Days Gone Bye

目覚めの朝

 リック・グライムズが事態を把握できたのは、恩人とはぐれて大分経った後だった。

 昏睡状態から目覚めると、世界は悪夢に変わっていた。慣れ親しんだ町には途方もない数の死体が放置され、軍が乗り捨てた戦車やヘリコプターが無造作に転がっていた。恐怖で全身が震え、おまけに腹の銃創がじくじく痛むから、まともに体が動かない。あまりにも無防備だった。そのまま食い潰されていてもおかしくなかった。

 下顎がちぎれてぶら下がり、左胸に大穴が空いているのに歩いている男。下半身がなく、はみ出した腸を引きずりながら弱々しく動く女。まるで何日も前から野晒しになっている死体みたいだった。恐ろしくなって腰を抜かしていると、どこからともなく現れた黒い影が男を斬り殺し、自分を連れ去ろうとしたので振りほどいた。その後は家族のことでパニックを起こしていたためよく分からない。

 その後出会った黒人親子からこの国に巣食う『死』の存在を知らされた。そして、自分は危険な場所に命の恩人を放ったらかして来てしまったのだと気付いた。

 夜になるとウォーカーがぞろぞろと集まってきた。銃を撃ったせいかもしれないとモーガンが言っていた。リックが恩人を置いてきたのはちょうどその辺りだ。無事だろうかと考えると不安で堪らなくなった。

 翌朝、簡易的な武装をして戻ったが、恩人の姿はなかった。妻のローリと息子のカールの行方も分からない。自宅から大量の服と壁の写真、しまってあったはずのフォトアルバムまでなくなっていたので、生きてどこかへ避難したのだろうと踏んだ。デュエインの話によれば、アトランタには大規模な避難所があり、軍に守られているという。CDCが問題解決に当たっているとも。

 行き先は決まった。リックは職場の武器をありったけ持ち出し、モーガンと山分けした。ついでにシャワーも浴びた。驚いたことに、ちゃんとお湯が出たのだ。これは最高だった。汗と泥汚れを落とし、鬚を剃り、清潔な制服に着替えた。身なりを整えると、何故だか不思議と自信が湧いた。自分は戦える。自分には守りたいものを守る力がちゃんとあるのだ、と。

 変わり果てた哀れな同僚の眉間に餞別の銃弾を残し、モーガンと別れた後、パトカーで町中を巡回した。そして、ついに見つけた。初めて出会った場所から少し離れたところに、黒い影が尻餅をついていた。あの時見逃して行った半身のウォーカーに足を掴まれ、弱々しく声を上げている。

 出会った時と真逆だなと暢気なことを考えながら、ウォーカーの隣にしゃがんで干からびた顔を覗き込んだ。

「恨まないでくれ」

 白っぽく濁った目がリックを見つめ返している。動くたびに骨が軋み、苦しそうに見えた。こんな姿になるまで嬲り殺され、さぞ恐ろしかっただろう、痛かっただろう。今もなお苦しみ続けているなんて──銃を構え、迷わず引き金を引いた。銃声がそこら中に響き渡り、ウォーカーは屍に還った。

 ホルスターに銃を戻しながら、リックは改めて恩人を見た。

 まだ年若い少女だった。制服を着ているので高校生だろう。アジア系の顔立ちをしていた。自分はこんな子の手を汚させた挙句、ウォーカーの巣窟に置き去りにしてしまったのか。罪悪感で胸がいっぱいになった。

「遅れてすまない。おいで。一緒に行こう」

***

 少女はリイコ・カズモリと名乗った。日本から来た修学旅行生だそうだ。教科書の例文のような文法でたどたどしい英語を話すので、外国人だろうとは初めから思っていた。

 先生や同級生とはぐれ、しばらく難民キャンプに身を寄せていたが、今はアトランタに向かっているところだと言う。一人ということは、恐らくはぐれたかキャンプが壊滅したかのどちらかだろう。さぞかし心細かったに違いない。助手席に座る小さな丸い頭を見ていると、無性に撫で回してあげたくなった。

 り以子は随分と自分に気を許してくれているようだった。出会ってすぐに「保安官だ」と名乗ったのが彼女の警戒心を緩めたのだろうと思っていたが、助手席で「暑い暑い」と靴下を脱ぎ、ズボンを太ももまでたくし上げて無防備そのものの姿を晒しているところを見ると、もともと致命的に危機感が足りないのだと分かってハラハラした。

 英語は堪能ではないようで、リックが話す時はなるべくゆっくりはっきりと発音してやらなくてはならなかった。簡単な言葉でも二度三度と聞き返されることがあったが、煩わしさはなかった。一生懸命に自分の話を聞こうとする姿勢がいじらしく見えたのだ。

「君は侍か?」

 互いの身の上話が一段落したところで、リックは冗談交じりに訊いてみた。り以子はびっくりしたように目を丸くして、ぶんぶん頭を振りながら「ノー!ノー!」と繰り返した。

「私は刀をもらいました。この刀の持ち主はウォーカーでした」
「……なるほど」
「私は居合道クラブに所属しています」

 居合道クラブが何かよく分からなかったが、とりあえずアメリカがウォーカーだらけになってから手に入れた装備のようで安心した。

 雑談も終わると、リックは無線の緊急回線を通じて何回か呼びかけを試みた。他に似た境遇の人がいれば情報が欲しかったし、助けが必要ならば手を貸してあげたかった。しかし、返答はまったくなかった。

 そろそろガソリンがなくなってきた。仕方なく路上に車を止め、トランクからポリタンクを出して、付近のガソリンスタンドに立ち寄った。安全か危険か分からないので、り以子には身振り手振りで車内に留まり、物音を立てないよう言いつけておいた。結果的には無駄足だった。ガソリンスタンドは墓場と化し、『ガソリン切れ』と書かれた看板がぶら下がっていた。ぬいぐるみを持ってうろついていた少女のウォーカーを一体倒したので、直に銃声に釣られた連中が集まってくるだろう。リックは早足で車に戻り、再び車を出した。

 またしばらく車を走らせ、農場のようなところに出た。期待は出来ないけれど、周りに何もないところなので、もしかしたら生存者が残っているかもしれない。農家の住人にガソリンを分けてもらえるよう頼んでみることにした。大きな声で挨拶するが、人の声は返ってこない。回り込んで窓から中を覗き込むと、凄惨な心中の現場が放置され、蝿が湧いていた。り以子を車に残しておいて本当によかった。

 こみ上げる吐き気をなんとか抑えて踵を返した時、動物が鼻を鳴らす音がリックの耳に飛び込んできた。思わず足を止めて振り返る。一頭の立派な馬が、囲いの中で暇そうにリックを見つめていた。