Tell It to the Frogs

命を懸ける価値

 二つ目のキャンプで初めて迎える夜は、昼間の脱出劇が嘘のように静かだった。リックは久々の家族と過ごす夜を水入らずで満喫している。り以子がテントを張るのに苦労していると、ジムという男性が手伝ってくれた。ジムはテントを張ってくれただけでなく、懐中電灯と薄いタオルケットも貸してくれた。り以子は懐中電灯の頭にビニール袋を被せ、ランタン代わりに使った。

 寝巻きに着替えるのも面倒臭くて、り以子はジャケットとパーカーを脱いだ格好でどすんと寝床に倒れこんだ。本当に色んなことがあった。生きてここにいるのが奇跡のようだ。

 手を伸ばしてリュックから生徒手帳を取り出した。開くと、挟んでおいた写真がパラリと顔の上に降ってきた。中学の卒業式の写真だ。中高一貫校だったので、まだ友達との別れも知らず、みんな能天気な顔だ。現実のり以子は、写真の中のり以子より少し髪が伸びて瘦せこけ、暗い目をしている。そして、隣にいる友達には顔がない。他の子はどうだろう。無事に生きているだろうか。しぶとそうな友達ばかりだから、皆どこかで生き延びているような気もする。意外と全員同じところに集まって、り以子が羨むような安全な暮らしを送っていたりして……。

 気づくと、り以子は生徒手帳を広げたまま眠っていた。夢も見ず、泥のようにこんこんと。
 そして、新しい朝がやって来た。

 テントから出たり以子を、たくさんの人が笑顔で迎えた。まるで数週間前にタイムスリップした気分になったけれど、馴染みの顔ぶれはどこにもない。

 山のような洗濯物を抱えたキャロルがやって来て、り以子に制服のジャケットとパーカーを寄越してきた。びっくりするほど綺麗になっている。眠っている間に回収し、リックの制服と一緒に洗ってくれたんだそうだ。り以子は感激して百回くらい頭を下げた。

 駐車スペースで昨日の赤い車が分解されていて、グレンがショックで立ち尽くしていた。窓ガラスのない車の何がそんなに良いのかり以子にはよく分からなかったが、グレンは相当気に入っていたのだろう。

 洗い場で顔を洗って歯を磨いたあと、テントに戻って服を着替えた。ズボンがどろどろに汚れたままだったので、仕方なくスカートと紺ソックスに履き替えた。シャツを脱ぐと、なぜか右袖がまっ茶色だった。綺麗に落ちるだろうか。

 荷物を整理していると、持ち物が一つ足りないことに気がついた。黒い漆塗りの短刀だ。そういえば、メルル・ディクソンの手錠を壊そうとした時に使って、そこから回収した覚えがない。

「うわ、マジかー……」

 便利だし、見た目も綺麗で気に入っていたのに。り以子はがっかりして外に出た。

 とても平和だ。物が足りなくて不便そうではあるけれど、皆穏やかに笑って各々の仕事をしている。り以子は手持ち無沙汰で、茸でも採ってこようと林に向かった。

 メルルはどうなっただろう。Tドッグは「ドアを封鎖したのでウォーカーに襲われる心配はない」というようなことを言っていたが、それでも心配は尽きない。助けに戻った方がいいんじゃないかと思う反面、そんな危険を冒せるだろうかと臆病な考えを持った自分もいる。

 しかし、メルルには弟がいる。生きてこのキャンプで生活を共にしている家族が。兄弟が置き去りになっていると知ったら、その悲しみは計り知れない。

 ふと、こう思った。
 置き去りになったのがメルルではなくてり以子だったらよかったのに。このキャンプには、り以子がいなくなって悲しむ人はいない。

 そんな考えをぼんやりと巡らせていると、視界に見慣れたものが映った。あれは食べられる実だ。前のキャンプで穏やかな女性が教えてくれたのを覚えている。その人も襲撃の時に死んでしまった。ウォーカーに転化してり以子の親友を食べていた。

 り以子は脇差を抜いて、枝から木の実を切り取った。力を入れたら右腕がぴりっと痛くなったが、食べ物を見つけられて嬉しかったのでどうでもよくなった。しばらくにまにましながら手の平に転がる木の実を見ていたけれど、少し先でパキッと枝の折れる音がしてハッとした。

「……誰?」

 キャンプの誰かだろうか?恐る恐る声をかけた時──、子供たちの絶叫が聞こえた。

「カール!」
「パパ!」
「カール!カール!」

 り以子は脇差を収め、打刀の鞘を掴んで駆け出した。途中で大人の男性陣と合流し、ジムが仕掛けたウォーカーの侵入を知らせる罠をくぐると、恐怖に染まった顔で駆け戻ってくる子供たちとすれ違った。キャンプの入り口に鹿が死んでいた。武器を構える男性陣の後ろからそっと覗く。お尻に矢が三本突き刺さっている。しかし、子供たちが悲鳴を上げたのは鹿の死体を怖がったからではない。鹿の首を噛みちぎり、肉をむさぼるウォーカーを見たからだ。

 顔中血まみれにして、素手で内臓を引きずり出している様は見るに堪えない。駆け付けたエイミーたちが後ろで息を呑んでいる。

 ウォーカーが自分を取り囲む男たちに気づいて立ち上がった。およそ人間とは思えない恐ろしい声を上げて襲いかかろうとする。すかさずリックが鉄の棒で殴った。それを合図に、シェーン、グレン、モラレスが代わる代わる武器を振るった。崩れ落ちたウォーカーを、皆がよってたかって叩き潰している。それでも起き上がろうとすると、デールが斧で首を切り落とした。

「……ここまで来るとは。初めてだ」
「市内の食料が尽きたのさ」

 ということは、ここもじきに脅威に晒されるのだろうか。冷え冷えとした空気に唾を呑んだり以子は、遠くで葉っぱの揺れる音がしてビクッとした。男たちもすぐに気づき、音のした方に向かって身構えた。

 まさか、もう一体……?
 あの時のように、群れがやって来たのかもしれない……。

 緊張が走った。足音が徐々に近づいてくる。シェーンが銃を構えて進んだ。

 ところが、現れたのは生きた人間だった。皆の知っている人物らしい。ボウガンを抱えた、鋭い目をした男性だ。無頓着そうな短髪で、無精髭を生やし、がっちりした体に泥に汚れたタンクトップを着ている。総出で自分に向かって武器を構えている光景に一瞬ドキッとしたようだった。

「クソったれめ。俺の鹿だぞ」

 男は地面に転がる鹿の死骸を見て、口汚く罵った。

「横取りしやがって……病気持ちの化け物め!膿野郎!」

 もうとっくに動かなくなっているというのに、男はウォーカーの死体をどすどす蹴っている。り以子はゾッとして一歩下がった。

「落ち着けよ」
「黙れ、じいさん。間抜けな帽子を脱げよ」

 デールが宥めようとしたが、男はぐいっと詰め寄って逆に彼を黙らせた。溜め息を吐き捨てながら鹿の臀部から矢を引き抜いているけれど──もしかして、あの矢を再利用するつもりなんだろうか?

 微妙な空気が漂っている。皆が怯えと軽蔑の入り混じった目で男性を見つめていた。

「何マイルも追ったんだ。鹿肉にありつけると思ったのに。噛んだところだけ切って捨てるか?」
「それでも危険だ」と、シェーンが言う。
「……もったいない」

 男は名残惜しそうに鹿を一瞥した。

「リスならある。これで我慢だ」

 肩にぶら下げた獣の死骸を見せつけられ、皆の食欲が少し減衰した。

 その時、体から離れたところに転がっていたウォーカーの首が、軋むような音を立てて動き出した。エイミーとアンドレアがとうとう逃げていった。

「おい、何やってんだよ」

 男性がボウガンを構え、鋭い音を上げて矢を放った。至近距離から撃たれた矢は正確にウォーカーの眼窩を射抜き、今度こそこの世から葬り去った。男性はウォーカーの額を靴で踏みつけ、乱暴に矢を抜いた。何やら赤くて嫌なものが飛び散ったのが見えてしまった。

「脳みそを潰せ。無知な奴らだ」

 矢から赤黒い汁を滴らせながら、男性がこっちに向かってくる。ドキッとしたり以子は頭がパニックになり、右と左のどっちに避けたらいいか分からず棒立ちになった。男はり以子の前で一度立ち止まると、真上から威圧的な目で見下ろして、ふんと鼻で笑った。

「何だよ、こいつ」

 吐き捨てるような言い草が、なんだかとてもショックだった。

 男はわざと肩にぶつかってり以子の横を通り過ぎて行った。思いもよらないくらいの強い力で突き飛ばされて、危なっかしくたたらを踏んだ。近くにいたグレンが「大丈夫か?」と優しく声をかけてきたので、曖昧に笑って流した。

「メルル。兄貴!出て来いよ」

 り以子の心臓が嫌な音を立てた。皆が妙な顔をしていたわけがようやく分かった。荒々しく歩き去るあの大きな背中の持ち主、「リスを煮よう」と兄を誘い出しているあの男こそが、メルルの弟──ダリル・ディクソンだったのだ。