Guts

生き残るための方法

 どうやら地下下水道の案は使えなかったらしい。脱出計画は振り出しに戻り、皆で近くに使えそうなものがないか捜した。双眼鏡を覗いていたリックが自分たちのいるデパート付近の地上に乗り捨てられたトラックを見つけたが、そこに辿り着くにはウォーカーの群れを突っ切って行かなければならない。それはとても対処できる数ではなかった。リックとり以子が大量のウォーカーをかわしてここまで逃げて来れたのは、連中が馬に夢中だったことと、グレンの冴えた知能、そして奇跡がうまい具合に重なったからだ。二度も三度も狙って出来ることじゃない。……が、それを狙わなければここから脱出はできない。

 ヒントを見つけるために、皆でウォーカーの習性をおさらいした。まず、音に反応する。聴覚があり、それを処理する知能も残っているのだ。そして、僅かながら視覚もある。濁った目で少なくともぼんやりとは姿を判別出来ている。それから、嗅覚だ。餌の臭いを嗅ぎ分け、同類は襲わない。

「奴らには死臭が漂ってる」

 アンドレアが嫌悪感をにじませて言った。それを聞いたリックは何か閃いたようだったが、その割にはなぜかあまり浮かない表情をしていた。そのわけを、り以子はすぐに思い知ることになる。

「もしオリンピックに最悪のアイディアを競う種目があったら、これが金メダルだ」

 一階の売り場で必要品を集めながら、グレンが鬱々と呟いた。モラレスが考え直すように言っているが、リックの意志はすでに固く決まっていた。

「時間がない。二重扉の一枚はすでに破られてる」

 このビルの入り口付近に、り以子たちが逃げ込んで来た時に殴り殺したウォーカーの死体がある。リックとモラレスでそのうちの一体を回収し、空き部屋に連れ込んだ。

 り以子はリックから「絶対に入るな」と釘を刺され、ドアの外で待っている。物凄く嫌な予感がして、心臓が変な音を立てていた。部屋に入る前、大人たちは服の上から作業着を着て、分厚いゴム手袋を嵌めていた。

 ドアが閉まってしばらくは、何の音もしなかった。何か話しているのか、リックの低い話し声だけが微かに聞こえた。

 しばらくして、グシャッという耳を塞ぎたくなるような音と、皆が口々に祈ったり呻いたりする声が聞こえ始めた。り以子はすくみ上がり、しゃがみ込んで頭を抱えた。なんてことだと思った。大人たちが扉の向こうで何をしているのか分かってしまった。り以子は「早く終わりますように」と体を揺すって祈ったが、地獄のような音は長く続き、やがてグチャグチャと何かを塗りたくっているらしい音に変わった。とうとう誰かが吐いた。

 扉が開き、ひどい姿をしたリックとグレンが出てくると、り以子は想像をはるかに超える衝撃で、朝食に何を食べたか皆にお披露目してしまうところだった。二人は変色した泥のような血と肉を服に塗りたくり、首から腸と手のネックレスをぶら下げていたのだ。

「最悪……」

 思わず日本語で呟いたが、何を言ったのかは誰もが分かっただろう。

 メルルを拘束する手錠の鍵は、Tドッグが預かったらしい。Tドッグとり以子は先に屋上へ戻り、ベースキャンプへ通信する作業を再開した。少ししてからモラレスたちも大急ぎで戻って来た。ただごとではない皆の様子にメルルが何事か喚いていたが、いちいち状況を教えてあげられるほど心に余裕を持った人はいなかった。

「こちらTドッグ。聞こえるか?応答せよ──」
「あそこだ!」

 双眼鏡を覗き込んだモラレスが、地上の一点を指差して声を上げた。この距離で、しかも真上からではよく分からないが、言われてみれば武器のようなものを引きずって歩く不自然な人影があるような気がした。

 雷鳴が轟いている。分厚い雲がかかり、辺りが薄暗くなってきた。

「手錠の鍵はどこだ?」

 今頃になってリックの姿がないことに気づき、メルルが少し青白い顔をして訊ねた。Tドッグはポケットから取り出した銀色の小さな鍵を掲げ、見せつけるように小さく揺らした。メルルは苦虫を噛み潰したような顔をする。二人の関係が完全に逆転していた。

「あの、Tドッグさん?」
「何だ」

 り以子が囁きかけると、Tドッグはメルルから目を離さずに答えた。

「メルルさんを解放しませんか?私たちはすぐに出発したいです」
「おお、女子高生!あんたは天使だ!」メルルが明るい声を上げた。「そうだ、Tドッグ。手錠の鍵を寄越せ、クソ野郎!」
「ダメだ。今ここで奴を自由にしたら、全部台無しになる」

 思いがけず、Tドッグの無線機が奇跡的にどこかへ繋がった。Tドッグはしきりに「ウォーカーに取り囲まれ、デパートから出られない」ということを伝えたが、向こうの応答はザーザー音に紛れてよく聞こえなかった。それからすぐにうんともすんとも言わなくなってしまった。Tドッグとり以子はがっかり項垂れたが、顔にぽつんと来た冷たい感触で、それどころではなくなった。

「マズいぞ」

 ──雨だ。

「いつものにわか雨だ。すぐに止む」

 モラレスはそう言ったが、雨足は強まる一方だった。こんなに降り出しては、服に塗りつけただけの血なんてすぐに洗い流されてしまう。

 どうかバレませんように……。
 祈ることしかできないり以子たちを裏切るように、ウォーカーの群れの動きが乱れ出した。

「気づかれたんじゃない?」

 のそのそ歩いているだけだったウォーカーが、一斉にリックたちに向かって走り出した。り以子は悲鳴を上げたくなるのを必死にこらえ、固唾を飲んで二人を見守った。やがて二人がフェンスをよじ登り、ウォーカーの人垣の向こうに消えた。無事逃げ切れたのだろうか?それとも──不安で胸がちぎれそうになっていると、数発の銃声が応えるように響き渡った。

 リックだ。無事なんだ!
 安堵に胸を撫で下ろしたのも束の間、皆は目標だったトラックが乱暴に方向転換し、反対方向へ発車したのを見て凍りついた。

「行ったわ……」
「何だと?」
「何をやってる!」
「ダメ!ダメ!戻って来て!」

 口々に叫ぶ皆を置いて、トラックは行ってしまった。フェンスを突破し、アトランタの外へ。

 もうダメだ──り以子が力なくへたり込んだ時、Tドッグの無線機が息を吹き返した。相手はベースキャンプではない。グレンだ。盗難車のアラームでウォーカーの大群を引きつけるので、その隙に大通りに面した正面入り口からトラックで迎えに来てくれるという。

 よかった!まだ見捨てられてはいなかった!
 一縷の希望に胸を躍らせ、皆大急ぎで荷物を拾い上げた。

「皆、行くぞ!急げ!」

 モラレスが皆を連れて屋上を飛び出していく。り以子も刀のベルトを付け直し、リュックを背負って立ち上がった。

「俺を置いていく気か?モラレス!おい待て!」
「急いで!」
「俺の銃だけ持って行く気か!」

 喚くメルルには目もくれずに逃げて行く皆を見て、り以子はぎょっとした。なんで?この人、置いていくの?──挙句に鍵を持っているTドッグまでもが皆に続いて走り出したので、り以子は慌てて鞄を掴んで引き止めた。

「Tドッグさん!待って!鍵!」
「俺を置いて行くな!おい、Tドッグ!俺を置き去りにするな!それでも人間か?」

 Tドッグが立ち止まった。屋上の出入口からモラレスが必死に早く来いと呼びかけている。

「Tドッグ!り以子!行くぞ!」

「ダメ!戻って下さい!鍵!」
「行かないでくれ!」

 Tドッグは二つの勢力に挟まれてグラグラ揺れていたが、やがて彼の中の良心が勝った。工具箱を蹴散らしながら駆け戻ってきたTドッグに、メルルが歓声を上げる。

「そうだ、来い!早くこいつを外してくれ──」

 ところが、あと少しというところで、思ってもいなかった不幸が起きた。Tドッグが足を滑らせて転倒し、大事な鍵がその手から飛び出していってしまったのだ。三人が息を呑み、鍵に向かって手を伸ばした。小さな銀色の光は、嘲笑うかのようにその手をかい潜り、ぽっかりと黒い口をあけていた排水口の中へ飛び込んでいった──。

「ダメーッ!」

 り以子は絶叫しながら排水口に飛びつき、何のためらいもなく右腕を突っ込んだ。肩まですっぽり埋まった腕は、何か尖ったものに引っかかれて鋭い痛みに襲われたけれど、それを気にかける余裕はなかった。必死に腕を伸ばし、鍵を探す。しかし、パイプは下へまっすぐ伸びていて、鍵はとっくにり以子の手の届かないところまで落ちてしまっていた。

「てめぇ、わざとやったな!ふざけるな!」
「違うよ!事故だ!」
「俺も連れて行け!置き去りにするな!」

 メルルとTドッグが激しく言い争っている。り以子は諦めて腕を引き抜くと、散らばっていた工具を拾い、手錠の鎖を叩き始めた。メルルがハッと息を呑んだ。動揺したように揺れる色素の薄い目が、べそをかきながら工具を振るうり以子をじっと見つめた。

「り以子!無理だ、行こう!」

 駆け寄ってきたTドッグに腕を掴まれたが、り以子は無言でそれを振り払って鎖を叩き続けた。

「り以子、頼む!お前まで置いては行けない!」

 ダメだ。手錠は全然びくともしない。メルルが言葉にならない叫び声を上げ、り以子にすがりついてくる。り以子は工具を放り投げ、ポケットの短刀を抜いた。鎖の輪っかに切っ先を突き立てて、力任せに手錠を引っ張った──。

「──り以子!」

 がっちりとした腕が胸と腹に回され、抗えない力で身体ごと引き上げられた。黒い漆塗りの短刀が、カランと虚しい音を立てて地面に落ちた。

「嫌!放して!」
「待て!Tドッグ、ふざけるな!」
「すまない……許してくれ」

 半狂乱で手錠をガチャつかせるメルルにそう言い残し、Tドッグは走り出した。その肩に米俵のように担がれながら、り以子は必死に手を伸ばす。その手がメルルの伸ばした片手に届くことはなかった。暴れるメルルの姿が無情に遠ざかっていく。

「待ってくれ!置いて行くな!畜生、待ちやがれ!」

 Tドッグは階段に駆け込むと、ドアをがっちりと閉め、鎖を巻きつけて南京錠をかけた。り以子の甲高く泣き叫ぶ声が狭い階段に反響している。

「おい、待ってくれ!」

 泣き喚くり以子を抱えて階段を駆け下りたTドッグは、二重扉の最後の一枚が破れ、ウォーカーの大群がなだれ込んでくるのを目の当たりにした。恐怖で足をガクガクさせながら、やっとの思いで先を行った皆の姿を見つけた。全員まだそこにいた。閉ざされたシャッターの前に固まって、いつでも開けられるように身構えている。

「奴らが来る。急げ!」
 Tドッグが急き込んだ。

 外から誰かがシャッターをノックした。皆で夢中になって鎖を引き、シャッターを引き上げた。その先にトラックの荷台をつけてリックが待ち構えていた。リックは皆から荷物を受け取って放り込んでいく。Tドッグがぐったりとしたり以子を荷台に下ろすと、瞬間的に青ざめた顔をしたが、すぐに両脇に手を差し込んで奥へ引き込んだ。全員が乗り込み、最後にモラレスが扉を閉めた時には、追いついたウォーカーの群れを振り切って、リックがトラックを急発進させていた。

 恐怖に震え、全員が無言だった。トラックの走行音だけが聞こえる静寂の中で、初めて互いの無事を確認し合った。そして、どこにもメルルがいないことに気がついた。

「……手錠の鍵を落とした」

 Tドッグが呻くように打ち明けた。誰も、何も言うことはできなかった。揺れる荷台の中で、深い色をしたり以子の目が弱々しくきらめいていた。