Tell It to the Frogs

命を懸ける価値

 命からがらアトランタを脱出したというのに、車内の空気は息が詰まるほど重いものだった。誰もが仲間を一人置き去りにしてしまったことに後味の悪さを感じていた。リックには彼を拘束した責任があったし、Tドッグはその鍵を託されていた。どれをとっても他に方法がなかったとはいえ、手放しで生還を喜ぶ気にはなれなかった。

「メルルのことは気にするな」

 助手席に座ったモラレスが、気遣うようにリックに言った。

「誰も悲しまない……ダリル以外はな」
「ダリルって?」
「奴の弟だ」

 り以子が引きつったような嗚咽の声を漏らした。メルルには帰りを待つ家族がいたのだと知って、罪悪感に崩れ落ちていた。

 遥か後方から微かに口笛のような音が聞こえ始めた。それは急速にリックたちのトラックに近づいてきた。けたたましい防犯アラームを響かせ、快感に歓声を上げている暴走族のような赤い車は、グレンが走らせているものだ。

「能天気な奴だ」
 モラレスが呆れたように首を振った。

***

 大自然の渓谷を走り抜け、気の滅入るようなアラームの音が鳴り止んだ後、トラックはゆっくりと開けた場所に停車した。どうやらモラレスたちのキャンプに到着したらしい。

 流れでついて来てしまったけれど、どうにも居心地が悪い。そもそもり以子は同級生を、リックは家族を探してアトランタに向かっていたのだ。アトランタの避難キャンプがガセだったと分かった今、二人の旅は振り出しに戻ってしまった。しかも手詰まりで、なす術がない。これからどうするか考えなくては。

 トラックを降りた人たちが、家族や仲間との再会を涙を流して喜び合っている。り以子とリックはトラックの窓ガラス越しに、それをどこか別世界の出来事のように眺めていた。

「よく戻ったな!」
「新入りのおかげだ」

 グレンたちがキャンプにいる誰かと話しているのが聞こえる。

「新入り?」
「ああ、迷い込んだ──ヘリコプター男、来いよ」

 モラレスに呼ばれたリックが遠慮がちにり以子を振り返った。

「り以子、大丈夫か?」

 り以子は浮かない表情でゆるゆると首を横に振った。涙でどろどろになった顔はきっと見るに堪えないだろうし、もう少しここにいたかった。リックは小さく溜め息をつくと、「分かった」と言い残し、一人でトラックを降りて行った。

「彼も保安官だ」

 モラリスの紹介を受けながら、リックがおずおずと輪の中へ入っていく。

 所在なさげだった背中は、しかし、不意に何かを見つけて立ち止まった。信じられないという風に、動揺して揺れた。そして彼は、それに吸い寄せられるようにして走り去っていく。

「パパ!──パパ!」

 リックは小さな男の子を抱き上げ、それから、長い髪をした女性に抱きついた。二人が一体誰なのか。そんなこと、わざわざ訊かないと分からないほど馬鹿じゃない。きっとこれは奇跡だ。そうとしか表現のしようがないとり以子は思った。

 待ち望んでいた家族との再会を、リックはついに果たしたのだ。

 ああ、よかったじゃないか。り以子は濡れた頬を乱暴に拭い、努めて笑顔を浮かべた。よかった。本当によかった。皆、家族の元に帰れたんだ。

 そして、り以子はまた、一人ぼっち。
 でも、これでいいんだ。

 その日の夜、皆で焚き火を囲って食事を取った。スナック菓子じゃない食べ物を口にするのは久しぶりだった。飢えたウォーカーのようにご飯にがっつくり以子を見て、皆がホッとしたように笑ったのが分かった。

 食事を終えると、リックが家族に囲まれて、これまでのいきさつを話していた。彼の話のほとんどがり以子には分からなかったが、奥さんのローリと息子のカールを含め、皆が聞き入っていた。

「おい、エド」

 リックの親友で相棒だというシェーンが、隣の焚き火にいる男性に向かって何かを注意した。あちらの火は人数に対して少し大きすぎる。きっと「火を小さくしろ」と言ったのだろう。

「寒いんだ」
 と、エドが無愛想に答えた。

「ルールだろ?『見つからないように炎は小さく』、だ」
「寒いんだよ。放っといてくれ」

 男は頑としてもシェーンに応じる気がないようだ。なんだか雰囲気が悪い。り以子は内心ビクビクしながらも、ごうごうと燃えさかる大きな炎を見て、黙ってはいられずに口を挟んだ。

「私のキャンプは、たくさんのウォーカーに襲われました」

 向かいでリックが気遣うようにり以子を見たのが分かった。

「キャンプの火がウォーカーを呼んだと思います。とてもたくさん。皆死にました。銃は役立たずでした。私の親友は死にました。私は彼女と手をつないでいました」

 全員が黙り込んだ。目の前の炎を見つめたまま、ぽつぽつと話すり以子にかける言葉が見つからなかったのだろう。その中でシェーンが立ち上がり、エドのもとへ歩いて行った。

「……まだ続けるか?」
「いや」

 エドは鼻で笑い、自分の妻に「火を消せ」と言い捨てた。彼女が火を弱めるのを手伝うと、シェーンは母娘の側にしゃがみ込んだ。

「なあキャロル、ソフィア。大丈夫か?」
「ええ、問題ないわ」

 食い気味に妻のキャロルが答えた。彼女の目がちらりと夫の顔色を伺うように動いた。

「ごめんなさい」
「いいんだ。良い夜を」

 シェーンが戻って来ると、話題は再びアトランタ脱出劇のことになった。自分たちは、いつまでも奇跡の再会に胸を打たれてはいる場合ではないのだ。頭を悩ませる大きな問題が一つ、ずっと皆の胸の内で燻っているのだから。

「ダリル・ディクソンが何て言うか……兄貴が置き去りにされた」

 白い髭を生やした男性──デールが、参ったように言った。メルルを連れて来れなかったことに責任を感じているTドッグとリックの表情は暗い。

 皆の話ぶりから察するに、荒れくれ者のディクソン兄弟はグループでも浮いた存在だったようだ。短気でレイシストなのは兄の方だけではなさそうだ。大事な兄がウォーカーで溢れ返っている街に手錠で繋がれているなんて聞いたら、怒り狂うだけじゃ済まない。アンドレアは「自業自得だ」というようなことを言ったが、それは自分たちが罪悪感から逃れるための弁護でしかない。

「そんな説明で納得するわけがない」デールが首を振った。「彼が狩りから帰る前に、どう言うか考えなくては」

 り以子の瞼の裏に、数時間前の記憶が甦る。全力で叩こうが引こうが傷一つつかなかった手錠、激しく言い争う男たち、子犬のように自分にすがる弱々しい青い瞳……。もっと早く手錠を外すよう提案しておけばよかった。そのチャンスは何度だってあったはずなのに。自分はなんてのろまで役立たずなんだろう……。

「俺は怖くて逃げた。仕方なかった」

 Tドッグが声を震わせると、アンドレアが慰めるように「皆そうだった」と言った。

「いいや、違う。り以子は最後まで奴の手錠を外してやろうとしてた。けど俺は怖くて、彼女を無理矢理連れ出して逃げた」

 皆が驚きの視線をり以子に向けた。しかし、結局何にもならなかったのだから、り以子のしたことは意味のないことだ。

「それで?」

 先を促すアンドレアの言葉で、Tドッグはドアにチェーンを巻いたことを明かした。

「あそこの階段は狭いから、大勢は上がれない。あのドアも通れないはずだ。南京錠もかけたんだ。つまり──メルルは生きたまま屋上で手錠をかけられてる。そういうことだ」

 それが良いことなのか、それとも残酷なことなのか、皆には判別がつかなかった。