Vatos

弱肉強食

 その後、ジムは自分やグループの誰かを傷つけることがないよう、精神が落ち着くまで木に拘束されていたが、夕暮れ時になって解放された。もう大丈夫なのかとり以子が声をかけると、今朝と同じ穏やかな表情が返ってきたので、心底ホッとした。

「君を怖がらせて悪かった。もう何ともない」
「私は怖くありませんでした。私は大丈夫です」
「ならよかった」

 その日の夕食は、難民生活になって初めての御馳走だった。しっかりと味の利いた魚のフライが泣くほどおいしくて、この席にジムが戻って来れて本当によかったと思った。

 モラレスが岩を積んで焚き火を細工してくれたので、皆安心して食事が出来た。お腹が満たされ、焚き火も暖かくて、幸せで眠たくなってきた。り以子が目をとろんとさせていると、話題はモラレスが挙げたデールの腕時計のことになっていた。

「どうも気になって仕方ないんだ。腕時計さ──毎日欠かさず同じ時間に、ミサを行うみたいにねじを巻いてる」

 それは皆も常々気にかけていたことのようだ。

「私も不思議に思ってた」と、ジャッキーが笑った。「私には世界が終わったように思えるの。時は止まってるわ」
「なのに毎日ねじを巻いてる」

 するとデールは穏やかに微笑みを浮かべて語った。

「時間は生きるための道しるべだ。日付もそうだ──俺は好きなんだ。受け継がれてきた腕時計を、父が息子に贈る時の言葉がね」

 お前に希望と願望の霊廟を授ける。
 ここにはかつて私や私の父の願いが収められていた。
 それを私は時間を気にするためでなく、忘れるために与える。
 時を忘れろ。
 時間を征服することに力を尽くすな──。

 それはり以子には少し難しかった。通訳を求めるようにジムに目をやったけれど、薄い笑いが返ってきただけだった。いつか理解できる日が来るのだろうか?ぼんやりとそんな風に考えていると、

「あなた、変わってる」
 エイミーの一言で皆が笑った。

「俺じゃない、フォークナーだよ。ウィリアム・フォークナーの言葉だ」

 それって誰だっけ?とジムを見る。今度はり以子の質問が言葉になる前に「小説家だよ」と答えてくれた。

 ちょっとして、おもむろにエイミーが立ち上がった。アンドレアがどこへ行くのか聞くと、ちょっと怒ったように「おしっこよ──皆には内緒ね」なんて言うので、思いがけず笑いが起きた。

 リックはまだ帰らない。久々の御馳走も遠慮を知らない皆の食欲のせいで、もうほとんど残っていなかった。随分暗くなってしまったから、ひょっとしたらどこか安全な場所で夜を明かしているのかもしれない。

「り以子、もう少し食べるかい?」

 ジムが残りのフライを取ってくれようとした時、キャンピングカーのドアが開いて、トイレの紙の場所を訊ねるエイミーの声がした。流石にそれくらいの英語は聞き取れる。ついでにその場所に心当たりがあったので、り以子は答えようと思って振り返った。
 振り返って、背筋が凍りついた。

 ドアを押さえるエイミーの白い腕に、ウォーカーがかじりついていたからだ。

 り以子は弾かれるように立ち上がり、腹の底から絶叫した。今の今まで気づかなかった。野営地が、ウォーカーの群れに囲まれているなんて。

***

 つんざくような金切り声が、帰路を急いでいた男たちの足を止めた。

「なんて声だよ」

 青ざめるダリル。リックはただ「なんてこった」と呟いた。

「り以子だ」

 よく通るり以子の悲鳴が闇夜に消えると、続いてけたたましい銃声が何発も轟いた。野営地が襲われた──自分たちの留守中に。

「行くぞ!急げ!」グレンが叫んだ。

***

 逃げ惑う女性と子供を守るように、武器を持った男性陣が前線に飛び出していった。ジムが木製のバットを振り回すのを見て、り以子もすかさず足元に置いてあった打刀を掴んだ。シェーンがショットガンで確実にウォーカーの頭を撃ち抜いていくけれど、それだけでは間に合わない。り以子の脳裏に最悪の記憶が甦る。

 ──り以子、逃げよう!
 ──でもっ……、皆が!
 ──ここにいたらうちらも死んじゃう!

 ──た、助けて……。

 り以子はハッとした。ソフィアの小さな体をかき抱いて蹲るキャロルに、一体のウォーカーが迫っている。

「ダメぇぇぇっ!」

 即座に刀を抜き、全力で斬りつけた。腐って髪の抜け落ちた灰色の頭に赤い線が深々と刻み込まれ、ウォーカーは糸が切れたように崩れ落ちた。

「下がれ下がれ!下がれ!」

 り以子が必死に銃で応戦するデールを指差すと、キャロルは泣きながらもこくこく頷いて彼の背後にしゃがみ込んだ。ホッとしている暇はない。真横からウォーカーが腕を突き出して襲いかかってくる。り以子がその手をなぎ払うように斬り、ジムがバットで頭を叩き割った。

「どうすればいいの?シェーン!」

 ローリがカールを抱えてシェーンの背中に隠れている。シェーンは「ついて来い!」と声を張り上げ、女性陣を伴ってキャンピングカーの方へ走り出した。り以子はすぐさまそれに続こうとしたが、背後からゾッとするような手が現れ、ガシッと髪の毛を掴まれた。嫌だ!助けて!──叫び、もがきながらシェーンに向かって手を伸ばす。ところが、シェーンはウォーカーが覆い被さっているり以子を一瞬チラッと見た後、振り切るように視線を外し、ローリたちを連れて行ってしまった。

 待って!置いて行かないで!

 英語なんて出て来ない。母国の言葉で滅茶苦茶に叫ぶり以子の視界が、大口を開けたウォーカーの恐ろしい顔で埋め尽くされた。

 嫌だ……死にたくない!ウォーカーになんて、なりたくない!

「放せぇぇぇ!」

 無我夢中だった。り以子は握り締めていた刀の柄を、あらん限りの力を込めて、ウォーカーのこめかみに叩き込んだ。腐った死体が横に吹っ飛ぶ。り以子はその隙に地面を転がって起き上がり、刀をしっかり構え直して、遅れて起き上がったウォーカーの眼窩めがけて真一文字に払った。

「皆、こっちに来い!」
「車に乗れ!早く!」
「り以子!り以子どこだ!り以子ーっ!」

 ジムがり以子を探している声がする。しかし、皆の逃げた方向へ行こうにも、すでにウォーカーの人垣に阻まれてしまっている。り以子の側にいるのは、奴らに噛まれて弱々しく動く、死の淵に追いやられた人たちだけだ。

 ウォーカーが二体同時に迫って来た。真正面から襲ってくる一体は刀でいなして受け流したが、脇から飛び出してきた方は対処しきれず、肩に掴みかかられた。堅い指がとんでもない力でり以子の肩の骨を握り潰そうとしている。痛みのあまり声を上げたり以子の目に、さっき受け流したウォーカーが身を翻して向かってくるのが見えた。

 その時、離れたところの木々の合間から、ドンドンと咆哮のような銃声を鳴らして、リックたちが駆け込んできた。四本の新しい銃が次々にウォーカーの頭を吹き飛ばしていく。

「やめろーっ!」

 グレンの放った一発が、り以子を顔から食べようとしていたウォーカーのこめかみに入って抜けていった。り以子はすぐさま死体を振りほどき、もう一体めがけて刀を払った。肩から腰へ袈裟懸けに斬りつけると、目前のウォーカーは体幹の大事な部分を失い、ぴくりとも動けなくなった。そこで容赦のない突きを出す。切っ先はウォーカーの顔面を貫通したが、勢い余ってその向こうの木にぐさりと突き刺さった。しまったと思った時にはもう遅い。引き抜くこともできず、次のウォーカーに横から飛びつかれ、悲鳴を残して地面になぎ倒された。

 ショットガンの弾が尽き、ダリルが銃床でウォーカーを殴り殺している。リックは拳銃で邪魔なウォーカーを撃ち抜くと、必死に息子の名を呼んだ。

「戻ったぞ!カール!」
「パパ!」
「カール!」

 リックは泣き叫んで駆け寄ってきたカールを抱き留め、もう一方の腕でローリを抱き寄せた。

 自分の上で事切れたウォーカーを蹴りのける。り以子がゼェゼェ喘ぎながらのそりと起き上がると、目の前に、泥で汚れた二本の脚が現れた。り以子は茫然と顔を上げ、無言でじっと自分を見下ろしている鋭い二つの目を見た。

 人だ。生きた、人間。死んでない。
 途端に、温かいものがドッと胸になだれ込んでくるのを感じた。

 り以子はそれが誰かよく分からないまま、その腰に飛びついた。泥と血と汗の臭いがする。がっしりした体が驚いたようにびくっとしたのが分かったが、構わず顔を押しつけた。ああ、私……生きてる。全身が震えていた。目が熱くなって、目玉に水の膜が張った。瞼をギュッと閉じると、それはぽろりと頬に零れ落ちた。震えるり以子の背中に、躊躇いがちに大きな手が触れて、あやすように微かに跳ねた。

 地面に転がり落ちたウォーカーの頭からは、脇差の柄が飛び出していた。

 今やウォーカーの全てが地に伏していたが、誰もがまだ警戒を解けないでいた。同時に、そのあまりの惨状に言葉が出なかった。今朝まで限られた状況の中でひたむきに日常を送っていたはずの人々が、ウォーカーの死体に紛れて死んでいる。キャンピングカーの足元で、アンドレアが血の海に沈むエイミーを揺さぶって悲しい慟哭を上げていた。

「俺が穴を掘ったのは、このためだったのか」

 地獄と化した野営地を見渡して、ジムが愕然と呟いた。