Days Gone Bye

目覚めの朝

 二人は車を乗り捨て、馬でアトランタを目指した。馬に乗る保安官とは西部劇みたいだ。すっかり閑散としてしまったハイウェイを、蹄を鳴らしながらとぼとぼと進んでいく。り以子は後ろから抱きしめられるような格好でリックに支えられていて、不謹慎にもちょっぴりどぎまぎした。背中にがっちりとした胸板が当たり、思わず前かがみになりかけたけれど、リックが「危ない」というようなことを言いながら抱き寄せてきたので観念した。観念しようが死にそうだったけれど。

 かなり長い時間をかけて、ようやく念願の街が見えてきた。青空を背景にそびえ立つ超高層のビル群──アトランタだ。

「うわあ……」

 り以子は思わず歓声を上げていた。初めて見る景色に、修学旅行気分がよみがえった。きっと暢気なお上りさん丸出しの顔をしていたのだろう、後ろから顔を覗き込んだリックが小さく笑った。くすりと揺れた息に首筋のあたりがくすぐったくなった。

「来るのは初めてか?」
「えっと……はい。私は初めてこの街を見ます」
「行こう、なるべく音を立てないように」

 街は無音だった。人が誰もいない。ゴミが散乱し、ところどころに車が放置されている。想像していたのと様子が違う──り以子とリックは顔を見合わせて首を傾げた。

 路上でヘリやバスが焼け焦げていた。二人の想像に負えないような、壮絶な何かが起きていたようだ。朽ちたバスの横を通り過ぎると、蹄の音に目を覚ましたウォーカーがのそりのそりとバスを降りて来た。馬が驚いて跳びのき、リックがそれに驚きの声を上げた。

「大丈夫だ。慌てることはない」

 リックは穏やかに馬をなだめると、ウォーカーを無視して路地を進んだ。

 戦車や軍用車が乗り捨てられ、カラスが退屈そうに鳴いている。なんだか不気味なところだ。本当にシェルターがあるんだろうか……。

 胃袋の底を震わせるような低音が聞こえ、二人は反射的に顔を上げた。ガラス張りの高層ビルに小さな魚のような影が反射している。ヘリコプターだ!リックが馬の腹を蹴って走り出した。ヘリの音を追いかけるつもりのようだ。威勢良く曲がり角に飛び込んだ二人と馬は、しかし、衝撃的な光景を目の当たりにして急停止した。馬のいななきが反響する。凍りつく二人の眼前に、夥しい数のウォーカーの群れがあった。

 り以子は金切り声を上げた。リックが大きな手の平でその口を塞ぎ、大慌てで方向転換した。飢えたウォーカーの群れが追いかけてくる。振り向いた先にも大勢のウォーカーが寄り集まりつつあった。右も、左も、見渡す限りウォーカーで埋もれている。

 呻くように声を上げるり以子を、リックが強い力で抱き込んだ。馬の方向を変えて進もうとしたが、そっちは既に眼前までウォーカーが迫ってきていた。馬が興奮して立ち上がり、二人は振り落とされそうになる。後ろから寄ってきたウォーカーが馬の鞍を掴んだ。リックが恐怖に声を上げながら馬を進めようとしたが、もはや身動きが取れないところまで追い詰められてしまっていた。

 馬が暴れ、言うことを聞かない。手という手が次々に伸びてきてリックとり以子を引き摺り下ろそうとしている。視界が激しく揺れ、何が何だか分からなくなった。次の瞬間、り以子の目には青空が映っていた。馬から振り落とされたのだと分かった時には、四方八方をウォーカーに囲まれていた。

「きゃあああああっ!」

 り以子の甲高い悲鳴がそこら中に響き渡った。腐った人垣の向こうで、さっきまで乗っていた馬が引き倒されるのが見えた。けれど、馬の心配をしている場合ではなかった。無様に尻餅をつくり以子に、おぞましい顔をしたウォーカーの群れが、涎を滴らせながら迫ってきている。

 り以子は何度も何度も叫んだ。つんざくような若い少女の声が余計にウォーカーを呼び寄せているのだと、冷静に物事を判断する能力すら失われていた。一番先に伸ばされた手を振り払い、尻をついたまま後退りしながら、無我夢中で刀を抜いた。形もへったくれもなく、滅茶苦茶に刀を振り回すと、どす黒くて粘性のある腐った血がびしゃびしゃ飛び散った。

「り以子!」

 背中が何かにぶつかり、びっくりしてまた叫んだ。リックはすかさずり以子の口を塞ぎ、顔を自分の胸に押しつけるように抱き寄せながら、戦車の下へ潜り込んだ。

 しつこいウォーカーが何体か、這いつくばって二人を追ってくる。後ろからも──前からも。とても逃げ切れない。リックは体を返して仰向けになると、り以子を抱いたまま片手で銃を抜き、迫ってくるウォーカーを次々に撃ち殺した。その銃声がさらにウォーカーを呼び寄せる。きりがない。

「──ローリ、カール。ごめん」

 リックは自らのこめかみに銃口を突きつけながら、天を仰いだ。
 仰いだ先に、奇跡があった。

 ──逃げ道だ!

 リックはり以子を穴に押し込むと、すぐに自分も這い上がって扉を閉めた。そこは戦車の中だった。二人とも転がるようにして扉から離れ、壁が背中にぶつかってようやく止まった。心臓が激しく脈打ち、息も切れ切れだった。

 座り込んだリックの隣に兵士が一人死んでいた。リックは息を落ち着けながら、兵士の装備から銃を一丁拝借した。すると、「俺の武器を返せ」とばかりに兵士が目を開け、リックを睨んだ。リックは息を呑み、ほとんど反射的に兵士の顎から脳天を撃ち抜いた──。

 密閉された鉄の塊の中で、たった一発の銃声が何重にもなって激しく反響した。脳みそがガンガン揺れ、耳鳴りと吐き気がする。り以子はその場に崩れ落ちて悶絶した。

 しばらく堪えてようやく意識がはっきりしてくると、り以子は抜きっぱなしだった打刀に気づき、こびりついた血を兵士のズボンで拭き取ってから鞘に収めた。リックは残り少ない弾の銃を額に当て、絶望に暮れている。

 混乱していた気分が落ち着いてきて、り以子はようやく自分たちの愚かさを思い知った。堂々と大通りを闊歩し、ウォーカーを呼び集め、キャーキャー喚いて銃を乱射するなんて。ここで待っていればじきにウォーカーの興奮は冷めていくだろうか?そうなれば逃げ出せる?記憶の中のウォーカーの数を数えると、それは到底無理な気がした。

 その時、無言の戦車の中に、ジジッという音がした。

「おい」

 り以子とリックはゆっくりと顔を上げ、信じられない気持ちで戦車の無線機を凝視した。

「そこのアホ」

 これは──録音だろうか?
 硬直する二人に向かって、声はさらにたたみかける。

「戦車の中のあんたらだよ。乗り心地は?」