Days Gone Bye

目覚めの朝

 日暮れ前に何とか鍵のかかっていない家を見つけ、一晩そこに身を隠すことにした。入るなりドアの鍵とチェーンをかけ、全ての窓のカーテンを閉じた。リビングに大きなソファがあったので、り以子くらいの身長なら足を伸ばして眠れそうだ。足元にリュックを下ろし、刀をベルトごと外して上に乗せた。

 徐々に辺りが暗くなってくる。ウォーカーに見つかるため明かりをつけることは出来ない。真っ暗になる前にやらなければならないことは済ませておこう。

 キッチンには未開封のスナック菓子が少しだけ残されていた。内心「またスナックか……」とうんざりするけれど、選択肢は多くないので贅沢を言ってはいけない。

 洗面所に衛生用品がたくさんあった。常に買い置きをストックしている家庭だったんだろう。新品の歯ブラシと歯磨き粉、それから洗顔フォームもあった。さらにボディーソープとシャンプー、リンスの詰め替え用パックも発掘して、り以子は嬉しさに舞い上がった。

 使い込んで泥だらけになったハンドタオルはごみ箱に捨て、洗濯済みのフェイスタオルを数枚拝借した。久しぶりに触れるふかふかの感触に感激して顔をうずめたら、日本にはない柔軟剤の匂いがした。シャワーの蛇口を捻ってみると、奇跡的に水が出た。しかしいつまで経ってもお湯が出ないので、仕方なく冷水で全身を洗った。自分の体から流れ落ちる水が真っ黒で引いた。

 リュックから洗濯物を引っ張り出し、手洗い用の衣料洗剤でごしごし洗った。下着とワイシャツは二週間分の替えがあるのでいいが、パーカーやジャケット、ジャージのズボンは我慢する他なかった。自然乾燥するのを待ってはいられない。昼間の銃声でウォーカーが寄り集まって来るだろうから、明日にはこの町を出たかった。

 この家にはほとんど何でもあったが、唯一手に入らないものがあった。地図だ。ここの住人が持ち出してしまったのかもしれない。これではアトランタへの行き方は分からないままだ。り以子はがっくりした。仕方がない。明日、余裕があったら他の家を漁ってみよう。

 日付の古い缶詰を開けて食べ、歯を磨き、ソファに寝そべった。もう真っ暗だ。日課の生徒手帳めくりは、暗すぎて何も見えなかったのですぐに切り上げた。きっと外は今頃ウォーカーだらけになっている。朝には大分捌けていますようにと祈りながら、タオルケットを引き上げて目を閉じた。髪の毛はタオルドライしかしていないので、朝起きたらひどい寝癖がついていそうだ。

 知らない人の家に上がり込んで日用品を盗み、ソファで眠るなんて。両親が見たらショックで卒倒するだろうなと思うと笑えた。

***

 目が覚めると、視界はすっかり明るくなっていた。コーヒーテーブルから腕時計を取って時間を確認したら、朝の八時を過ぎたところだった。いつもだったら寝坊だ。

 ソファはあまり睡眠には適していないようだ。腰や肩がバキバキになってしまった。ぐぐっと伸びをしながら洗面所に向かい、歯を磨いて顔を洗った。寝る前に案じていた通り、ギシギシする髪の毛を梳かすのには一苦労した。

 身支度を整えて鏡を覗くと、大分見られる姿に回復していた。数週間ぶりに化粧水なんか塗ったから、お肌が喜んでいるような気がして、無意味に頬を触りたくなった。この家一軒で色々調達できた。しばらくは快適なお山の旅ができそうだ。あとはアトランタへの道さえ分かれば完璧だ。

 充分すぎる準備を終えたり以子は浮かれていた。
 家の外にウォーカーの群れがいるかもしれないという恐怖をすっかり忘れるくらいに。

 元気よくドアを開け放ったり以子は、十体近くのウォーカーが一斉にこちらを見たのに気づいて、全身から血の気が引いた。

「やばい……!」

 慌ててドアを閉めた直後、興奮気味の唸り声と共に激しい衝撃が家を襲った。り以子という獲物欲しさにウォーカーがドアや壁に突進してきたのだ。大急ぎで鍵を閉め、ドアチェーンもかけた。まずい。やばい。しくじった。頭の中が真っ白になった。どうしよう──冷や汗の滲む額や頬を手の平で拭いながら、り以子は必死に考えた。

 すぐにウォーカーの発する音に仲間が呼び寄せられてくる。脱出するなら今のうちだ。機会を逃したら、この家からは一生出られなくなるかもしれない。ウォーカーは一定時間経つと自分が何をしていたのか忘れるが、そうなるとその場に留まってうろうろし続けるのだ。

 り以子は激しく揺れるドアから後退りして、そういえばとキッチンに向かった。確かこの家にも勝手口があった。きっと今ならそこから外へ出られる。焦ったり以子は早まった。ここでも外を確認することなく、勢いのままに飛び出してしまった。

 ドアの音に気付いた三体のウォーカーが襲いかかってくる。り以子は思わず悲鳴を上げつつも一番近いウォーカーの胸に抜きつけ、動きが緩んだ隙に全速力で駆け出した。

 道端のウォーカーたちが次々とり以子に気づき、興奮して手を伸ばしてきた。しかし、り以子の足の方が断然速かった。毎日重い荷物を背負って山道を歩いている十代に対し、向こうの足は骨が折れたり筋肉が削げ落ちていたりするのだから当然だ。ぐんぐん差が広がっていき、やがてウォーカーの少ないエリアに辿り着いた頃には、追っ手の姿は胡麻一粒ほどにも満たない小ささになっていた。

 り以子はわざと何度も複雑に道を曲がり、人の家の庭を通り抜けたり、ごみ箱を横たえてバリケードを作ったりしてウォーカーを撒いた。一時は最悪の展開がチラついたが、人間必死になればどうにかなるものだ。太い木の幹に寄りかかって、ゼェゼェと荒い息を落ち着けた。

 青々と生い茂る草が一面に広がっている。公園のようなところだった。記憶が正しければ、昨日もここを通った気がする。

 まだ軽く肩が上下しているものの、気分はかなり落ち着いた。り以子は唾を飲んで気を持ち直すと、静かに歩き出した。

 今すぐこの町を出よう。
 一人で行動するには、ウォーカーの存在が多すぎる。

 アトランタへの行き方を調べるのは、何もここじゃなくたって出来る。もっと小さくて安全そうな町で態勢を整えよう──。

 突然何かに足首がぐいっと引っ張られた。「きゃっ!」──視界が一回転し、り以子はシロツメクサの群生の中に顔から突っ込んだ。何事か理解するより前に、足元から弱った喘ぎ声が聞こえ、り以子は恐怖に声を漏らしながらもがいた。足をジタバタさせていると、革靴の底が何かを蹴った。足首を掴む力が弱まった。り以子はその隙に手を使って這い出し、上半身を起こして、そこに何がいるのかを見た。

 昨日見逃したウォーカーだった。下半身がないやつだ。

 り以子は尻餅をついたままじりじりと後退した。立ち上がろうとしたのに、驚いたのと恐怖とで腰が抜けてしまって駄目だった。干からびた手がり以子の革靴を掴んだ。振り払っても蹴飛ばしても、執拗に絡みついてくる。

 り以子は猛烈な後悔に襲われた。やはりウォーカーはきちんと始末するべきだった。後々こういうことになるんだから。こんなことなら、知らない人なんか助けてやるんじゃなかった……。

 暴れるり以子の足がウォーカーの喉に入った。動きが詰まった一瞬のうちに、り以子は素早く後ろに下がった。その時、ウォーカーの後ろに人影が現れた。その人はウォーカーの隣に並んでしゃがみ込むと、自分を見上げた半壊の顔を同情的な目で見つめた。

「恨まないでくれ」

 囁くように言った男性の言葉を理解できず、ウォーカーは苦しげに蠢いている。

 男性はホルスターから拳銃を取り出すと、口元をわなわなさせてウォーカーの顔に向けた。ウォーカーが手を伸ばす。次の瞬間、体の芯を震わせるような音を立てて、銃口が火を噴いた。眼窩から飛び込んでいった銃弾は、一瞬にして、ウォーカーを屍に変えた。

 呆然とするり以子の上に、大きな影が差した。

「遅れてすまない」

 昨日とは違う、しっかりとした穏やかな口調だった。大きくて骨ばった手が、り以子の眼前に差し出された。

「おいで。一緒に行こう」

 星型のバッジがきらめく大きな帽子の下で、澄んだ綺麗な青色をした保安官の瞳が、慈しむようにり以子を見つめていた。