Guts

生き残るための方法

 地上は相変わらずウォーカーだらけだった。アンドレアが「タイムズスクエアみたいになってる」と溜め息まじりに漏らたのを聞いて、り以子はニューヨークにも行きたかったなぁと残念な気持ちになった。今となっては絶対に近づきたくないくらいだが。

 Tドッグたちは依然と無線機での交信を試みていた。ジジッという機械音がひっきりなしに聞こえている。

「電波は?」
「メルル・ディクソンの頭ぐらい弱い」

 メルルが黙って中指を立てた。

 お天気も怪しくなってきた。先程から遠くに雷鳴が聞こえる。これは一雨来そうだと憂鬱に思って曇天を見上げていると、大人たちがどうやって脱出するかで揉めていた。大人たちといっても、そこにメルルは含まれていない。

「なあ、美人さん。手錠を外してくれ。ここを出て奴らを殺そうぜ。どうせ死ぬんだ」
「お断りよ」

 メルルは荷物を整理するアンドレアに声をかけ、冷たくあしらわれていた。振られたメルルの矛先は、一人ぽつんと座り込んでいるり以子に向けられる。

「おい、あんた。あんただよ、そこの女子高生スクールガール。さっきはジャップなんて言って悪かったさ。なあ、これを外すよう保安官野郎に頼んでくれよ。あんたがニコッと笑ってクソ野郎の股に手を置けば一発だろ?」
「やめろ。彼女にお前の下品な言葉を聞かせるんじゃない」

 り以子がメルルの言葉を聞き取ろうとじっと口元を見つめていると、リックが間に入ってきた。

「り以子、相手にしちゃダメだ。奴が何て言ってるかなんて、君は一生分からなくていい」
「あの男性は私を『ジャップ』と呼びます」
「それも含めて、だ」
「ジャップって何ですか?」

 屋上の空気が一瞬止まったような気がした。哀れむようなTドッグの視線を受けて、ようやく思い至った。ああ、差別用語か!日本人に囲まれた人生で日本人を侮蔑する言葉を浴びせられるなんてまずないので、実際に自分が言われたところでピンと来なかった。

 リックはり以子の呆け顔に向かって溜め息を吐くと、少し離れたところを指差した。

「り以子、あっちに行って荷物を整理していてくれ。何か決まったら声をかける」

***

 話し合いの末、Tドッグとメルル以外の大人たちは、地下が下水道につながっているかもしれないので、それを確認しに行くことになった。負傷したTドッグは引き続き無線係、り以子は何かあったらキャーッと叫ぶ係だ。

 大人たちがぞろぞろと下りて行ってしまうと、り以子は急に心細くなった。Tドッグもメルルも強面で、身体が大きく、かなり苛立っている。同じ空間にいるだけでびりびりして緊張した。

「誰かいないか?ハロー、応答せよ。独り言はもううんざりだ」
「俺もだ」

 メルルが嘲るように言った。

「手錠を外せ。うるさくて頭痛がする」
「頭を取っちまえば痛みも消える。気分転換に試してみろ。そういえば女子高生が剣を持ってたな。俺から彼女に頼んでやろうか?正しい言葉遣いで」
「いいか?手錠を外してくれたらお前の相棒になる──なあ、あそこに弓のこがある。取ってくれ。礼はする」

 メルルは屋上の隅に置かれた工具箱を指差した。Tドッグは無言で目を細めた。

「何とか言えよ。外してくれ」
「……また俺を殴るんだろ。『ニガー』って」
「待てよ、人種の違いはどうにもならんだろ。ただそれだけの話さ」

 Tドッグは呆れたように無線をいじった。

「お互いに得するなら協力し合える。さあ、弓のこを取って来い」
「保安官が戻って来たら撃ち殺す気だろ」

 Tドッグの目は揺るぎない。メルルは小さく笑った。

「あの……Tドッグさん?」

 り以子がおずおずと呼びかけると、Tドッグが驚いたように目を丸くした。ろくに英語を話せないり以子が、まさか自分から話しかけてくるとは思っていなかったのだろう。

「リックさんが戻って来た時、私は手錠を外すよう頼みます」
「正気か?こいつは俺たちを危険に晒したんだぞ。君も初対面で迫られそうになった!」

 Tドッグが無線を地面に叩きつけた。り以子はびくびくしつつも、怯まずに主張を続けた。

「私は知っています。だけど、私は思います──えーと、緊急時、もしメルルさんが動けないと、私たち全員が迅速に逃げることが出来ません。それは危険です」

 Tドッグは憮然とし、メルルは調子に乗って歓声を上げた。

「そうだ!いいぞ。あんたはお利口だ。この手錠が外れたらかわいがってやるよ。俺は若い女に悪くはしないぜ。特に従順なのにはな」
「やっぱりノーだ。こいつ、よからぬことしか考えてないぜ」

 却下されてしまった。り以子はちょっと考えてから、両手を拘束してはどうかとジェスチャーで提案してみた。今度はメルルが機嫌を損ねた。

 遠くの方でガラスが割れる音がした。り以子は弾かれるように立ち上がり、メルルは「何だ」と混乱気味に喚いた。きっと正面ドアのガラスが割れたのだ。ここに留まっていられるタイムリミットがさらに短くなってしまった。

「奴らが入って来た?」

 Tドッグが青い顔をした。

「ドアは二枚ありました。私は彼らがそのうちの一枚を壊したと思います」
「長くは保たないぞ」

 り以子は黙って周囲に目を走らせた。最悪の場合、隣のビルに渡ることは出来ないだろうか?

「モラレスたちはまだか?」
「地下でおっ死んだのかもな」
「不吉なことを言うのはやめろ!」

 Tドッグとメルルの言い合いは続いている。しかし、り以子が囲壁に飛びついてお腹まで乗り上げると、よほどびっくりしたのか二人して「おい!」と連呼した。

「何してる!気が変になったのか?」
「私たちはあっちにジャンプできませんか?」

 り以子は隣のビルを指差して訊いた。Tドッグは一瞬不可解そうな顔をした。

「隣のビルにってことか?何人かはできるかもしれないけど、あんたのような女性陣には無理だ」
「何故だか怪我した間抜けもいるしな」

 メルルが余計に言い足すと、Tドッグが睨んだ。

 いいアイディアだと思ったのに、所詮高校生の提案は子供の思いつきということか。がっかりして地面に座ろうとしたら、横からぬっと伸びてきた手にお尻を触られた。びっくりして悲鳴を上げると、Tドッグがかなり怒った様子で「おい!」とメルルに怒鳴った。メルルは楽しそうにニヤニヤ笑っていた。

「いいだろ?お前らと缶詰めで溜まってるんだ」
「保安官に言いつけるぞ」
「人種が違うと声も違うって知ってるか?アジア人のは甲高い。俺は案外いけるぜ」
「おい女子高生、こっちに座れ。そいつの近くに寄るんじゃない」

 Tドッグが自分の真横を叩いてり以子を呼んだ。り以子は一瞬ためらったが、渋々Tドッグの隣にしゃがんだ。

「おい!何かあったのか?」

 ドタバタと慌ただしい足音が屋上に戻って来た。Tドッグがげっそりした顔で早速言いつけた。

「ディクソンが女子高生を触った」
「いい声で啼いただろ?」

 嬉々としたメルルを無視して、リックがり以子を見た。どうしよう。お尻を触られたくらいで全員を呼び戻してしまった。決まり悪くなって俯くと、リックは強引にり以子を立たせて皆の方へ連れて行った。

「おい、保安官!女は全部独り占めか?いい気になりやがって」

 メルルが何か叫んでいたので振り返ろうとしたら、リックに掴んだ腕を揺さぶられて止められた。

「り以子、相手にするんじゃないと言ったろ?」
「すみません……」

 遥か後ろでメルルが何やら激しく怒鳴り散らすのが聞こえた。リックが顔をしかめ、グレンが両手でり以子の耳を塞いだので、きっと十五歳が聞いてはいけないような汚い言葉遣いだったのだろうが、ばっちり「ビッチ」と言ったのだけは聞き取れてしまった。

「教育に悪いわ」と、アンドレアが片方の眉を吊り上げた。
「覚えさせなきゃいい」とモラレス。
「私は『ビッチ』は分かります」

 り以子が馬鹿正直に言うと、正面に立ってり以子の頭を抱えていたグレンが「なんでそんなの知ってるんだ」と衝撃的な顔をした。