Tell It to the Frogs

命を懸ける価値

 リックが制服に着替えてテントから出て来たのを見計らって、り以子も準備万端の格好で飛び出した。ジャケットの下にパーカーを着込み、なくした短刀以外の武器もしっかり差してあるし、荷造りも終えてある。あとは同行許可をもらうだけだと勇んでリックを追いかけていると、彼は気難しそうな顔をしたシェーンに絡まれていた。

「待てよ、俺は分からない。なぜ行くのか教えてくれ。メルル・ディクソンごときのために──」
「おい、言葉に気をつけろ」

 偶然そこを通りかかったダリルが鋭く非難した。

「正直に言っただけだ。メルル・ディクソン……平気で人を見殺しにする」
「奴がどうであれ、俺は見殺しにできない。野晒しにされてるんだ。捕らわれた獣のように死なせられない」

「それで、あなたとダリルで行くの?」

 ローリが心配そうに訊ねた。リックは無言でグレンに視線を送りつけた。

「……勘弁してくれ」
「君は市内へ何度も行って無事に戻った。君が一緒なら心強い。彼女も安心する」

 そう言われてしまっては、グレンも断ることができないようだった。

「三人で救出作戦か」

 まだ腑に落ちていない様子のシェーンがそう言うと、Tドッグがすかさず「四人だ」と訂正を入れた。ダリルは汚れた矢の手入れをしていたが、顔を上げて鼻で笑った。

「頼りにならねえよ」
「他に誰も奴を救いたいと思ってない」
「お前は?」
「……白人には分からない」

 メンバーが確定になりそうな雰囲気だったので、り以子は慌ててリックの前に飛び出した。怪訝そうに吊り上がった眉を見て、私も行くという強い決心を込めて勢い良く左手を挙げた。

「り以子!」

 リックがたしなめるように声を荒げた。

「君は待っていろ。危なくてとても連れて行けない」
「次はガキかよ。ますます楽しくなってきたな」

 ダリルが吐き捨てた。あいにくほとんど聞き取れなかったけれど、物凄く見下されているのはプンプン伝わってきた。

「だけど、これは私のせいです!」
「何度も言ったが、決して君のせいじゃない。それに──」

 リックは一瞬言葉に迷ったように口をつぐみ、おもむろにり以子の右腕を掴んだ。激しい痛みが迸り、り以子は悲鳴を上げて飛びのいた。

「──どうして怪我を黙っていた?」

 ああ、バレた。
 り以子はたちまちばつが悪くなって俯いた。

「私はたったさっきこれに気付きました」
「手当はしたのか?」
「いいえ……」
「どこだ?見せてみろ」

 無理矢理ジャケットとパーカーを剥ぎ取られ、シャツの半袖の下から放ったらかしになっていた怪我を見られてしまった。肘の上からほとんど肩に近いところまで、縦に長い裂傷が走っていた。もうほとんど血は止まっているが、まだところどころじくじくしている。

「手錠の鍵を落とした時だ」

 Tドッグがハッとしたように言った。ダリルが眉を吊り上げた。

「鍵を落としたのはあんただろ」
「彼女が排水口に肩まで突っ込んで鍵を取ろうとしていたのを見た。俺じゃ腕が入らなかった。きっと袖が捲れて引っかけたんだ」

 大人が一斉に押し黙った。ダリルが矢を拭くのに使っていた赤い布をバシッと振った音が、奇妙なほど際立って聞こえた。

「とにかく、り以子、怪我の手当てをしてもらえ。俺たちだけで行く」
「嫌!」
「嫌じゃない!いいか、これは遊びじゃないんだぞ」
「……私は刀を落としました!私は探さなくてはいけません!」

 り以子は咄嗟に思いついて叫んだ。リックの目が疑わしげにり以子の刀帯に走った。

「両方とも君のベルトに差さってる」
「もう一つ。黒い……短い刀。それは艶があって綺麗です。桜の絵です」

 これくらいと手を使って大きさを示す。なんとなく覚えがあったのか、リックはようやく理解してくれたようだった。

「大事なものか?」
「はい、それは大事です!祖母の形見です!」
「り以子」

 り以子は観念して口を閉ざした。保安官を出し抜くには演技力が足りなかったみたいだ。

「刀なら俺たちでも持ち帰れる。君はここに留まるんだ。いいな?」

 これ以上食い下がることもできず、り以子はがっくりと項垂れた。結局、全部中途半端だ。友達も守れず、リックには逆に助けられ、メルルに至っては助けに行く権利すらないなんて。

 無事メルルを助け出すことが出来たら、晴れ晴れとキャンプを出発できると思ったのに。り以子はむくれて木の麓にしゃがんだ。ダリルの視線がこっちに向いているような気がしたけれど、顔を上げて確認する勇気はなかった。

「四人か」

 デールが話をまとめた。シェーンとローリはメルルのためにリックが危険を冒すことにまだ納得がいっていないようだったが、リックとグレンが市内に落としてきた大量の武器の話を持ち出すと、強く言い返すことができなくなった。ローリには命の恩人と交信する唯一の手段がその武器のバッグに入っていると説得し、半ば強引に押し切っていた。不満げに口をつぐむローリの気持ちが、り以子にはいまいちよく理解できなかった。

***

 市内へはここに来るのに使ったトラックで向かうという。り以子はすでに準備を済ませて荷台に乗り込んでいるダリルを見た。デールたちと揉めているリックとTドッグを睨みつけ、あからさまに苛立った様子で行ったり来たりしている。そのせいか、運転席のグレンはやや緊張気味に見えた。

「グレンさん」

 り以子が運転席の窓ガラスをノックして呼びかけると、グレンは目を丸くして窓を下げた。

「どうかした?やっぱり行きたいなんて言わないよな」
「グレンさん、気をつけてください」

 グレンの軽口はどうせ聞き取れないので無視をして、り以子は拙い英語で懸命に気持ちを伝えた。一度あのウォーカーの群れを見て、そして巻き込まれたり以子には、これから市内へ向かうグレンたちがちゃんと生きて帰って来れるのか不安で堪らない。どうか、全員無事で帰って来れますように──伝えたいことの十分の一も言葉にできないのがひどくもどかしく感じた。

「ありがとう。約束するよ」

 グレンが朗らかに笑った。それから、ちょっと沈黙があった。リックとTドッグはまだデールたちと交渉中だ。ダリルの荒い足取りのせいで、荷台がギシギシ軋んでいる。

「怪我しないでください。全員」
「……努力する。君も、ちゃんと手当てしてもらわなくちゃダメだぞ。傷が残ったら大変だ」

 首を傾げるり以子に、グレンは自分の右腕を指差すジェスチャーをした。怪我のことを言ったのだと分かって、ばつが悪くなった。こんなのはかすり傷で、皆から心配してもらうほどのことではないと言いたいのに、「かすり傷」を何と言うのかさえ分からない。

「『はい』って言わないの?」
「……はい」
「よーし。偉いぞ」

 車内からグレンの手が伸びてきて、ポンポンとり以子の頭の上で跳ねた。

「いつまで茶番を見せる気だ。ここの連中は時間も分からねえのか?」

 真上から不機嫌な声が降ってきて、二人はぎょっと姿勢を正した。ダリルはり以子を睨みつけて険悪な舌打ちを飛ばすと、いきなり足を出し、乱暴にクラクションを踏みつけた。けたたましい警告音が怒号を上げる。リックたちがやれやれとこっちを見ていた。

「おい行くぞ!」

 ダリルを避けて窓に張りついていたグレンは、怯えた顔でり以子と目を見交わした。