真横に立っていて、腰を屈めて、り以子のポケットからはみ出しているスマホを覗き込んでいた。
 そういえば昨日、不用意にサンジにスマホを見せてしまっていたことを思い出し、り以子は緊張した。深く突っ込まれたら何と誤魔化せばいいだろう。

「えーと、何つったっけか、ソレ」
「⋯⋯あ、スマホ⋯」
「あーそう。それそれ。ダメそう?」

 サンジは右手の指の間に挟んでいたタバコを口元に運び、吐息を煙に変えながら軽い調子で聞いた。

 り以子は首を横に振った。サンジは「そっかァ」と残念そうにしただけだった。恐らくスマホが何なのかさえ見当もつかないだろうに、有り難いことに、サンジはそれについては特に追及することもなく、ただ困っているり以子を憐れんだだけだった。

「あの、サンジさん」
「ん?なァに?♡ サンジでいいよ♡」

 り以子が呼びかけると、サンジはタバコを持つ手だけを頭上に残してしゃがみ、満面の笑顔でり以子と目線を揃えた。

「皆さんはどこから来られたんですか?あの⋯出身地は⋯⋯皆同じところから⋯⋯?」
「んー」サンジはほんの刹那の間だけ、長い腕の先でくゆるタバコを見上げた。「故郷はバラバラだろうが、ほとんどが“東の海イーストブルー”の出じゃねェかな」
「イースト⋯ブルー⋯⋯」

 り以子はしっかり記憶に刻もうと噛み締めながら復唱した。ウイスキーピークを出る時、ナミも同じ言葉を口にしていた。きっと、知らないままだと変に思われるだろう。

「あの⋯⋯太平洋って、分かりますか⋯⋯?」
「たい⋯⋯?」

 ダメ元の質問ではあったが、実際に難しそうな顔をされると思いのほか応えた。強張ったり以子の顔を見たサンジは慌てふためいた。

「ご、ごめんな。おれァそこまで地理に明るくねェから⋯⋯その太平洋ってのが、り以子ちゃんがいた海かい?」

 り以子は、何だかちょっと違和感のある言い回しにおずおずとして頷いた。

「ナミさんに聞けばきっと分かるさ!ナミさんはうちの自慢の天才航海士なんだ。後で聞きに行ってみよう、な?」

 サンジはべそをかく幼い迷子を励ますような口調で提案したが、り以子は弱々しく首を横に振った。折り紙付きの海のプロにまで否定されたら、今度こそり以子の心は折れてしまうのが分かりきっていた。

「り以子ちゃん⋯⋯」

 項垂れるり以子の横顔を見て、サンジは切なそうな顔をした。

「ごめんなり以子ちゃん⋯⋯おれなんかじゃ、り以子ちゃんの繊細な不安を理解してやれなくて⋯」
「そっ、そんな⋯謝ることないです!」り以子は慌てて否定した。「サンジさんは、もう何度も私のこと助けてくれました。お礼を言っても言い切れないくらいです⋯⋯」
「いや⋯⋯おれァさっきの町で何があったのかまだよくわかってねェんだが⋯、色々大変だったんだろ?り以子ちゃんが恐ろしい目に遭ってたってのに、おれときたらいびきかいて寝こけてたとは⋯⋯姫君達のピンチに駆けつけられねェなんて騎士ナイト失格だ⋯⋯」

 サンジはタバコを持った手の親指で額を押さえながら首を振り、自分を恥じ入るように深く思い溜め息を吐いた。

「り以子ちゃん!」

 少し塞ぎ込んだ後、サンジは気を取り直し、努めて明るく顔を上げた。携帯灰皿に吸いさしをねじ込んでポケットに仕舞うと、長い脚をスッと伸ばしてしなやかに立ち上がり、り以子の正面に回って恭しく跪いた。まるで王子様のように優美で洗練された立ち振る舞いだ。り以子は思わず胸をときめかせた。

 サンジは右手でするりとり以子の手を掬い取り、上から左手を重ねた。馴染みのない他人の体温に手を挟まれている。サンジの大きな手の、少しカサついた指の腹や、ゴツゴツした関節の感触を感じる⋯⋯り以子の鼓動はアクセルを踏んで暴走を始めた。

「これからはおれが必ず君を助ける!君が怖い目に遭った時は必ず──いや、君が危険に晒されることがねェように、真っ先に駆けつけて君を守る。おれのかわいいプリンセス、どうかその栄誉をおれにお与えください」

 芝居がかった口上はあまりにも流暢で、どぎまぎして頭の中に自分の鼓動が響き渡っていたり以子には、言っていることのほとんどが咀嚼できないまま通り過ぎていった。

「り以子ちゃん」

 返事を促すように、サンジは蓋をしていた手を開き、り以子の指の爪の先に口元を押し当てた。意味深に、見せつけるようにゆっくりと。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!?」

 り以子の脳みその中で心臓が爆発し、胸の空洞がひねり上がるという奇妙な感覚がしたのを最後に、全身の関節から力が抜けていった。サンジは様子のおかしいり以子にすぐに気づいてしまった。薄い唇がニタリと悪戯っぽく歪んだ。触れると柔いとたった今知ったばかりの、その唇が。

「り以子ちゃん、顔すげェ真っ赤」
「なっ──だっ⋯⋯そんっ⋯!」
「言葉にならねェほど照れちゃった?」
「サ⋯⋯!もー!!」
「耐性ないんだァ♡ いいこと知っちまったな。か〜わい♡」

 り以子はプリプリ怒って、サンジから手を引っこ抜いた。サンジのクスクス笑いが耳から入って首筋をくすぐり、腰のあたりをゾワゾワさせてくるのが我慢できず、三歩くらい後退りして距離を取った。

「で、実際どう?おれにまだチャンスはある?」

 さっきとは打って変わって軽い調子だった。そこまで名誉を挽回したいなんて、誠実な人なんだなと感心してしまった。そこまで徹底して助ける義理なんてないはずなのに。

「チャンスも何も、サンジさんはとっくに王子様ですよ⋯」
「へ?」
「怖いな、不安だなって思った時⋯、真っ先にサンジさんの顔が浮かぶくらいには頼りにしてますもん」

 しばらくの間、サンジは石像になってしまったかのように固まっていた。り以子はもしや引かれてしまっただろうかと不安に思った。

「まいったな⋯⋯カウンター食らっちまった」

 サンジは惚けた顔のままポツリとそう零し、金色の後ろ頭を掻いた。

 すらりと優雅に伸びた手がり以子のそれを攫う。「わっ──」思ったより強い力で引かれ、り以子は舞い上がるように立ち上がった。両手がそれぞれサンジの左右の手に乗せられている。ワルツを踊るようにリードされ、り以子は賑やかな皆の笑い声がする方へ引き込まれていった。

「これからは何があっても君を守る。だから安心して船にいてくれ。おれの妖精さん♡」

From My First Moment(シャルロット・チャーチ)