Tell It to the Frogs

命を懸ける価値

 リックたちが行ってしまったあと、り以子はローリに腕の手当てをしてもらった。傷口を洗う時にじんじん痛みが走ったが、水気を取って包帯が巻かれると、かなり楽になった。怪我に気づくと急に痛みを感じるようになるのに、手当てを受けると途端にそれがなくなるのは何でだろう。

「夫を助けた、と」

 救急セットを元にしまいながら、ローリが矢庭に話し出した。り以子がきょとんとすると、英語が聞き取れなかったのだと分かって「ごめんなさい」と一緒に分かりやすく言い直してくれた。

「あなたがリックを助けたって、彼に聞いた。お礼を言わせて」

 り以子は口ごもった。「助けた」と言っても、ウォーカーを一体斬り捨てただけで、最終的に助けてもらったのはり以子の方だ。そもそもリックほどの身体能力なら、り以子が手を出さなくても何とかなっていたはずだ。

「リックさんも私を助けました」
「……当然のことだわ。夫にとっては」
「おかげで私は生きています。ありがとうございます」

 深々と頭を下げてから顔を上げると、ローリは驚いたように目を丸くしていた。本人でなく、奥さんにお礼を言うのはおかしかっただろうか?

「……あなたは日本から来たそうね」

 話題が変わった。り以子はローリが慣れた手つきで救急箱を片付けているのをぼんやりと眺めながら、のんびり「はい、そうです」と答えた。

「前のキャンプには、ご家族が?」
「いえ。私は修学旅行でアメリカに来ました。前のキャンプには、友達が一人だけいました」
「他のクラスメイトは?」
「私は分かりません」

 巻いてもらった包帯のほつれが気になって、指で弄びながら答えた。ローリは難しそうな顔をして、溜め息まじりに「そう」と呟いた。

「あなたのご家族は、日本にいるのね」
「はい」
「私の家族は、息子のカールと、夫のリック。ここにいるので全員」

 り以子は手を止めてローリを見つめた。

「私は夫が死んだと思っていた。でも、彼は生きていて、ここに来た。もう二度と失いたくない」

 ローリの手がり以子の手を取った。細くて繊細な彼女の指先は、ひんやりと冷えていた。

「夫は人を助ける仕事をしていたわ。彼があなたの命を救ったことは、妻としてとても誇らしいことよ。だけど今は、私たち家族と共にいてほしい。何よりも私とカールを優先してほしいの。他の人のために、彼に危険なことをしてほしくない」

 せっかく生きて再会できた最愛の夫は、今、キャンプの厄介者のために命を懸けている。客観的に見ればリックは正しい。倫理的で立派なことをしている。だからり以子は支持した。ローリの目の前で。しかし、彼女とってみればそれはあまりにも冷淡だったと、り以子はようやく気がついた。申し訳ない気持ちで頭がいっぱいになり、言葉が出てこない。

 り以子が絶句していると、ローリは「ごめんなさい」と小さく告げてテントを出て行ってしまった。後には、重苦しい空気に押し潰されそうなり以子だけが残された。

***

 女性陣が午後の洗濯をするというので、り以子はさっきまで履いていた泥だらけのズボンと、血で汚れたワイシャツを頼んだ。本当はり以子も手伝いをすると申し出たのだが、怪我をしているので水仕事と力仕事は休んでいてほしいと断られてしまった。

 水仕事と力仕事以外に、ここに仕事はあるのだろうか?り以子は見張りと称して木陰で涼んでいるエドや、石切り場の水辺で子供とカエル獲りをしているシェーンを見て複雑な気分になった。

 せめて食べ物でも採って来ようと、リュックの中のビニール袋を探していると、住宅街から盗んだ手洗い用の衣料洗剤が出てきた。それを洗濯に向かう女性陣に渡すと、小躍りして喜ばれた。これまで服はほとんど水洗いだったらしい。

 さあいざ林へ──勇んで出発しようとした時、キャンピングカーの上に立って正真正銘の見張り番をしていたデールに驚いて引き止められた。どこへ行くのかと聞かれたので、「茸、木の実、採る」などと原始人みたいな片言で説明したら、物凄く渋られた。

「君は怪我人だろう。無闇に歩き回らないでくれ」
「私は治りました。私は大丈夫です。私は武器を持っています」
「包帯を巻いたことを『治った』とは言わない」

 思い切りむくれると、デールは参ったとばかりに両手を挙げた。

「分かった、分かった。じゃあこうしよう。俺の目の届く範囲内で行動してくれ。君の姿が見えなくなったら大声で呼ぶぞ」

 デールは本当にり以子が物陰に消えると大声を出した。あんまり目ざといので、普通の人よりついている目の数が多いのかもしれないとり以子は思った。

 デールに叱られないぎりぎりのところで茸を集めていると、どこからか小枝を踏む微かな物音が聞こえた。り以子はうさぎのように鋭く反応し、神経を研ぎ澄ませた。動物だろうか?キャンプの誰か?それとも──刀を掴み、僅かに腰を落とす。いつでも抜けるように、そっと鯉口を切った。

「そこに誰かいますか?」

 恐る恐る、り以子は気配のする方に呼びかけた。
 返事が返って来れば、キャンプの誰か。逃げていけば、動物だ。もし、そのどちらでもなかったら……。

「俺だ」

 声がして、木の陰からジムが現れた。り以子はホッと脱力して刀をしまった。ジムはり以子の腕にぶら下がっているビニール袋を見て、不思議そうに首を傾けた。

「こんなところで何をしてるんだ?」
「えーと、茸、木の実……私は得ます」
「はあ、なるほど」

 ジムはなんとなく納得したように頷くと、り以子に正しい言い方を教えてくれた。

「茸狩り」
「そうだ、いいぞ」

 大きな手がり以子の頭を力強く撫でた。先生に褒められたような心地になって、なんだかむず痒くなった。

「どれくらい採れたか見せてみろ」

 ジェスチャーで袋を開けるよう促されたので、口を広げて中身を見せると、ジムは機嫌良さそうにひゅうっと口笛を吹いた。

「それだけ集まれば充分だ。キャロルに持って行って、『昼食にどうぞ』と言うといい。きっと彼女は喜ぶぞ」
「昼食にどうぞ?」
「そう。上手いぞ」
「えっと、でも……」

 り以子は躊躇った。まだそれほど皆と打ち解けていない。不安がるり以子の肩にジムはそっと手を置いて、あやすようにポンポンした。

「大丈夫だ。君が思っているよりずっと、このキャンプの人たちは君を歓迎している」

 本当に?

「大丈夫」

 ジムは繰り返しそう言った。その時、ほんの一瞬だけ、帽子の影に隠れた瞳が小さく揺れたような気がした。

***

「兄貴が死んでたら覚悟しろ」

 何度聞いたか分からないダリルの脅迫のせいで、車内は息苦しいほど剣呑な空気だった。Tドッグがうんざりした口ぶりで「奴らは屋上に出られない」と言い聞かせているが、ダリルはそもそも彼のことを信用していないようで、バンダナで口元を拭うその表情からはちっとも納得していないのが明らかだった。

「連れて帰らなかったら今度こそ彼女が発狂する」

 気が滅入ったようにグレンが呻くと、ダリルがハッと笑い飛ばした。リックが助手席から厳しい目を向けた。

「お前の兄貴を助けようとしていた唯一の人を笑うのか」
「おい、耳障りな声で泣き喚くのがそんなに役立つことか?」
「彼女は聡明だ!」Tドッグが気色ばんだ。「こうなることを危惧して、手遅れになるずっと前から手錠を外すように言っていた。彼女に従わなかった俺の落ち度だ。彼女は負う必要もない責任を感じて怪我までしたんだぞ」

 ダリルは一瞬黙り込んだ。Tドッグから苛立ちのこもった溜め息が漏れた。トラックの走行音だけが聞こえる車内で、グレンが不安そうにチラチラ荷台を伺っていた。

「……かすり傷に何の価値がある」
「そう思っているのは君とり以子だけだ」

 リックの言葉で、今度こそ沈黙が降りた。

 ほどなくしてトラックが停車した。市内へ続く線路の上だ。グレンはエンジンを切り、心なしか青ざめた顔で皆を振り返った。

「ここから歩こう」