Vatos

弱肉強食

 メルルの協調性のなさに手を焼いたリックは、彼の弟と命を預け合って行動することを少なからず不安視していた。兄に似て口が悪く、あまりにも短気で手が早い。こうなる前の世界だったら、リックが取り締まっていたような人間だ。些細なミス一つで全滅もあり得る状況で、ダリル・ディクソンという人間が信頼に足るかどうか、それを見極めるには時間がなさすぎた。

 しかし、実際にアトランタの市内に入ってみれば、ダリルの戦力は非常に貴重で頼もしいものだと分かった。兄と違って気配を忍ばせて行動することが出来たし、鋭い洞察力と冷静な判断力も有し、リックの指示に従う意思もある。何より、逞しく鍛え抜かれた肉体と、その手で構えるボウガンの腕前は感服ものだった。音もなくウォーカーを仕留めるので、奴らを呼び寄せることもない。デパート内をうろつくウォーカーを一体ずつ的確に処理しながら、驚くほどあっさりと目的地に辿り着いた。

 Tドッグの言っていた通り、階段にはウォーカーの影はなかった。屋上へと続く鉄のドアは僅かにひしゃげて光が漏れていたが、頑丈そうなチェーンと南京錠のお陰か、そこを何かが通って行った形跡もない。Tドッグがボルトカッターでチェーンを切断すると、ダリルが待ちきれないとばかりにドアを蹴破って飛び出した。

「メルル!メルル!」

 しかし、既に手遅れだった。
 屋上にメルルの姿はなかったのだ。

「嘘だ!嘘だ!──嘘だ!」

 涙をこらえ、悲痛な声を上げるダリルに、リックたちはかける言葉がなくただ立ち尽くした。そこに残されていたのは、切断されて変色した男の右手だけだった。パイプからぶら下がったままの手錠には乾いた血がこびりついていた。

 ダリルが怒りに任せてTドッグにボウガンを向けると、すかさずリックがこめかみに拳銃を突きつけた。がっちりとした大きな身体が怒りと悲しみに打ち震え、矢の先が大きく揺れている。

「本気だぞ。銃声が響いても構わない」

 リックが凄んだ。

 こみ上げる激情を飲み込むようにして、ダリルが力なくボウガンを下ろした。それを見届けたリックもゆっくりと銃を下ろす。解けた緊張にTドッグが思わず息を漏らした。

 ダリルはしばらく悲しみに濡れた目でTドッグを見つめていたが、やがて穏やかに口を開いた。

「バンダナか何か持ってるか」

 Tドッグがズボンのポケットからバンダナを取り出して渡すと、ダリルはそれを乱暴に振って広げ、何度も溜め息を吐きながら血だまりの傍に跪いた。

「左手じゃ切りにくかったろう……ああ、こりゃひどい」

 恐る恐る小指を掴んで兄の手を持ち上げたダリルは、傷口を見て大きく顔をしかめ、溜め息と共にバンダナにくるんだ。

「これを」

 立ち上がると、呆然と立ち尽くしていたグレンに手招きをして背中に回り、乱暴に彼のリュックを開いて突っ込んだ。グレンはかなりげっそりした顔をしていたが、文句も言えずに堪えていた。

「何で切ったんだ?」

 リックが浮かんだ疑問をぽつりと口にすると、Tドッグが付近に転がっている工具箱を指差した。

「そこに弓のこがある」
「血がついてねえ」と、ダリル。「別の何かだ──女子高生の短剣とかな。それを持って行った」
「鞘もか?」

 リックが訝しげに眉を寄せた。ダリルは「鞘?」と繰り返し、素早く周囲に目を走らせた。り以子の言っていた鞘らしきものはどこにも見当たらない。しかし、武器として携帯するのに鞘まで持って行くだろうか?ただでさえメルルは片手を失っているのに、持ち物を増やす意図が分からない。

「おばあさんの形見なのに」

 ばつが悪そうに呟いたグレンに、リックは「問題ない」と言い聞かせた。

「それは俺たちについて来たくてついた嘘だ。なかったらなかったで諦めるだろう」
「何でも分かるな。あんたの女かよ?」ダリルが嘲るように言ったが、
「修学旅行のスーツケースに短剣を入れるか?」という一言で納得したようだった。

「ベルトで止血してるはず。血痕が少ない」

 ダリルは地面に目を落とし、点々と続く血の痕を辿り始めた。兄の壮絶な脱出劇を思い浮かべて息苦しそうにしている。血は封鎖されていたドアの反対側にある出入り口へと続いた。ダリルは重いボウガンを抱え上げ、身構えて中へ進んだ。

「メルル!いるか?」

 ダリルの乱暴な声が反響している。返ってくる声はない。一行はダリルを先頭に階段を下った。顎のちぎれた女のウォーカーをダリルがボウガンで仕留め、その矢を回収してからリックに合図を出して進む。その先にウォーカーの死体が二つ、完全に死んで転がっていた。

「兄貴がこのクソ野郎どもを始末したんだ。一本の手でな」

 血と、そしてそれが何だか知りたくもないような液体が割れた頭から流れ出ている。その傍らに転がっている血みどろの凶器を見て、グレンが不可解そうに首を傾げた。

「レンチで?短剣の方が使いやすそうだ」
「どうでもいい──兄貴は最強だぜ。ハンマーで釘を砕く」

 ダリルは先程回収した矢を装填するのに力みながら誇らしげに言った。リックは拳銃を構え直しながら先へ進んだ。

「どんなにタフでも失血すれば倒れる」

***

 アンドレアとエイミーが魚を釣ってきた。それも、キャンプの全員がお腹を満たせる量だ。皆が感激し、カールは興味津々に魚の鱗を突っついていた。けれど、キャロルの表情は浮かない。女性陣が午後の洗濯に出かけた時、見張りについて行ったエドが彼女に暴力を振るったせいで、シェーンに痛めつけられるという事件があった。きっとそのせいだろう。繕い物をしながらぼんやりと仲間を見つめているキャロルを見て、り以子は少し心配になった。

 そこへデールが困り顔でやって来て、はしゃぐ皆に丘の上を見るよう指差した。容赦のない夏の日差しが照りつける高台で、ジムが一心不乱に地面を掘っている。どうやら、かなり長い時間ずっとあの調子なのだそうだ。

 シェーンとデールが止めに行くというので、皆も心配してついて行った。ジムはぞろぞろ集まった仲間に気づく様子もなく、ひたすらシャベルで土を抉り続けた。その姿は明らかに異様だ。さっき、林の中で会話を交わした時はこんなではなかったのに。

「なあ、ジム」

 シェーンが声をかけても、ジムは止まらない。

「少し手を休めてくれないか?」
「……何だよ」

 ジムがようやく反応した。シャベルを突き立てて、苛ついた感じでシェーンを睨んだ。

「みんな心配してる」
「何時間も掘ってる」
「それが?」
「目的は?地球の裏側にでも行く気か?」
「迷惑はかけてない」

 冗談めかして笑うシェーンを軽くいなして、ジムは再び土堀り作業に没頭した。

「お前が心配だ。今日は38度もある。倒れるぞ」

 デールの忠告すらも、ジムは「大丈夫だ。放っとけ」と突っぱねて作業をやめようとしない。するとローリが我慢できずに進み出た。

「はっきり言って気味が悪いのよ。子供たちが怖がってる」
「怖がることはない。俺は放っといてキャンプに戻ってくれ」

 ジムの息は上がっているし、暑さで顔も真っ赤だ。そうすべきとはとても思えなくて、シェーンは「一休みしたほうがいい」と呼びかけた。

「木陰に入って何か食べろ。君を助けるためにここに来た。ジム、シャベルを俺によこせ」
「断る」
「ダメだ。頼むから渡してくれ、お願いだ。奪いたくない」
「渡さなかったらどうする?エドにしたように殴るか?」

 逆らえば殴るんだろうと挑発的な口ぶりのジムに、言い知れぬ不安を感じた。そして、その不安は的中した。無理矢理シャベルを取り上げようとしたシェーンと、それに抵抗してシャベルを振るったジムとで乱闘が起きたのだ。シェーンは攻撃をかわしてジムを押し倒し、喚く彼をいとも容易く拘束してしまった。

「ジム、落ち着くんだ!誰も君を傷つけやしない、聞こえてるか?しーっ……ジム、安心してくれ」
「そんなの大嘘だ」

 ジムは後ろ手に手錠をかけられるのを見て、苦しげに呻いた。

「女房と二人の息子に俺は何度も言った──『大丈夫だ』と」

 土に押し付けられてモゴモゴ喋るジムの言葉を、り以子は半分も理解できていなかった。だが、彼の目がシェーンを越えて自分に注がれていることに、なぜだかとても妙な感覚がした。

「だが、奴らが押し寄せて来て……家族を奪った。俺は家族が食われてる間に逃げ出したんだ」

 ローリが両手で口を覆って俯いた。重く、のしかかるような沈黙が、叩きつけるような日差しと共に皆の気を滅入らせる。

 大丈夫。

 り以子の頭の中で、数時間前の記憶が言った。その声はジムのものだった。